(「UP」1996年3月号,東大出版会)
小山真人(静岡大学教育学部)
1596年京阪神大地震
文禄五年(慶長元年)閏七月十三日(1596年9月5日)未明,主として畿内(すなわち山城,大和,摂津,河内,和泉)に甚大な被害をもたらす地震がおきた.豊臣秀吉のいた京都伏見城天守閣が大破し(伏見城の圧死者600人という),秀吉は命からがら外へ避難したという有名な地震である.この地震をおこした震源断層の位置は確定しておらず,伏見から奈良盆地西縁の活断層帯や,大阪府北部から兵庫県南部にかけての有馬-高槻構造線が疑われているが,四国東部の中央構造線を主断層としたマグニチュード8クラスの地震であった可能性も指摘されている.
さて,この地震前の文禄五年六月二十七日と地震直後の閏七月十五日との二回,京都から堺にかけての広い範囲で原因不明の降灰事件があったことを,事件を直接体験した僧侶・公卿・宣教師の複数の日記や報告書が伝えている.以下に述べるこの事件は,偏西風が強まる冬期でないこと,かなりの降下量であったこと,「火山毛」らしきものも降ったことから,大陸からの黄砂によるものとは考えにくい.近畿・中国・四国地方には活動的な火山が存在しないから,近畿地方で降灰があったということは,かなりの規模の火山噴火が遠方でおきたことを物語っている.しかし,これまでこの事件に注目した火山学者はほとんどいなかった.
謎の降灰,そして「降毛」
京都市伏見区にある醍醐寺の当時の座主であった義演の著した『義演准后日記』によれば,文禄五年六月二十七日の正午から,京都で土器の粉のようなものが雨のように四方を曇らせて降り始め,草木に積もって大地は霜の朝のように白くなった.降り積もった灰は少なくとも二日後まで観察できた.当時の公卿たちの日記である『舜旧記』や『孝亮宿禰日次記』にも同様の降灰記録がある.また,宣教師たちの記録によれば,この灰は大阪と堺にも降り,降灰時に空は日食時のように暗くなり,京都と伏見の降灰は終日続いたという.
降灰の2日後の六月二十九日,京都の北西の空に彗星が出現し,以後2週間ほど見えていた.現代を生きる私たちは,彗星は地球外の現象であり,降灰と何の関係もないことを知っているが,当時の人々は凶事の前ぶれではないかと恐れた.翌七月下旬,義演は,彗星の出現がもたらす凶事を祓うための祈祷を京都御所清涼殿でとりおこなっている.しかし,その甲斐もなく,翌月の閏七月十三日未明,人々の不安が的中した形で先に述べた大地震が発生したのである.
地震発生による混乱のさなかの閏七月十五日に,京都でいっそう奇妙な事件がおきた.天から毛髪のようなものが降った,というのである.『義演准后日記』によれば,その毛は馬の尾に似ており,長さは五,六寸〜一,二尺,色は白・黒・赤であった.他の史料にも似たような記載がある.それらの記載から判断して,この毛は「火山毛」に間違いないと思われる.火山毛は,噴火の際に粘性の小さいマグマが火口内で細長く引き伸ばされてできるものであり,ハワイのキラウエア火山では火山神の名にちなんで「ペレーの毛」と呼ばれている.
秀吉が発布した伴天連追放令に悩んでいた宣教師たちは,畿内を襲った大地震は神が秀吉の傲慢さに対してくだした天罰であり,降灰と彗星の出現は神がその前兆を示したものだとする長い手紙を本国に書いた.しかしながら,大地震の発生後も宣教師およびキリスト教徒たちの運命は好転しなかった.悲惨な「二十六聖人殉教事件」がおきたのは,この年の冬であった.
火山灰・火山毛はどこからきたのか?
1596年の畿内降灰・降毛事件を浅間火山の噴火のせいだとする見解は古くからあり,安土桃山〜江戸初期の数少ない基本史料のひとつとされる『当代記』には,「閏七月浅間焔西へころぶ,この故か近江京伏見に降灰,信濃降灰一寸,関東不降」とある.しかし,『当代記』は確かな著者や成立時期が不明とされる上,他の基本史料に記されていない疑わしい天変地異記事が多いため,降灰が浅間起源だという記述の信頼性には疑問が残る.
さらに,浅間火山周辺の地質学的調査からは,浅間山の北東側に分布する1枚の小規模な降下軽石のほかには,この時代に噴火した堆積物が見つかっていない.山麓に堆積物として残らないような小規模な噴火がおきた可能性も否定できないが,日本の上空には偏西風が卓越しているので,浅間山からみて西南西に位置し距離も離れている京阪神地方に,そのような小規模噴火による火山灰が(日食のように空が暗くなって,終日)降り続くとは考えにくい.降灰・降毛事件の前後に台風などの通過によって強い東風が吹く気象条件が生じた事実がないことも,日々の天候を記載した当時の日記から確かめることができる.
別の候補としては,畿内により近い石川・岐阜県境にある白山火山に,1572,1582,1599,1600年などの噴火・鳴動事件の記録がある.また,1779年の安永桜島噴火の火山灰が奈良県や長野県に降った事実が知られているように,九州の火山の大噴火による灰が,偏西風の影響で遠く東方に運ばれることもある.1596年に近い時期には,霧島(1596,1598〜1600年)と阿蘇(1592,1598年)の噴火記録が知られている.しかしながら,これらの火山の異常を記述した史料はいずれも18世紀以降に成立したものであり,噴火の存在そのものに検討の余地があるし,該当しそうな噴火堆積物も知られていない.
日本以外の火山から,その火山灰が偏西風にのって日本に降り積もる場合があることも知られている.中朝国境にある白頭山が10世紀に大噴火した際の火山灰は,日本海を越えて北海道南部〜東北地方北部に降り積もり,現在も地層中に観察できるほど厚みがある.中国東北部から朝鮮において歴史噴火記録が知られる火山として,白頭山以外には,五大連池(中国東北部),済州島の2火山があるが,16〜17世紀の噴火記録は白頭山のみに知られている.李氏朝鮮の正史である『李朝実録』には白頭山の1597年10月の噴火記録が記されており,爆発的な噴火であったことがわかるが,1596年の噴火記録は知られていない.当時の朝鮮国内は豊臣秀吉の侵略が引きおこした混乱状態にあったから,噴火があったとしても辺境の天変地異記録は保存されにくかったかもしれない.
結局,1596年の畿内降灰・降毛事件の給源を浅間火山とする通説は疑わしいが,現段階でたしかな給源火山を特定することはできていない.今後,さらに詳しい史料調査,畿内の湖や湿地の堆積物に対する地質学的調査などが必要である.
降灰は大地震の前兆か?
1596年当時の宣教師たちは,大地震に先立つ降灰を神の示した前兆と考えたが,このことを現代科学の立場から再考してみよう.
日本や世界の各地で,大地震の前後に近隣の火山が噴火した例が古くから指摘されている.1707年の宝永東海地震(マグニチュード8.4)の直後に富士山が大噴火をおこした例が,とくに有名である.このような地震と火山噴火の連動とも言える現象は,地震に先立つ地殻ひずみの蓄積,あるいは地震の結果として生じた地殻ひずみの急激な変化(あるいは地震動そのもの)が,火山下にあるマグマだまりに刺激を与えた結果として説明されている.
地殻ひずみの蓄積と解放という視点から大地震や火山噴火を考えるためには,地殻ひずみ発生の根本原因を考えることが不可欠である.石橋(1995)は,西南〜中部日本から日本海東縁にかけての地域を一連の変動帯としてとらえ,プレート運動による地殻ひずみの蓄積によってこの変動帯に地震活動期が繰り返しおとずれると考えた.そして,このような地震活動期が過去何度か起きており,上述した1596年地震も16世紀なかばから17世紀初頭にかけての地震活動期中の一事件であったと考えた.さらに石橋は,現在ふたたびその活動期に入っており,その結果として最近の雲仙火山の噴火や兵庫県南部地震が生じたと考えられること,今後もこの変動帯にいくつかの大地震や火山噴火がおこり得ることを指摘した.その指摘を裏づけるように,1995年10月11日に九州の九重火山が噴火した.
以上のような視点に立って見れば,1596年の京阪神大地震の前後におきた謎の降灰事件は,地殻ひずみの臨界状態を反映した火山噴火であった可能性がつよい.この降灰の給源火山を確定し,その噴火の詳細な様相や地震との具体的関連性をさぐることは,現代を生きる私たちの行く末にも関係した興味深い問題なのである.
歴史記録と日本の火山学
以上,史料中のひとつの些細な天変地異記述であっても,それを火山学者がそれなりの問題意識をもって見た場合には,将来予測にも通じる興味深い考察と結論がみちびかれ得ることを示した.このような観点からの歴史記録の収集と見直しは明治時代に着手され,戦前には噴火史料集が作られたりしたが,戦後になってほとんど途絶えていた.一方,地震学者による地震史料の収集・解析は戦後も系統的に継続され,一定の成果が挙げられている.この点において,火山学は地震学に大きな遅れをとっている.
現代火山学の視点に立って史料解読がなされる場合,考えられる成果としては,たとえば次のようなものがあろう.
1)日本においては,過去2000年間に噴火した証拠のある(あるいは噴火の証拠がないけれども噴気活動が盛んな)火山が,気象庁によって83の活火山として認定されている.しかし,噴火の証拠とされる記録にはかなり怪しげなものも混ざっているし,逆に活火山とされていない火山から歴史時代の噴火堆積物が発見された例もある(早川,1994).史料調査から噴火の存在や様相を明らかにし,活火山とそうでない火山をきちんとみきわめ,その危険度を適切に評価することは,防災上の観点から重要である.
2)火山噴火の証拠は噴火堆積物として残ることが多いので,火山山麓の丹念な地質学的調査によって噴火の年代・様相・推移を追うことができる.こうした堆積物による噴火史研究は近年めざましい進歩を遂げている.しかし,その一方で,堆積物によって噴火史が十分検討されたと考えられていた火山においても,史料中の噴火記述を詳しく解析することによって,堆積物からはふつう得られない高精度の情報が得られることがある.最近,このような試みがなされた1783年の浅間火山天明噴火においては,通説となっていた噴火推移に大幅な変更を加える必要があることが示された(田村・早川,1995).
3)日本や中国・朝鮮の古記録には,先に述べた1596年の例以外にも多数の原因不明の降灰・降毛,日色・月色の異常,空中鳴響事件の記録が残されているが,十分な検討はなされていない.その中から,日本のみならずアジアや北半球でおきた未知の大噴火が発見される可能性がある.
最近,筆者をふくめて,このような問題意識をもつ火山学者が集まり,日本火山学会内に「史料火山学ワーキンググループ」を結成した.参加した火山学者の各自が興味をもつ火山や噴火について史料の収集・判読・解析作業を始めているが,困難も多い.理科系の教育を受けてきた者がほとんどで,歴史の知識を一から勉強しつつ普段とまったく勝手の異なる作業をおこなっている.歴史学者の方々の中で,私たちの問題意識や作業に賛同し,協力・助言していただける方が現れるのを心待ちにしている.
文 献