富士山噴火と東海道


(月刊歴史読本1994年10月号)

小山真人

 富士山には,歴史時代の3大噴火として知られる噴火がある.それらは古い順に,延暦19〜21年(西暦800〜802年),貞観6年(864年),宝永4年(1707年)の噴火である.

 このうち宝永噴火は,新井白石が「折たく柴の記」に残した江戸降灰の記述,新田次郎の歴史小説「怒る富士」等で有名な,富士山南東斜面で起きた爆発的噴火である.貞観噴火は,北西斜面で大量の溶岩(青木ヶ原溶岩)を流出して地形を改変し,現在の富士五湖のうちの3湖(本栖湖,精進湖,西湖)を作った.ところが,延暦噴火だけは,火口の位置や噴火の推移などの詳細がほとんどわかっていない.

 延暦噴火を歴史上の3大噴火のひとつとして数える理由は,古記録に残された噴火記述にある.『日本紀略』の延暦噴火記事として「富士山嶺自焼,晝則煙気暗冥,夜則火光照天,其聲如雷,灰下如雨,山下川水皆紅色也」とあり,降灰を主とする爆発的な噴火であったことがわかる.また,同じく『日本紀略』に「廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞路也」とある.つまり,噴石で塞がれた旧道の足柄道を捨て,新たに箱根路を開いたというのである.街道を付け替えなければならないほどの噴火なら,大噴火として数えてもよいだろうという訳である.

 街道を廃するほどの厚い火山灰であれば,その堆積物が現在も残っていることが期待される.宝永噴火の場合は,富士山東麓で2m以上もの厚さの火山灰層を今も見ることができる.ところが,延暦噴火については,その堆積物として確実に同定できるような厚い火山灰層が,富士山東麓のどこにも見当たらないのである.

 以前からこのことに疑問を感じていた筆者は,野外地質調査と歴史記録の調査にもとづく延暦噴火の研究を昨年開始した.これまでの地質調査の結果では,延暦噴火はどうやら富士山の東斜面と北西斜面の少なくとも2ヶ所の割れ目噴火として生じたらしいということがわかった.この2ヶ所の噴火割れ目からは,火山灰のほか溶岩流も流出し,主として富士山北麓の広い範囲にその被害が及んでいることがわかった.つまり,延暦噴火は,『日本紀略』の記述から予想される東麓ではなく,主として富士山北麓に被害を与えた噴火だったのである.

 富士山東麓に大した被害がなかったのに,なぜ足柄道をわざわざ箱根道へと移し替える必要があったかという疑問が,ここで生まれる.歴史学者の方々には到底受け入れることのできない非常識な見解かもしれないが,筆者は,古代東海道の一部あるいはその分岐道が富士山の北麓を通っていた可能性を真剣に検討すべきではないかと考えている.もしそうであれば,噴火堆積物の分布から考えて,延暦噴火は富士山北麓にあった街道を南麓へと移し替える十分な動機となり得るからである.

 筆者の専門外のことであるため本格的な研究というにはほど遠いが,入手可能な古記録にも目を通してみた.しかし,正史に残る延暦噴火の記述はごく限られたものであり,噴火の詳細や街道の変遷などに関して従来知られている以上の知識を得ることはできなかった.ところが,例外がひとつだけあった.延暦噴火以前の東海道が富士山北麓を通過していたことが,「宮下文書」として知られる一連の古文献には絵図付きで明記されていた.

 喜びもつかの間,「宮下文書」はいわゆる偽書であり,正当の歴史学者からは価値をまったく認めてもらえない文献であることを知った.確かに「宮下文書」には,延暦噴火の際流出した溶岩流が山梨県大月付近まで達した等の,地質学的に明らかな誤りとわかる記述がいくつか見られる.しかし,偽書とされる文献の記述すべてを誤りとして一笑に付してよいものだろうか?民間伝承や消滅文書で伝えられた一片の真実を含む可能性が,そこにはあるのかもしれない.

 以上,富士山延暦噴火について一地質学者が抱いた素朴な疑問を呈示し,ご批判を仰ぐ次第である.

(以上についての学会報告


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