九重火山の歴史噴火記録の再検討
地質調査所 鎌田浩毅・井村隆介
はじめに
1995年10月11日夕刻,中部九州の九重火山が噴火した.この噴火によって,ほぼ東西
にならんだ火口列が星生山中腹の通称硫黄山と呼ばれる付近に生じた.噴煙は上空約
1000mに達して,その降灰は大分県久住町や熊本県南小国町のほか,南西に約60km離
れた熊本市でも観測された.
九重火山は阿蘇火山の北東,由布・鶴見火山の南西に位置し,急峻な溶岩ドーム群と
いくつかの小型成層火山で構成される.九重火山は約15万年前から噴火を繰り返して
きた活火山で,もっとも新しい規模の大きな噴火は,約1700年前に黒岳溶岩ドームを
形成した噴火である(鎌田,1996).
九重火山の歴史時代の活動記録については,これまでにもいくつかまとめられてきた
(福岡管区気象台,1965;村山,1990など)が,鎌田(1991)と鎌田・小林(1992)
はこれらを整理し,1738年・1675年・1662年の3つの記録が噴火を記述したものと考
えた.現在私たちは,できるだけこれらの史料の原典にあたると同時に,これらの記
録に見られる火山現象の再検討を行っている.以下にその概要を紹介したい.なお,
この内容は来春の合同学会で発表する予定である.
噴火記録の再検討
九重火山の噴火あるいは異常の記録としては,享和三年(1803年),寛保二年(1742
年),元文三年(1738年),延宝三年(1675年),寛文三年(1663年)あるいは寛文
二年(1662年)のものが一般には知られている(福岡管区気象台,1965;村山,1990
)が,今回私たちは新たに安永六年(1777年)の記録を大分県立先哲史料館の赤峯重
信氏の協力によって得ることができた.
(1)享和三年(1803年)の記録について
享和三年(1803年)に九重山に異常があったとする根拠は,『豊後国志』にある一節
「其西北日硫黄山,常有火云々」である(福岡管区気象台,1965).『豊後国志』は
,寛政十年(1798年)に岡藩主中川久持の命によって編纂がおこなわれた豊後一国の
地誌で,全9巻からなり,享和三年(1803)に完成している(大分県,1983).『豊
後国志』の原典にはあたることができなかったが,福岡管区気象台(1965)に引用さ
れた一節と同様の記述は,1907年に大分県によって編纂された地誌・歴史書『豊国小
志』に見ることができる.『豊国小志』の第五十二章,第四,九重山には「前嶽の後
に当るを三又山と云う.其西北を硫黄山と云う.常に火あり.」という記述がある.
『豊後国志』と『豊国小志』の記述が一致すること,『豊国小志』が大分県内の旧記
や古文書等を集めて作られたものであることから,『豊国小志』の硫黄山の記述は『
豊後国志』の焼き直しであると考えられる.これらの記述の中には,享和三年(1803
年)に硫黄山に噴火あるいは異常があったとは書かれていないから,1803年に異常が
あったという福岡管区気象台(1965)の記載は,『豊後国志』の成立年と「常に火(
噴気)がある」という記述を誤って解釈したものと考えられる.
(2)安永六年(1777年)の記録について
大分県立先哲史料館の赤峯重信氏は,安永六年酉七月に九重火山の硫黄山において異
常があったことを記録した史料を発見した.これは国東半島にあった下岐部村(現在
の東国東郡国見町)の庄屋(有永氏)の文書であり,日田郡代→四日市役所→下岐部
村庄屋(有永氏)と,天領内に通達した触れ書きの写しの一部である.そこには「玖
珠郡田野村硫黄山此度火耕吹出候間望之者入札仕候様被仰觸承知仕候村方相糺候処入
札望人無御座候依之書付を以申上候以上」とある.この中で,「火耕」のそのままの
意味は焼畑であるが,近世文書では音を借りる当字が多いのでクワコウと読むと考え
るとこれは火口の意にもとれ,続いて「吹出」と続くことから,これらの一連の記述
は硫黄山における噴火活動を示している可能性もある.しかしながら,硫黄採取の希
望と考えられる「望之者」や「入札」という記述が見られることから判断すると,17
77年に硫黄山周辺で噴火があったというよりも,この前後の噴気活動に変化(たとえ
ば溶融硫黄の流出など)があった程度と考えるべきであろう.
(3)寛保二年(1742年)の記録について
寛保二年正月八日(1742年2月12日)の異常(硫黄流出,噴気多量)は,震災予防調
査会(1918)に記載された「硫黄坑より吹き抜く(今村理学博士の調査による)」に
依っている(福岡管区気象台,1965;村山,1990).今村がどのような原典にあたっ
たのかは記載がないためわからないが,異常の日付が後述する寛文二年(1662年)の
記事と同じ「正月八日」であること,1742年に近い宝暦九年(1759年)に書かれたと
考えられる『皆田家宝暦九年の旧記録』に1742年の記述がないことから,今村が寛保
二年と寛文二年を取り間違えたのではないかと推察される.
(4)元文三年(1738年)の記録について
今回の九重山の噴火が257年ぶりの噴火と呼ばれるのは,『皆田家宝暦九年の旧記録
』の中の記述がもとになっている(原文は準備中の論文に掲載).
震災予防調査会(1941)はこの記録から「豊後九重山に新火口を生じ,熱泥沸騰す」
と解釈し,それ以降,九重山の最新の本格的な噴火は1738年であると考えられてきた
(たとえば,村山,1990や最近のマスコミによる報道).『皆田家宝暦九年の旧記録
』(この記録がどのような素性の史料かは定かでないが,内容から見て,おそらく久
住村の旧家に残る史料で宝暦九年(1759年)に成立したものと推察される)には,「
吹ほき灰を立」という言葉は用いられているものの,その内容を詳しく見ると,広い
範囲に降灰したという記述はなく,これまでの噴気地帯(寛文二年正月八日に「燃ぬ
け」たところ)から戌亥(北西)にわずかに五間(約9m)離れたところに直径七間(
約12.6m)程度の吹ほき口(噴気口?)が生じて,灰色の熱湯が噴き出していたとい
うことが書かれているだけである.この史料を見る限り,「豊後九重山に新火口を生
じ」という震災予防調査会(1941)の解釈はかなりの拡大解釈であると言え,この時
に噴火があったとは言い難い.実際には1738年に九重の硫黄山でやや規模の大きい噴
気の突出があったと考えるのが妥当であろう.
(5)延宝三年(1675年)の記録について
延宝三年(1675年)に九重山で噴火があったとする根拠は,前出『皆田家宝暦九年の
旧記録』にある一節「延寶三年五月に燃ぬけ硫黄稠敷出」だけである(震災予防調査
会,1941).この一節には「燃ぬけ」という言葉が見られるものの,硫黄が大量に出
たことしか書かれていないこと,また,『皆田家宝暦九年の旧記録』の記述の中で延
寶三年の扱いが小さいことから判断すると,この記録から積極的に噴火があったとい
うことは難しく,1738年と同様あるいはそれ以下の規模の噴気の突出事件を記載した
ものであると推定される.
(6)寛文三年(1663年)の記録について
震災予防調査会(1941)や理科年表(国立天文台編,1995)は,1663年に九重山に噴
火があったとしている.理科年表についてはその根拠が不明であるが,震災予防調査
会(1941)には今村が『皆田家宝暦九年の旧記録』における寛文二年の記述を三年の
誤りとしたことが記されている.後述するように,寛文二年の記述は複数存在するこ
とから,今村が『皆田家宝暦九年の旧記録』の寛文二年の記事を三年と誤って記載し
たものと考えられる.
(7)寛文二年(1662年)の記録について
加藤(1953)は,(a)『岡藩小史』, (b)『九重山記』, (c)『竹田領郷中覚
書』の3史料中に,寛文二年正月八日(1662年2月26日)の九重火山の噴火が記録され
ているとした.これらに(d)前出『皆田家宝暦九年の旧記録』を加えたものが,私
たちが知り得た1662年の記録のすべてである.
(a)『岡藩小史』
『岡藩小史』は九重火山の東南にある岡藩の歴史書である.私たちは大分県立図書館
で明治10年2月に書き写された写本を確認した.「寛文二年正月八日九重山火を発し
て硫黄燃ゆ.三月七日九重山に池水新たに湧出す.往昔より在る池水怱ち涸れて二池
となる.世に古池新池という」という記述が認められた.
(b)『九重山記』
『九重山記』は後櫻町天皇の明和七年(1770年)竜泉山英雄師によって書かれたとさ
れている.私たちは原典にはあたれていないが,龍(1953)には『九重山記』の原文
(漢文)が転載されている(原文は準備中の論文に掲載).
(c)『竹田領郷中覚書』
私たちは原典にあたれていないが,加藤(1953)は「寛文二年正月八日硫黄山が大爆
発し,四月三日杵築藩主松平市正英親の家臣野田権左衛門と云う者がこれを見分に来
た」という『竹田領郷中覚書』の口語訳を紹介している.
(d)『皆田家宝暦九年の旧記録』
「此處寛文二年正月八日燃ぬけ申候處,是より五間程戌亥の方へ・・・」という記述
がある.
加藤(1953)は,(b)を硫黄山の噴火を示す重要なものと考えた.しかし,これは1
662年から100年以上隔てたあとに書かれた史料であり,実際の記事からは寛文二年と
いう年代を特定することもできない.また,「忽然火起,烈焔十二道,凌空轟々焉(
烈しい炎が12条空高く直立した;龍による口語訳)」ということであるが,12という
数字はその記述のあとにくる「十二所大明神」や「応化諸尊而合本身則為十二面」な
どのマジックナンバーであること,その記述の前後に宗教色の強い内容が見られるこ
となどから判断すると,この記事から火山活動の内容を議論することはかなり危険で
ある.現時点で原典にあたれていない(c)についての評価はできないが,(a)と(
d)の記述はこれまで見てきた歴史記録と大差はない.とはいえ,1662年の活動につ
いては,複数の記録が残されていることから,他の時期の活動よりは規模が大きかっ
たと推定される.
考察とまとめ
上記(1)から(7)の活動について,私たちが得た記録を見る限り,マグマが噴出し
たと積極的に解釈できるものはない.特に(3)と(6)は記録を転記する際の誤り,
(1)は記録の解釈の誤りと考えられる. それ以外のものも噴気地帯における異常を
記録しただけのものである可能性が高い.
(2),(4)および(5)などに当時としては山奥にあった硫黄山周辺での小規模な
活動が詳しく記載されている背景には,硫黄山の硫黄が重要な資源であったこと(室
町時代にはすでに採取されていた;大分県,1983)にくわえ,硫黄山が久住村(肥後
領)・有氏村(岡領)・田野村(森領)の境界付近に位置していたことがあげられる
(この付近の境界をめぐっては寛永九年(1632年)に上記三村で出入りがあった;大
分県,1983).記録に硫黄の採掘権や水利権に関する記述が多いのはそのためであろう.
寛文二年(1662年)の活動は複数の記述が認められることから,(2),(4)および
(5)の活動に比べれば,規模が大きかったと考えられる.とはいえ,同じ頃の阿蘇
火山の噴火記録には「火石・黒煙」などの噴火を示す直接的な言葉が頻繁にみられる
のに対して,1662年の九重火山の記事にはそれがみられないこと,隣接する阿蘇火山
の降灰(ヨナ)に悩ませれていた人達がこの時の活動による降灰の記載をまったくし
ていないことから考えると,この1662年の活動も噴火と言うよりもやや規模の大きい
噴気突出事件であった可能性が高い.
以上のように,これまで九重火山の噴火記録とされていたものの多くは,“噴火”で
はなく,噴気地帯の小規模な爆発あるいは噴気突出事件を記述したものと考えられる
.それゆえ,従来の噴気地帯から数100m離れた地点に新たな火口列をつくり,周辺地
域にうっすらと積もる程度に降灰させた九重火山の1995年の活動は,257年ぶりと言
うよりもむしろ,有史以来初めての噴火と言えるものであった可能性が高い.
文献
福岡管区気象台(1965)九重山.福岡管区気象台要報,20,3-4.
加藤数功(1953)硫黄山の煙.加藤数功・立石敏雄編『九重風物志』,130-151.
鎌田浩毅(1991)テフラの14C年代により明らかにされた九重火山の噴火史.日本火
山学会秋季大会演旨,71.
鎌田浩毅(1996)宮原地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調
査所,印刷中.
鎌田浩毅・小林哲夫(1992)九重火山の地質と完新世における噴火活動史.日本地質
学会第99年大会(熊本)演旨集,415.
国立天文台編(1995)理科年表平成8年版.丸善,東京,1043p.
村山 磐(1990)九重山.日本の火山(III)増補版,大明堂,東京,3-4.
大分県(1907)九重山.豊国小志,大分県,214-215.(復刻版,1979,文献出版)
大分県(1983)九重硫黄山.大分県史近世篇I,大分県,531-533.
大分県(1990)『豊後国志』の編纂.大分県史近世篇IV,大分県,34-46.
震災予防調査会(1918)九重山(星生山)噴出.震災予防調査会報告,86,203.(
日本噴火志上編)
震災予防調査会(1941)増訂大日本地震史料第二巻.754p.(復刻版,1975,鳴鳳社)
龍 吉松(1953) 九重山記を註解するに当って.加藤数功・立石敏雄編『九重風物
志』,304-323.