小山真人(静岡大学教育学部)・早川由紀夫(群馬大学教育学部)
9世紀の伊豆七島では,838年に神津島天上山,886年に新島向山噴火があいついで噴火したというのが通説になっている.最近私たちは,伊豆大島火山の過去1450年間の噴火史を見直す過程で,この神津島と新島の2つの噴火年代の見直しもおこなった.その結果,神津島天上山が838年に噴火したと考えるのは妥当だが,新島向山が886年に噴火した確証はないと考えるに至ったので報告する.なお,この議論は小山・早川(1996)でも詳しく論じたので,それも参照してほしい.
小山・早川(1996)は,伊豆大島火山のカルデラ外側に分布するテフラ層序を見直し,カルデラ形成以降の1450年間に24回の中〜大規模噴火があったことを見出した.そのうちのN3.0と呼ぶ火山灰(Nakamura(1964)のN3メンバーにふくまれる火山灰)の上部には,外来の流紋岩質白色火山灰がはさまれている.この白色火山灰は,これまで神津島838年あるいは新島886年噴火の産物と考えられてきた(Nakamura, 1964;一色,1984).
838年神津島噴火
朝廷編纂の正史のひとつである『続日本後紀』に,次の記述がある.
「承和五年秋七月(中略)癸酉,有物如粉,従天散零,逢雨不銷,或降或止.乙亥,東方有聲,如伐太鼓(中略)庚辰,令七大寺僧卅口於紫宸殿,限三ケ日講仁王経一百巻,以怪異也」
「承和五年九月(中略)甲申,従七月至今月,河内,参河,遠江,駿河,伊豆,甲斐,武蔵,上総,美濃,飛騨,信濃,越前,加賀,越中,播磨,紀伊等十六国,一一相続言,有物如灰,従天而雨,累日不止,但雖似恠異,無有損害,今茲畿内七道,倶是豊稔五穀價賤,老農名此物米華云」
(吉川弘文館刊,新訂増補国史大系『続日本後紀』)
承和五年(838)七月に京都で東方からの鳴響や降灰があったこと,それに続いて中部・近畿・北陸・関東地方の広い範囲から降灰の報告がもたらされたことがわかる.そして,承和七年になってから,伊豆国からこの時「上津島」が噴火したとの以下の報告が届いた.
「承和七年九月(中略)乙未,伊豆國言,賀茂郡有造作嶋,本名上津嶋,此島坐阿波神,是三嶋大社本后也,又坐物忌奈乃命,即前社御子神也,新作神宮四院,石室二間,屋二間,閣室十三基,上津嶋本體,草木繁茂,東南北方巖峻{やまへん+酋}{やまへん+卒},人船不到,纔西面有泊宿之濱,今咸焼崩,与海共成陸地并沙濱二千許町,其嶋東北角有新造神院,其中有壟,高五百許丈,其周八百許丈,其形如伏鉢(中略)自餘雜物,燎{クの下に日+右側に炎}未止,不能臭注,去承和五年七月五日夜出火,上津嶋左右海中焼,炎如野火,十二童子相接取炬,下海附火,諸童子履潮如地,入地如水,震上大石,以火焼摧,炎煬達天,其状朦朧,所々{クの下に日+右側に炎}飛,其間經旬,雨灰満部,仍召集諸祝刀禰等,卜求其祟云,阿波神者,三嶋大社本后,五子相生,而後后授賜冠位,我本后未預其色,因茲我殊示恠異,將預冠位,若禰{わかんむり+且}祝等不申此崇者,出麁火將禰{わかんむり+且}等,國郡司不勞者,將亡國郡司,若成我所欲者,天下國郡平安,令産業豊登,今年七月十二日,眇望彼嶋,雲烟覆四而,都不見状,漸比戻近,雲霧霽朗,神作院岳等之類,露見其貎,斯乃神明之所感也」
(吉川弘文館刊,新訂増補国史大系『続日本後紀』)
上津島が神津島の旧名であることは,この伊豆国報告に出てくる「阿波神」と「物忌奈乃命」を祭る2つの神社が現在も神津島にあることから,ほぼ間違いない.
伊豆大島N3.0火山灰にはさまれるものと類似した流紋岩質の白色火山灰が,伊豆半島,利島,新島,式根島,三宅島でも観察でき(杉原,1984),静岡市付近でも泥炭層中に1mm程度の薄層として発見された(矢田,1994).このような白色火山灰の分布は,上述した史料中の838年降灰の分布と矛盾しない.さらに,伊豆半島の丹那盆地で発見された白色火山灰が承和八年(841)の伊豆国地震にあたると考えられている丹那断層の変位で切断されていること(丹那断層発掘調査研究グループ,1983)から考えて,この白色火山灰が838年の神津島噴火によってもたらされたと考えるのが自然である.
神津島の最上位を占める天上山噴火堆積物中の炭化木から1230±80,1260±80,1560±120,1950±110 y.B.P.の4つの14C年代が得られたことから,この白色火山灰は天上山テフラにあたるとされている(一色,1982).また,N3.0のスリバチ火口起源のスパター中の炭化木から,1130±90 y.B.P.の14C年代が得られている(一色,1984).Stuiver and Pearson (1993)によれば,790〜870年の14C年代はほとんど変動がなく,1200〜1220 y.B.P.である.
886年伊豆七島の噴火
朝廷編纂の正史のひとつ『日本三代実録』に,以下の記述がある.
「仁和二年五月(中略)廿六日甲辰,降雨,天東南有聲,如雷」
「仁和二年八月(中略)四日庚戌,勅令安房,上總,下總等國,重警不虞,先是,安房國言上,去五月廿四日夕,有黒雲,自南海群起,其中現電光,雷鳴地震,通夜不止,廿六日暁,雷電風雨,巳時天色清朗,砂石粉土遍満地上,山野田園無所不降,或所厚二三寸,或處僅蔽地,稼苗草木皆悉凋枯,馬牛食黏粉草,死斃甚多,陰陽寮占云,鬼氣御靈,忿怒成崇,彼國可愼疫癘之患,又國東南將有兵賊之亂,由是預令戒嚴」
(吉川弘文館刊,新訂増補国史大系『日本三代実録』)
仁和二年(886)五月に安房国の沖合に黒雲が上がって降灰による動植物の被害があり,その2日後に京都で東南から鳴響が聞こえたという.しかし,安房国以外からの降灰・鳴響の報告は届いていない.
朝廷編纂による正史は『日本三代実録』をもって絶えたため,仁和三年八月以降の公撰の正史は存在せず,これ以後の平安時代の天変地異記録は私選国史や公卿の日記に残された断片的なものだけとなり,情報量は激減する(本ニュースレター第6号および第9号の史料火山学研究ひとくちメモ参照).一方,私選国史である『扶桑略記』と『日本紀略』に,それぞれ以下の記述がある.
「仁和三年(中略)十一月二日辛未,伊豆國献新生嶋圖一張,見其中,神明放火,以潮所横,則如銀岳」(吉川弘文館刊,新訂増補国史大系『日本紀略』)
「仁和三年(中略)十一月二日,伊豆國献新生嶋圖一張,見其画中,神明放火,以潮所焼,則如銀岳,其頂有緑雲之氣,細事在圖中,不更記之」
(吉川弘文館刊,新訂増補国史大系『扶桑略記』)
(筆者注:下線部の文字は両史料でたしかに異なる.この一字の差は,解釈上重要と思われる.)
両記述ともに,仁和三年(887)十一月,伊豆国が「新生嶋」の図を朝廷に献上したとある.その図中には,火を放つ山として「銀岳」が描かれていた.この報告を上述の886年の安房国降灰と結びつけて「新生嶋」を新島,「銀岳」を向山と解釈し,層序学的に最上位にある新島向山テフラ中の炭化木の14C年代(1120±75 y.B.P.)も考慮して,886年に新島向山が噴火したという考えが現在の通説となっている(一色,1987).なお,Stuiver and Pearson (1993)によれば,880〜900年は,14C年代が1190 y.B.P.から1120 y.B.P.へ大きく変化していた時代である.
この通説に対し,私たちは886年の安房国降灰を必ずしも新島向山噴火と考える必要はなく,伊豆大島N3.0テフラのすぐ上にあるN2.0テフラ,あるいは新島阿土山の噴火にあたる可能性も十分あると考える.その理由は以下の通りである.
(1)上記史料中の伊豆国報告には,伊豆国が「新生嶋」の図を献上したとあるのみで,噴火年についての記載はない.また,「新生嶋」を新島の旧名と考える確かな文献史学的証拠は知られていない.
(2)新島におけるテフラ/レス層序は,上位より向山テフラ/レス2cm/阿土山テフラ/レス1cm/神津島天上山テフラ(赤崎峰富士見峠)である(吉田 浩,私信).つまり,838年の神津島天上山噴火の後,まもなく阿土山噴火(火砕サージおよび溶岩ドーム),少しおいて向山噴火(同上)がおきた.史料との対比を考える際には,阿土山噴火も考慮に入れなければならない.
(3)838年と886年の間には,伊豆七島でおきた疑いのあるいくつかの天変地異事件の記録が,朝廷編纂の正史に残っている.それらは,斉衡三年(856)八月の安房国降灰事件(『日本文徳天皇実録』),天安元年(857)七月に京都で東南から鳴響が聞こえた事件(同上史料),貞観四年(862)三月と元慶四年(880)二月に京都で東から鳴響が聞こえた事件(いずれも『日本三代実録』)である.887年以後1112年までの間は,伊豆七島に関連するとみられる天変地異記録は知られていない.ただし,上述したように887年以降の史料情報量は激減するから,記録が欠落している可能性も十分ある.
(4)伊豆大島においては,2.5cmのレス薄層をはさんでN3.0火山灰の上位をN2.0テフラがおおっている.N2.0のレスクロノメトリー年代は869年であるから(小山・早川,1996),9世紀の史料との対比を考える上で考慮から外せない.N3.0火山灰はおもに南西に分布軸をもつのに対し,N2.0テフラは安房国のある北東への分布軸をもつから(小山・早川,1996),安房国に降灰することが可能と思われる.
結局,現時点では伊豆大島N2.0テフラ,新島阿土山,新島向山の噴火が,それぞれどの事件に対応するのか(あるいは対応しないのか)を確定するには情報が不足している.なお,神津島天上山テフラと新島向山テフラの岩石学的性質はほぼ同じであり,それによる両者の区別は困難である(杉原,1984).
まとめ
伊豆大島火山起源のN3.0火山灰中にはさまれる外来の流紋岩質白色火山灰は,838年の神津島天上山噴火によってもたらされたと考えられる.886年の安房国降灰記録は,新島向山の噴火であるとは限らず,伊豆大島N2.0テフラあるいは新島阿土山の噴火を記録した可能性もつよい.
なお,現在の房総半島南部において,886年安房国降灰に対応するテフラは見つかっていない.安房国降灰は,動植物に被害はあたえたけれども,地層として残らない程度の小規模な降灰だったのだろう.ただし,房総半島南部に湿地や池の堆積物があるなら,それにはさまれるテフラの有無や特徴を今後重点的に調査する必要がある.
文 献