地球惑星科学関連学会1994年合同大会(日本火山学会固有セッション)予稿.
小山真人(静岡大学教育学部)
噴火堆積物の野外調査と古記録の解析にもとづいて,富士火山の奈良〜平安時代の噴火事件の様相を検討した結果,古代東海道は富士山の北麓を通っていた可能性がつよいと考えるに至った.
問題提起―よくわからない延暦噴火
富士火山の延暦噴火(800〜802年)は,日本後紀の「灰が雨のように降り,山や川は紅に染まった」「砕石が道を塞いだため,足柄路を廃して箱根路を開いた」等の記述内容から,青木ヶ原溶岩流を流した貞観噴火(864年)や宝永噴火(1707年)とならぶ富士火山の歴史時代の3大噴火とみなされてきた.ところが実際の富士山東麓では,宝永スコリアとおよそ2000年前の湯船第2スコリアとの間に小規模なテフラ(湯船第3スコリア群)が10枚程度はさまれるのみであり(上杉ほか,1987,第四紀研究),足柄路を埋めつくしたはずの噴火堆積物との対応関係は明確でなく(町田,1992,同文書院),各テフラの詳細な分布も不明であった.
噴火堆積物の層序と分布
小山町須走から富士吉田口登山道にいたる富士山東麓〜北麓の海抜1200〜2000mの範囲のテフラ調査をおこなった.積雪が多く植生の乏しい斜面のために流水や土石流による浸食不整合が多く,テフラ層序がよく保存された露頭の数は限られている.最上部の層序は,上位より1)宝永スコリア(東麓のみ,0〜500cm),2)褐色ローム(10〜30cm),3)発泡のわるい火山砂泥まじり降下スコリア(5〜150cm),4)褐色ローム(3〜15cm),5)発泡のよい黒色フレーク状降下スコリア(5〜35cm),の順である.2)と4)の褐色ロームは,場所による厚さと粒径の変化に乏しいことから,噴火静穏期をあらわす風成堆積物(レス)が主体をしめると考えられる.
3)のスコリア層は北麓東麓の境界に位置する尾根(小富士)の北で150cmと厚く,径5cmの赤色スコリアをふくみ,給源火口が近傍にあることがわかる.東北東にのびるテフラ分布主軸をもち,等層厚線図からもとめたテフラ噴出量は2.5×10の10乗kgである.空中写真判読から,小富士の西北西600m付近に北東―南西方向の噴火割れ目を推定した.付近には同層準と考えられる溶岩流も分布する.溶岩流を下流に追跡すると,山中湖や忍野化石湖の形成と密接にかかわる鷹丸尾溶岩および檜丸尾第2溶岩流(後述)へとつづくようにも見える.いっぽう5)は,東北東にのびる分布主軸をもち,テフラ噴出量は2.6×10の10乗kgである.等層厚線図から,5)の給源は山頂火口またはその近傍の東斜面である可能性が高い.
3)および5)のスコリア層は,上杉(1990,関東の四紀)が14C年代や土器年代から奈良〜平安時代の噴火産物と考えたテフラに対応する可能性が高い.ここでは,延暦噴火の際に東麓に新山が出現したという史料(つじ,1992,築地書館)を重視し,小富士西方の噴火割れ目がこの新山にあたると考え,3)のスコリアを延暦噴火の堆積物と考えることにする.
東海道の古地理
延暦噴火堆積物によって埋めつくされたという「足柄道」が御殿場付近から足柄峠を越える道だと考えると,その付近に堆積した3)のスコリア層の厚さが,等層厚線図から考えて2cmに満たないことは確実である.仮に延暦テフラが他の湯船第3スコリア群中の一枚だとしても,足柄付近の厚さが薄いことに変わりはない.よって,富士→三島→御殿場→足柄峠という富士山南麓〜東麓を通る東海道のコースを考える限り,「噴火堆積物に道をふさがれた」という記述は実際のテフラ分布と矛盾する.
これに対し,古代東海道が富士宮→富士五湖→籠坂峠→御殿場→足柄峠という富士山北麓を通るコースであったと仮定すると話は一変する.延暦噴火においては,富士山北西斜面においても天神山―伊賀殿山噴火割れ目(宮地,1988,地質雑)の噴火がおき,それにともなう降下スコリアと溶岩流が富士山北西麓の広い範囲をおおったことがわかっている.さらに「宮下文書」とよばれる一連の古文献中の噴火記述を信用して噴火堆積物との対比をおこなうと,延暦噴火の際に檜丸尾第1・第2溶岩と鷹丸尾溶岩が噴出し,現在の富士吉田市街東部が溶岩におおわれ,宇津湖と呼ばれた湖が溶岩によって2分され山中湖と忍野化石湖ができたことになる.これら広範囲をおおう多量の噴火堆積物は,古代東海道を富士山南麓に移す十分な動機づけとなったであろう.また「宮下文書」には,延暦噴火以前の古代東海道が富士山北麓を通っていたことも明記されている.「宮下文書」は近年その偽書性が問題となっているが,すくなくともその古地理・噴火記事にかんしては謙虚に耳を傾け,再検討する必要があると考える(小山,1994,歴史地震).
(以上の一般向け解説記事)