火山としての富士山
日本列島の地下では,太平洋の海底をつくる岩盤(太平洋プレート)が日本列島下に沈み込むことが原因で,大量のマグマが発生しています.このマグマは徐々に上昇し,地表に達した部分に火山のつらなりである火山弧(かざんこ)を形成しています(火山帯という言い方は,最近は使いません).この火山弧は北海道から東北地方を通り,浅間山付近から南に折れ,八ヶ岳―富士山―伊豆半島の上を通って,伊豆七島―硫黄島火山列へと続いています.富士山は,この火山弧上にできた日本最大級の火山(富士火山)です.
火山には,大きくわけて単成火山と複成火山とがあります.単成火山は,同じ火道(かどう:マグマの通り道のこと)を一回だけ使用して噴火し,小型の火山体を形成する火山です.これに対し,複成火山は同じ火道を何回も使用して噴火し,大型の火山体を成長させる火山です.富士火山は,美しい円すい形の山体によって特徴づけられた成層火山(または大円すい火山)とよばれるタイプの複成火山です(図1).
図1 富士火山の地形と側火山分布(宮地直道による).等高線間隔は100m.黒く塗りつぶしたものが側火山.
富士火山の山体表面には,側火山(そっかざん)とよばれる小さな単成火山が群れをなしており,それらはほぼ北西―南東方向に集中した分布をみせています(図1).このような北西―南東方向の側火山のならびは,富士火山のほかに伊豆大島火山などにも見ることができます.
このような側火山のならびは,火山の地下にある割れ目の方向をあらわすものと考えられています.富士山付近の地殻は,北西―南東方向に圧縮力が加わっており,その圧縮力に並行した割れ目ができやすい状態にあります.このような地殻にマグマが侵入した場合,北西―南東方向の割れ目が生じ,それに沿った側火山のならびが生じたと考えられています.
日本では,過去2000年間に噴火した証拠がある火山(および噴火の証拠はないけれど噴気活動が活発な火山)が,「活火山」として定義されています(休火山という言い方は,今では使いません).現在,気象庁によって日本全国にある83の活火山が認定されています.富士火山もこのような活火山のひとつです.
噴火の歴史
富士火山は,小御岳(こみたけ)火山という古い火山をおおって10万年ほど前に誕生しました(図2).その後,大規模な山体の崩壊期をへた後,およそ1万年前から現在みられる美しい山体を成長させました.山麓に残されているおびただしい量の火山灰・火山れき・溶岩流などの噴火たい積物から,富士火山の噴火の歴史をさぐることができます(写真1).野外での地質調査をつうじて,噴火たい積物の重なる順序をしらべることにより,過去10万年間の富士火山の噴火史が明らかにされています(図3).
図2 富士火山の内部構造をあらわした模式断面図(津屋弘逹による).通常は,古富士火山と新富士火山とをあわせて富士火山とよぶ.
写真1 富士山麓に残されている噴火たい積物の例.1枚1枚の地層が,それぞれ1回の噴火に相当する.ここにみられるものの多くは,噴火によって空中に放出された火山灰粒子がつもってできた降下火山灰層であり,一部に土石流や岩なだれの堆積物をはさんでいる.1枚1枚の噴火たい積物の厚さ・粒径・分布・特徴をしらべることにより,富士山の噴火の歴史を解きあかすことができる.小山町須走.
図3 富士火山の地質図(宮地直道による).
噴火史上のおもな大事件を述べると,今から1万1000年〜8000年ほど前には大量(40立方km)の溶岩が流出し,その一部は現在の三島市や山梨県大月市の猿橋ふきんにまで達しました.この時の溶岩の一部(三島溶岩)を,東海道新幹線三島駅の北口ふきんの道路ぞいで観察することができます.有名な柿田川の湧水は,この溶岩流の中の空洞をつたわってきた地下水が,溶岩流の末端からわき出たものです.
およそ3000年前におきた大噴火では,静岡市ふきんにも火山砂れきの雨(大沢スコリア)がふりそそぎました.今でも静岡市内の保存のよい場所では,地中に1cmほどの厚さのこの火山砂れきの層を観察することができます.
今から2500年前には富士山の東斜面が大規模な山体崩壊をおこし,崩落した土石がなだれ(御殿場岩なだれ)となって東側の山麓を埋めつくしました.現在の御殿場市や小山町一帯で,このときの堆積物をみることができます(写真2).
写真2 およそ2500年前の富士山の山体崩壊によって生じた岩なだれのたい積物(御殿場岩なだれ).崖の高さは約3m.黒色や茶色の斑点状をしたブロックは,もとの山体上にあった火山灰層の一部が,あまり変形を受けずに運ばれてきたもの.小山町竹之下.
人間が書きとめた富士山の噴火や噴煙の記録が,8世紀からさまざまな文書に残されています.よく知られた万葉集や竹取物語,更級日記にも富士山の噴火や噴煙の記録が残されています.これらの記録から,歴史時代においても富士火山が活発な噴火をくりかえしてきたことがわかります.その中でもとりわけ大規模だった3つの噴火を紹介しましょう.
800年の大噴火
平安時代の延暦(えんりゃく)十九年(800年)には,富士山のすくなくとも2ヶ所(北西山腹の天神山ふきんと,東山腹の小富士の西側)で割れ目噴火がおきました.この噴火によって,おもに山梨県側に火山灰と溶岩流による被害がもたらされました.この噴火が原因となって当時の東海道の場所が変更された話は有名です.
864年の大噴火
平安時代の貞観(じょうがん)六年(864年)には富士山の北西山腹にある長尾山ふきんで大規模な割れ目噴火がおき,このとき流出した0.16立方kmにおよぶ青木ヶ原溶岩(写真3)のせき止めによって,本栖湖(もとすこ)・精進湖(しょうじこ)・西湖(さいこ)の3湖が現在のような形として誕生しました.これら3湖は,青木ヶ原溶岩によって分断される以前は,ひとつの大きな湖(せのうみ)だったのです.その証拠のひとつとして,これら3湖の湖水面の海抜高度が等しいことがよく知られています.その後,青木ヶ原溶岩の上には森林がよく成育し,青木ヶ原樹海となりました.
写真3 864年の富士山の大噴火(貞観噴火)によって生じた青木ヶ原溶岩流.灰色の部分が溶岩流の断面(厚さ10m程度).鳴沢村鳴沢.
1707年の大噴火
江戸時代の宝永(ほうえい)四年(1707年)におきた噴火(宝永噴火)は,たった半月の間に0.7立方kmのマグマが噴出するという,それまでの富士火山の噴火史上の記録をぬりかえるとても激しい噴火でした.宝永噴火は富士山の南東山腹でおきました.その時できた大きな火口(宝永火口)は,現在も遠くからよく見えます(写真4).
写真4 富士市田子の浦付近から見た富士山.右手山腹(南東斜面)に口を開いた宝永火口がよく見える.
宝永噴火は,東麓の須走(すばしり)で2m(写真5),横浜でも10cmほどの厚さの火山灰をたい積させた大噴火でした(図4).その頃江戸に住んでいた新井白石の日記によると,この降灰によって昼でも行灯をつけなければいけないほど空が暗くなったそうです.
宝永噴火は,同じ年におきた東海地震(宝永東海地震,マグニチュード8.4)のわずか49日後におきたため,地震が引き金となって噴火がおきた例と考えられています.宝永噴火の後およそ300年の間,富士山はみかけ上の沈黙を保っています.
写真5 1707年12月の富士山の大噴火(宝永噴火)によって生じた降下火山れき層.崖の高さは約3m.宝永噴火では,初期に白色の軽石が降ったのち,黒色の玄武岩質火山れき(スコリア)が降り続いたことが記録からわかっている.中部にある厚さ15cmの白色層の底面が宝永噴火直前(1707年12月16日)の地表面であり,白色層が宝永噴火の初期に降った軽石,その上位の厚さ2.5mのしましまの黒色層が軽石の後に降ったスコリアである.小山町須走.
図4 富士火山の1707年噴火(宝永噴火)によって放出された火山灰の分布(宮地直道による).火山灰の厚さが等しい場所をむすんだもの(等層厚線図).厚さの単位はcm.▲が富士山の位置.
参考文献
火山としての富士山のことをさらに深く学びたい人には,以下の文献をおすすめします.
町田 洋(著)「火山灰は語る」蒼樹書房
つじ よしのぶ(著)「富士山の噴火―万葉集から現代まで」築地書館
中村一明ほか(編著)「火山と地震の国」岩波書店
宮地直道「新富士火山の活動史」地質学雑誌,94巻,433-452頁.