第2章 イタリア

 イタリア観光をする日本人は多いが,イタリアの火山を訪れる日本人は少ない.イタリア本土のヴェスヴィオ火山,シチリア島のエトナ火山,エオーリエ諸島のストロンボリ火山などはヨーロッパ屈指の火山観光地である.青い地中海を背景とした火山たちの姿はこよなく美しい.イタリアの火山を楽しまない手はない.

ストロンボリ★★★―炎を吹きあげ続ける「地中海の灯台」
  ストロンボリの町とストロンボリッキオ☆
  火口へ登る☆☆☆
   コラム:噴火見物の際に注意すべきこと
  船から眺める☆☆
   コラム:ストロンボリ火山の噴火史
 ストロンボリからヴルカーノへ★―船から見るエオーリエ諸島の火山
   コラム:イタリアの火山分布とその成因
 ヴルカーノ★★―爆裂火口と硫黄の島
  レヴァンテ港☆―観光客でにぎわう喧噪の町
  フォッサ☆☆―その名も大火口
   コラム:ヴルカーノ火山の噴火史
 エトナ★★―ヨーロッパ最大の活火山
  カターニャからリフュジオ・サピエンツァへ☆
  リフュジオ・サピエンツァから山頂火口へ☆☆
  ヴァッレ・デル・ボーヴェ―謎の巨大凹地☆☆☆
   コラム:エトナ火山の噴火史
 ヴェスヴィオ★★―ナポリ湾にそびえるイタリア火山の象徴
  ナポリ湾とソレント半島☆☆―忘れ得ぬ光景
  ポンペイ☆とヘルクラネウム☆☆―ローマ帝国を揺るがした紀元79年噴火
   コラム:プリニウスが見たヴェスヴィオ火山の紀元79年噴火
  ヴェスヴィオ山頂☆☆☆―火口からの絶景
   コラム:ヴェスヴィオ火山の噴火史

 ストロンボリStromboli―炎を吹き上げ続ける「地中海の灯台」
 ヴルカーノ島の東港ポルト・ディ・レヴァンテを16時10分に出航したフェリーボートは,4時間以上かけてリーパリ島,サリーナ島,パナレーア島の各港を巡った後,エオーリエ諸島の北東端にあるストロンボリ島に近づく.ストロンボリ島には2つの港があって,船はまず南西側の港ジノストラGinostraの沖に停泊する.小さな港なのでフェリーボートは接岸できず,乗降客のための小さなボートが横づけされる.この間,乗船していたツーリスト達はデッキに次々と集まってきて,船上は一種異様な雰囲気につつまれる.
 (改行)人々は一様に夕闇に浮かびあがるストロンボリ島の大きな島影を見上げている.その特徴ある円錐形の島影の頂点付近の空が,かすかに赤く染まっているのがわかる.さらにじっと見つめていると,突然その赤さが輝きを増すと同時に,その直下からオレンジ色の細かな星々が飛び出し,放物線を描いて飛び散る.それと同時に人々の口からいっせいに歓声が上がる.世に名高いストロンボリ火山の噴火である.噴火はほんの一瞬で終わり,空の色はまた元に戻る.そして,人々はまたじっと次の噴火を待つ.
 イタリア半島南端の沖にあるシチリア島の北に隣接して,エオーリエEolie諸島がある.エオーリエ諸島はY字形に並ぶ7つの火山島(ストロンボリ,パナレーアPanarea,サリーナSalina,フィリクーディFilicudi,アリクーディAlicudi,リーパリLipari,ヴルカーノVulcano)からなる.その北東端を占めるストロンボリ島は,直径4kmにみたない美しい円錐形をした火山島(標高924m)である.その山頂火口はほぼ常時噴火をつづけ,間欠的に赤熱した溶岩を吹き上げている.船から見ると,その噴火はまるで赤い灯台の光の点滅を見ているようでもあり,それゆえこの火山島は古くから「地中海の灯台」という異名をもつ.この美しい溶岩の噴泉を見るために,ストロンボリ火山の山頂付近には数多くの観光客が訪れている.とくに夕刻から夜間にかけての噴火は,訪れた人の胸に生涯忘れ難い光景として刻まれるだろう.

南西側の海上からみたストロンボリ島

  ストロンボリの町とストロンボリッキオ
 ストロンボリ島には,北東側のストロンボリと南西側のジノストラの2つの町があるが,両者の間を結ぶ道路はない.観光の中心として賑わっているのは北東側のストロンボリの町である.
 町の建物のほとんどは白色で塗られ,その間を狭い通路が迷路のように作られ,異国情緒あふれた雰囲気を漂わせている.丸屋根やアーチを多用した建物と街全体の白色は,サントリニ島などエーゲ海の島々の街をほうふつとさせる.このような街作りは,どういうわけか後述するヴルカーノ島やリーパリ島ではほとんど見かけない.白い家々が,背景にある黒色の溶岩や火山砂に映えて美しい.教会の鐘はけたたましく鳴り,観光シーズンの喧噪は深夜まで絶えることがない.
 町の南端にあるスカーリScari桟橋に連絡船が接岸する.そこから狭い坂道を500mほど上ると,もっとも賑やかなサン・ヴィンチェンツォSan Vincenzo教会の界隈にたどり着く.教会前の広場から見下ろす町や,見上げるストロンボリ火山の景色が美しい.店やレストランはこの一帯に集まっており,郵便局やツーリストオフィスもある.一方,町に何軒かあるホテルは海岸付近に多い.観光シーズン中の桟橋付近にはホテルの客引きのほか,船上からの噴火見物ツァーや徒歩での山頂火口探訪ツァーなどの参加者をつのる客引きが出ている.なお,ストロンボリ島には車が通行できる道路がほとんどないので,車を持ち込んでもあまり意味がない.
 海岸あるいは先に述べた教会前広場から,ストロンボリ火山を見上げよう.噴火によるかすかな噴煙が山頂付近に認められることもあるが,よほどの爆発でない限り町にまでその鳴動は聞こえてこない.山頂付近の急斜面が徐々にその傾斜をゆるくして,町と海岸に達している.標高400m付近から上には植生がなく,溶岩と火山砂レキにおおわれた黒々とした山肌が見えている.よく注意すれば,かつて山頂付近から流れて海岸近くに達した溶岩流の跡も見える.
 振り返って北東の海上に目を移そう.海岸から1.5km沖に小さなぎざぎざの岩礁が頭を出している.ストロンボリッキオStrombolicchioである.かつての火山下のマグマが冷え固まった後に浸食を受けた火山岩頸である.標高49mのこの岩へ船で渡って登山するツァーもある.岩の頂上からみたストロンボリ島とその前面を飾る白い町の風景は,さぞ美しいことだろう.
 時間に余裕のある方は,前述したスカーリ桟橋から海岸線ぞいに南に歩こう.ただし,道らしい道はないので干潮時を選ぶのがよい.海岸ぞいの崖にさまざまな噴火堆積物の露出を見ることができる.

ストロンボリ島の略図.200m間隔の等高線を示した.

 

ストロンボリの町とストロンボリッキオ岩礁

  火口へ登る
 ストロンボリ火山の山頂火口への登山は多少の体力を必要とするが,何ものにも代えがたい感動を得ることができる.夏の夕方から夜半にかけて登れば,それほど暑くないし凍えることもない.登山者はこの時間帯に集中する.まず,町のいずれかの売店でストロンボリ島のハイキング地図を購入しよう.1枚のカラー地図の両面にコース情報や立入禁止区域のほか,必要なことがすべて描かれている.イタリア語版のほか英語・仏語・独語版などもある.山頂火口へのガイドつきツァーも出ているが,山歩きに慣れた方ならひとりで行っても問題ない.夜間の噴火を見る方は,かならず懐中電灯と防寒具を用意しよう.また,足首まで覆うしっかりした靴を履いていくこと.
 もっとも一般的な登山コースは,ストロンボリの町の西端ピシータPiscitaから出発して北斜面を上る登山道である.山頂まで3時間半〜4時間をみるとよい.登山道の途中からは,後述のシアーラ・デル・フオーコ崩壊谷の東端ぞいを,噴火を見上げながら登ることになる.行き帰りともこのコースをとれば,他の観光客も多いので不安はないだろう.
 山歩きの上級者には,ストロンボリの町の中心サン・ヴィンチェンツォ教会付近からそのまま山頂に向かって直登していく登山道も勧めたい.植生限界をこえた所までまっすぐ登り,そこからすこし南に移動した後,リシオーネLiscioneと呼ばれる東斜面の尾根筋を登る.前述のコースより斜面が急であり,しかも途中から道らしい道や標識が無くなるので,必ずハイキング地図を持参しよう.山頂まで2時間半で達することができる.
 山頂に近づくにつれ,徐々に噴火の鳴動が聞こえてきて気分が盛り上がる.北斜面の登山道を登り始めた方は,やがて斜面上に南北に刻まれた西落ちの崖の上を自分が歩いていることに気づくだろう.この崖は,馬蹄形の崩壊谷シアーラ・デル・フオーコSciara del Fuoco(イタリア語で「火走り」)の東端にあたる.山頂火口はこの崩壊谷内の最高部付近(標高700〜800m)に位置し,火口を見下ろすように崩壊谷の谷頭にあたる崖がとりまいている.この地形のおかげで,観光客はおおむね安全に崩壊谷の崖上から噴火を「高見の見物」することができる(ただし,危険な時期もある→後述のコラム参照).
 噴火見物の特等席は,火口をとりまく崖の最高点ピッツォ・ソープラ・ラ・フォッサPizzo Sopra la Fossaあるいは単にピッツォPizzo(標高918m)である.この付近におおぜいの観光客が集まる.そこから北東-南西方向に並んだおおよそ3つの火口のすべてを見渡すことができる.もっともよく見られるのは,溶融したマグマを噴水のように上空高く吹き上げるタイプの噴火である.このような噴火を溶岩噴泉,あるいは火山名にちなんでストロンボリ式噴火と呼ぶ.ストロンボリ火山の典型的な溶岩噴泉は,それぞれの火口から数分〜数十分おきに間欠的に生じ,一回の噴泉の継続時間は数秒である.おもしろいことに,隣接したそれぞれの火口が,勝手気ままな間隔で噴泉を吹き上げているように見える.また,吹き上げる噴泉の高さも火口によって異なる.北東と南西の端にある2つの火口のまわりには火山レキが降り積もって高さ50mほどのスコリア丘ができている(1996年8月初めの観察).
 夜間,間近で見る山頂火口の噴火は,現実離れした幻想的美しさをそなえている.よく晴れた日にはエオーリエ諸島の他の島々の灯が遠くに光っている.背後にはイタリア半島の町の灯もかすかに見える.また,停泊中のたくさんの観光船がともす明かりが手前の暗い海上に広がっている.聞こえる音は,風の音と,火口から高温のガスが吹き出るシュウシュウ,ゴーゴーというかすかな音だけである.そのうち火口から轟音とともに噴泉が吹き上がると,海上の観光船から次々とストロボがたかれるのがキラキラと見える.噴泉が止まった後は,火山レキが火口の近くにザーと降りそそぐ音が余韻を残し,また静寂が戻る.空を見上げれば,満天の星空と天の川が横たわっている.

ストロンボリ山頂火口の噴火.背後はティレニア海の夕映え.

コラム:噴火見物の際に注意すべきこと
 シアーラ・デル・フオーコ崩壊谷内は落石や地滑りがおきやすく,また溶岩流出の際には溶岩流の通り道となるため立入禁止区域に指定されている.と言っても,日本のようにご親切に立入禁止の札やロープなどは設けられていないから,うっかり立ち入らないように気をつけよう.自分の身はみずからの知識と状況判断で守るというのが,(日本以外の)おおかたの世界での常識である.
 ストロンボリ火山では,さきに述べたようなおだやかな噴火がいつも続いているわけではない.まれに予告なく爆発的噴火が生じて火山弾を半径1〜2kmの範囲にまき散らすことがある.1年の間に1〜2回は,このようなことが起きている.1996年6月に起きたこの種の事件の際に,ピッツォ付近にいた登山客が火山弾で負傷した.危険な状態になった場合は火口への登山が禁止されることがあるので,イタリア政府観光局などで最新の情報を集めてから訪れるのがよい.インターネットのホームページ(http://www.geo.mtu.edu/~boris/Italiahome.html)でも,この種の情報を得ることができる.
 火口を見下ろす崖上の数ヶ所には石を積み上げた簡易避難所が作られているので,万が一爆発的噴火が生じた場合にはそこに逃げ込むとよい.また,火山弾は火口からいったん上空高く飛び上がってから放物線を描いて落ちてくるので,パニックに陥らず冷静に上空を見上げていれば,近づいてくる火山弾をあらかじめ察知して避けることができる.火口に背を向けて振り返らず逃げることが最も危険である.

  船から眺める
 登山はどうもという方や時間に余裕のある方は,船に乗って海上から噴火を見るとよい.ストロンボリの町から観光船のツァーが出ている.観光シーズンには何十隻もの船が火口の見える沖に停泊し,噴火見物を楽しんでいる.一般の観光船のほか,チャーター船や個人所有の大型クルーザーも多い.ただし,この章の冒頭に書いた連絡船は,ジノストラの沖から火口と反対側を回ってストロンボリの町に向かうので(ジノストラに寄らない船も多い),噴火見物には向かない.ジノストラ沖から火口までは距離があるし,間に尾根があって噴泉のごく一部しか見えないからである.
 明るいうちに火口沖に移動すれば,そこは前述した崩壊谷シアーラ・デル・フオーコの正面にあたるので,その迫力ある景観を楽しむことができる.そこに見えるのは,もとの円錐形の火山斜面を大きく激しくえぐり取られた異形のストロンボリ島であり,崩壊谷を背景としてその前面にもうひとつ別の山があるかのようである.その山の頂上に噴煙をあげる火口が口を開いている.山の両脇に注目すると,火口付近から海岸まで,まるで長い髪の毛を垂らしたように黒い帯が続いているのがわかる.かつて火口から流出し,海に達した溶岩流である.

   コラム:ストロンボリ火山の噴火史
 ストロンボリ火山は,長い海底火山時代の後,およそ10万年前になって海面上に姿を現した.その後1万3000年前までに,ヴァンコーリVancoriと呼ばれる大円錐火山を形成した.現在のストロンボリ島の南東半分がこの古期火山体にあたり,ストロンボリ島の最高峰ヴァンコーリ(924m)もこの火山体の一部である.この時期(およそ5万年前)に,イタリア半島のナポリ湾口にあるイスキア火山で大噴火がおき,その火山灰がストロンボリ島にも降り積もった.
 ヴァンコーリ火山体は一度北西に向けて大崩壊を起こしたのち噴出中心がやや北側に移動し,現在のストロンボリ火山体が作られ始めた.6000年前以降,北西方向に大規模な山体崩壊が起きて,馬蹄形の崩壊谷シアーラ・デル・フオーコができた.はっきりした噴火の目撃記録は,紀元前1世紀まで遡ることができる.山腹にはいくつかの側火山も知られているが,数は多くない.歴史時代を通じて,山頂火口から赤熱マグマの噴泉を空高く吹き上げている期間が長く,それゆえそのような噴火様式が一般にストロンボリ式噴火と呼ばれることになった.しかし,1年に数度はより爆発的な噴火を起こして火口から1kmほどの範囲に火山弾を飛ばすこともあり,また数十年に一度は2〜2.5km離れた麓の町にまで火山弾や降灰の被害をあたえる噴火も起きている.また,1年に1〜2度くらいは山頂火口から溶岩流が流出することもあり,歴史時代には火砕流が発生したこともある.

エオーリエ諸島およびシチリア島の火山の位置と分布

 ストロンボリからヴルカーノへ―船から見るエオーリエ諸島の火山
 ストロンボリからヴルカーノへ,エオーリエ火山列島をめぐる船の旅は楽しい.高速船に乗れば75〜110分であっと言う間に着いてしまうが,寄港する島が少ないのでやや味気ない.フェリーボートに乗れば5〜7時間かかるけれど,寄港する島々の景色がたっぷりと楽しめる.
 ストロンボリ島の南西隣りのパナレーアPanarea島に近づくと,その手前にいくつかの岩礁が見られる.ストロンボリ島の沖にあるストロンボリッキオと同じ火山岩頸であり,柱状節理が観察できる.パナレーア島は,浸食の進んだ直径2kmほどの火山島(標高421m)である.西側斜面は絶壁となっているが,わずかに火山斜面を残す東斜面に美しい町があり,クルーザーの停泊基地にもなっている.その古そうな島の見かけとは裏腹の,1万年前より新しい噴火の証拠が最近見つかったという.

南西側からみたパナレーア島

 パナレーア島の南西隣り,サリーナSalina島はエオーリエ諸島のちょうど中央にある火山島であり,東西6km南北5kmとやや大きめの島である.島の人口は,エオーリエ諸島の中ではリーパリ島についで多い.島の西と東にあるそれぞれ標高860mと962mの2つの円錐型の火山体が印象的であり,伊豆七島の八丈島を連想させる.

南側からみたサリーナ島

 サリーナ島のすぐ南東には,リーパリLipari島がある.エオーリエ諸島中で最大の火山島(東西7km南北9km)であり,人口もとびぬけて多い(約1万人).島の南東海岸に大きな町リーパリがあり,海岸に13〜14世紀につくられた城塞都市の旧市街が残っている.島の最高峰は北端近くにあるサン・アンジェロSan Angelo(602m)であるが,他にも200〜600m級のいくつかの峰をもつ複雑な地形をしている.リーパリ島では22万年前頃から噴火の証拠があり,その後10数個の火山体が次々と誕生し,現在見られるような起伏に富んだ島の景観を作った.船で島の北東端近くを通る際によく注意すると,馬蹄形をした火口から海岸に向けて流れ下った黒曜石溶岩流(ロッケ・ロッセRocche Rosse)の地形を見ることができる.この溶岩流とその南にあるフォルジア・ヴェッキアForgia Vecchia溶岩流は,729年に起きた噴火で流出した.この噴火が,ストロンボリ島とヴルカーノ島をのぞくエオーリエ諸島で唯一の文書記録が残る噴火である.

リーパリ島のフォルジア・ヴェッキア溶岩流


 サリーナ島の西にフィリクーディFilicudi島,さらに西にアリクーディAlicudi島がある.それぞれ直径3kmと2kmほどの小型の火山島であり,裾をひいた円錐型の火山(それぞれの標高774mと675m)がほぼ中央にそびえる.その形や大きさは,伊豆七島の利島を連想させる.フィリクーディとアリクーディの名前は,それぞれの島に生い茂るシダとエリカの古語(フェニキア語)から来ているという.これら2つの島に寄港する船は少ないが,天気のよい日にはサリーナ島付近から遠望することができる.
 エオーリエ諸島の名前は,ギリシア神話の風の神エオール(アイオロス)から来ている.島々にはたいへん古くから人が住み着いており,リーパリ島やフィリクーディ島には紀元前20〜15世紀ころの遺跡すら残されている.これは,温暖な気候にくわえ,リーパリ島に産する黒曜石が古来より交易の対象となっていたためらしい.紀元前6〜4世紀ころの島の支配者は古代ギリシア人であったが,まもなく島はカルタゴ対ローマのポエニ戦争に巻き込まれる.それ以来,エオーリエ諸島をふくむシチリア島全体が,さまざまな国々の衝突の舞台となり,支配者はめまぐるしく入れ替わった.
 最初,島々はカルタゴを滅ぼしたローマ帝国の支配を受けたが,西ローマ帝国はゲルマン人によって476年に滅ぼされた.その後,6世紀のビザンティン帝国,9世紀のアラブ人の王国の支配を経て,11世紀には地中海に進出してきたノルマン人によってシチリア王国が誕生した.その後は,イタリア人,フランス人,スペイン人,オーストリア人たちの争奪戦が繰り広げられた末,1860年にイタリア王国の領土となった.
 エオーリエ諸島めぐり最後の島は,リーパリ島のすぐ南隣りにあるヴルカーノ島である.長径6.5km短径3kmの北西-南東にのびた楕円形をしており,北端につき出た小さな半島をもつ.この島について次節に詳しく述べる.

   コラム:イタリアの火山分布とその成因
 本書の最初(「火山を楽しむための基礎知識」の冒頭)で述べたように,地球上のすべての火山には必ずそれなりの存在理由がある.イタリア付近にも数多くの多様な火山が存在するが,個々の存在意義を合理的に説明することは意外に難題であり,いまだに誰もが納得する解答は得られていない.
 イタリアの火山は,おおむね次の6つの地域にまとめることができる.(1)シチリア島の北岸沖(エオーリエ諸島など),(2)ティレニア海中央部に広く分布する海底火山,(3)イタリア半島の南西岸ぞいとその沖(コーリ・アルバーニ,ヴェスビオ,イスキア島など),(4)サルデーニャ島,(5)シチリア島とアフリカ大陸の間(パンテレーリア島,リノーサ島など),(6)シチリア本島(エトナ,イブレイ).
 このうち(1)については,南東からのプレート沈み込みが原因で生じた島弧火山列とみる研究者が多い.しかし,サリーナ,リーパリ,ヴルカーノの3島が島弧の伸びる方向と直角方向に並んでいるのは異様である.この並びは,付近にある北西―南東方向の構造線に支配された特殊なものと考えられている.
 (2)については,ティレニア海盆の拡大にともなう火山活動であることが海底掘削調査によってわかっているが,海盆拡大の原因を単純な海溝後退による受動的拡大とみるか,あるいは能動的なマントルプリューム起源とみるかで意見が分かれている.
 (3)の火山列の成因については,アドリア海側からのプレート沈み込みにともなう島弧起源と考えられたこともあったが,地質構造やマグマの特殊性や活動年代から考えて,ティレニア海盆の拡大と関係したリフト火山活動起源と考える研究者も多い.(4)と(5)は研究例自体が少ないが,付近の地質構造から,やはりリフト起源と考えるのが妥当だろう.ただし,(5)は場所的に離れているので,ティレニア海盆拡大とは別の原因を考える必要がある.
 もっとも説明しにくいのが,ヨーロッパ最大の活火山エトナを擁する(6)である.とびぬけた噴出量と噴出率をもつ火山自体の存在理由をまだうまく説明できないという点では,日本の富士山と似ている.場所や地質構造などから考えて,島弧火山やリフト火山ではなさそうである.ホットスポット火山と考えるのがよいのかもしれない.

イタリアの火山分布

 ヴルカーノVulcano―爆裂火口と硫黄の島
 リーパリ島の港を出た高速船は,たった10分(フェリーボートでは25分)の航海の後,すぐ南隣りにあるこの島の港に入る.エオーリエ諸島最南端にあり,もっともシチリア島寄りの火山島ヴルカーノである.まず目に入るのは,町の背後に荒々しい山肌を見せてそびえる円錐台状の火山フォッサFossa(標高391m)である.港に上陸するとかすかに硫黄の臭気が鼻をつき始め,火山島であることをあらためて実感できる.シーズン中の港町は,カラフルな装いや水着で闊歩する老若男女の観光客,きらびやかに飾り立てた数々のみやげ物店,拡声器で島内のさまざまな観光ツァーへの参加をつのる客引き達の喧噪に満ちている.賑いの中にもどこか落ち着きを見せているストロンボリ島やリーパリ島の町とは,なんとも異なる雰囲気である.
 ヴルカーノ島の魅力は,何と言っても町から至近距離にそびえ,かすかな噴気すら漂わせる大火山フォッサFossaである.巨大な火口を山頂にいだいたその姿は,火の神ヴルカンVulcanにちなんで名づけられたこの島にたいへん似つかわしい.植生のない褐色の山肌は,かつての噴火で堆積した火山灰層の積み重なりや,その後の浸食によって刻まれた無数のガリーによって,その異様さを増幅させている.19世紀末までこの火山は,その姿に見合った爆発的噴火を繰り返し,近づく者を拒み続けてきた.ところが,どういうわけか20世紀を目前にして,この山はぱたりと噴火をやめてしまった.いつまた噴火を再開してもおかしくないその姿と,山頂や山麓にある活発な地熱地帯をのぞいて,この火山が生きた火山であることの表面的証拠を見つけ出すことはむずかしい.そして,その平穏であったわずか100年の間に,麓には一大観光都市が根を広げてしまった.

北西側からみたヴルカーノ島.中央やや左よりにフォッサ火山がみえる.

 

ヴルカーノ島の略図.200m間隔の等高線を示した.けばつきの実線でカルデラの輪郭を示した.

 

  レヴァンテ港―観光客でにぎわう喧噪の町
 ヴルカーノ島に来る連絡船は,すべて島の北端近くのポルト・ディ・レヴァンテPorto di Levante(レヴァンテ港)の桟橋に着く.桟橋の西側に町が広がっている.町の北西にも入江があって小さな港があり,ポルト・ディ・ポネンテPorto di Ponente(ポネンテ港)と呼ばれており,島をめぐる観光船などはこちらの港から出ている.レストラン,みやげ物屋,観光インフォメーションなどはレヴァンテ港桟橋の近くに集まっており,タクシーも待機している.また,レヴァンテ港桟橋には,さまざまな島内観光ツァーの客引きも出店を出している.ホテルやゲストハウスは町のあちこちにあるが,数はそれほど多くない.
 まず,レヴァンテ港桟橋から岩場をはさんですぐ北側の海岸にある地熱地帯を見てみよう.桟橋から歩いて5分である.この海岸に来ると硫黄の臭いが充満している.海岸近くの平地に泥の池があり,入ると暖かい.水着をつけた大勢の観光客が,その中でしきりに自分の体に泥を塗っている.美容によいとされているそうだ.泥だらけになった人々は,今度は海岸に行って泥を流す.浅瀬のあちこちに温泉がわき出しており,注意しないとかなり熱い部分もある.
 町の西端近くに,GNV(Gruppo Nazionale Vulcanologia,イタリア火山学連合)の近代的な火山観測所があり,一般観光客が見学できるようになっている.エオーリエ諸島やシチリア島の火山にかんする簡単な展示があり,研究者の解説も聞ける.観測所までの道順と見学時間,見学内容の書かれたポスターが,レヴァンテ港近くの観光インフォメーションに掲示されている.
 レヴァンテ港桟橋から海岸ぞいに南に300mほど歩くと,フォッサ火山の北麓にたどり着く.その海岸ぞいの崖にはフォッサ火山の断面が露出しており,溶岩流や火砕サージ堆積物が観察できる.

レヴァンテ港近くの海岸の地熱地帯

  フォッサ―その名も大火口
 麓の町を威圧するようにそびえるフォッサ火山にぜひ登ろう.地形図にはグラン・クラテーレGran Cratere(大火口)とも書かれている.レヴァンテ港から南西に向かう自動車道を1kmほど歩くと,登山道入口の看板がある.そこからは,眼下に町を見下ろしながらの登山となる.桟橋から山頂火口までおよそ1時間半である.登山道は荒れた部分もあるので,足首まで覆うしっかりした靴で行くことが望ましい.登山道に入ると太陽をさえぎるものがほとんどないので,真夏の登山は朝か夕方を選んだ方がよい.
 山頂には直径500m,深さ100mほどの火口が穴を開けている.火口縁は北縁が低く,南縁が高い.火口のまわりを歩いて一周できる.北東側の火口縁には地熱地帯があり,たくさんの地割れに沿って黄色や白色の鉱物が晶出し,勢いよく噴気が上がっている.噴気は高熱かつ有毒であり,直接触れたり吸ったりしないように気をつけよう.火口内壁には,過去の噴火堆積物である火山砂レキ層や火山灰層の断面が見えていて興味深い.火口内壁の傾斜はゆるく,歩いて火口底に降りることも不可能ではない.ただし,風向きによっては火山ガスが充満することも考えられるので勧められない.
 山頂からの眺めはまずまずである.北側眼下には,レヴァンテ港のある町が広がっている.町の背後には北につき出た半島があり,その中央に円錐型の小火山がある.ヴルカーノ島の中ではフォッサ火山とともに歴史時代の噴火記録をもつ,ヴルカネッロVulcanello火山(標高123m)である.半島はヴルカネッロ火山から流出した溶岩流でできている.ヴルカネッロ火山の背後に,海を隔ててリーパリ島の複雑な地形が見える.注意すれば,リーパリ島と重なるようにして,その背後にサリーナ島の山なみも見えているのがわかる.
 今度は北西側を見下ろし,足元の町の西側につらなる崖に注目しよう.フォッサ火山の形成前にできたフォッサカルデラの西縁である.町とフォッサ火山がカルデラ底の平地上を占めることが実感できるだろう.次に南東側を見下ろすと,島の南部の中央を占める平坦な地形が目につく.フォッサ・カルデラよりも古い時代にできたピアーノPianoカルデラである.

フォッサ火山の火口

   コラム:ヴルカーノ火山の噴火史
 ヴルカーノ火山島はおおよそ次のようにして作られた.まず,12万年〜10万年前にかけて現在の島の南半分に大円錐火山である南ヴルカーノSouth Vulcano火山が作られた.この火山体の頂部はおよそ10万年前に原因不明の陥没をおこし,直径2.5kmのピアーノカルデラが作られた.その後5万年前まで,ピアーノカルデラ内を満たす溶岩流やテフラの噴火が起きた.
 およそ3万5000年間の休止期の後,噴火中心は現在の島の西部ないし北部に移動した.まず,1万5000年前に島の西部に溶岩流を主体とするレンティアLentia火山体が作られた.しかし,この火山体の大部分は,引き続いて島の北部に生じた大陥没によって失われ,直径2.5kmのフォッサカルデラが生じた.このカルデラもピアーノカルデラと同様,カルデラ形成にともなったとみられる堆積物が見あたらず,成因がよくわからない(構造運動にともなう凹地とみる見解もある).
 フォッサカルデラ内に6000年前から成長してきたのが,溶岩流とテフラの積み重なりである現在のフォッサ火山体(直径2km)である.ヴルカーノ火山のはっきりした噴火記録は,紀元前5世紀にまで遡ることができる.紀元前2世紀になると,フォッサ火山の北の海底で噴火が始まり,16世紀までに溶岩流とテフラからなるヴルカネッロ火山体が姿をあらわした.
 ヴルカーノ島の名を世界に知らしめたのは,それが火山volcanoの語源となったことだけでなく,歴史時代に繰り返した数々の爆発的噴火である.これらの噴火の多くはフォッサ火山体の主火口付近で生じ,大音響とともに噴煙をあげ,火山弾を山麓にまき散らした.とくに17〜19世紀の間に10回以上におよんだこのような噴火の様式は,一般化されてヴルカーノ式噴火と呼ばれるようになった.ところが,1890年の噴火を最後に,一転して今日までヴルカーノ火山は不気味な沈黙を続けている.

 エトナEtna―ヨーロッパ最大の活火山
 シチリア島北東端に近いメッシーナMessinaの駅を出た電車は,島の東海岸をひたすら南下していく.イタリア国鉄(FS)の客車のほとんどは,3席ずつ向かい合わせの6人部屋(コンパートメント)に区切られている.夏の混雑時のコンパートメントは風通しが悪く,エアコンなどないため,蒸し暑くて長時間座っているのが苦痛である.同じように感じる人は,みな通路に出て窓を一杯に開け,そこにもたれかかって時を過ごす.窓からは,海岸まで迫った1000m級のけわしい山地が見え,列車は時おりその山並みの下をトンネルでくぐり抜ける.
 古代ギリシアの遺跡で名高いタオルミーナTaorminaを過ぎた頃,突如眼前の視界が開け,雄大な平原の中へと列車は踊り出る.平原のかなたには,ひと目で火山とわかる裾を引いた三角形の孤立峰が見えている.ヨーロッパ最大の活火山として知られるエトナ火山である.冬期にはその山頂をおおう冠雪がみごとである.その裾野の雄大さは,日本人なら誰しも富士山を思い出さずにはいられない.底径およそ40km,高さ3340mのエトナ火山は,富士山(底径およそ45km,高さ3776m)と比べても遜色ない.しかし,山の形自体は富士山よりもなだらかで,山頂火口も富士山のようには大きくない.
 エトナ火山は現在もほぼ常時噴火を続け,数年に一度は大量の溶岩流を流出し,麓の町の脅威となっている.また,歴史時代にはさらに大規模な噴火を繰り返したことが知られ,17世紀には南麓の都市カターニャCataniaの大部分が溶岩流の下に埋まるという悲惨な事件が発生した.さらに悪いことに,エトナ火山周辺では火山活動にともなうとみられる大地震が起きることがあり,地震による死者は歴史時代を通じて十数万人と言う.
 このような災厄をもたらす火山であるにもかかわらず,多くの人々がこの山の麓に住みつき,また観光に訪れている.陽気なイタリア人たちは,日本人ほど活火山の存在を苦にしないばかりか,むしろ愛着を感じている様子すらある.カターニャ空港のレンタカーオフィスの若い係員が,私にこう言った.
「あんたひとりでエトナに行くのか.なに,火山学者.ようし,おれも連れてってくれよ.おれ,エトナが好きなんだ.火山学者の説明が聞けるなんて最高だ.仕事が引けたら,どこかで待ち合わせようよ」

南側からみたエトナ火山の山頂付近.黒々とした筋状の部分は最近の溶岩流.

  カターニャからリフュジオ・サピエンツァへ
 エトナ火山への登山道路は,その北東麓と南東麓にある.北東麓のものは標高1800mのラ・プロヴェンツァーナLa Provenzanaが最高点で,そこからさらにロープウェイで2300m付近に達することができる.これに対し,南東麓の登山道路は標高1910mのリフュジオ・サピエンツァが最高点であり,そこからロープウェイと登山バスを乗り継いで,山頂火口の目と鼻の先の2919mまで登ることができる.カターニャ空港からのアプローチの良さと,後述のヴァッレ・デル・ボーヴェを見られる利点から言って,二者択一ならばリフュジオ・サピエンツァに行くのが正解だろう.空港から車で直行すれば1時間〜1時間半ほどで着く.
 カターニャ空港からリフュジオ・サピエンツァに行くルートは2つある.いずれの場合も,まずカターニャ市街を取り巻くように走る高速道路A18号線に入る.また,いずれのルートをとった場合にもリフュジオ・サピエンツァまで1本道というわけではないので,つねに道路標識に注意し,分岐点では「エトナEtna」の標識の方へと進むようにする.道に迷った場合に備えて,あらかじめ道路地図を入手しておきたい.
 第1のルートをとる場合は,カターニャ市街のすぐ北側の「エトナ」の標識のあるインターチェンジで高速道路を下り,ニコローシNicolosiを経由する.このルートは最短距離であり,リフュジオ・サピエンツァまで1時間ほどで着ける.ニコローシの町のすぐ北西には,悪名高い1669年噴火を起こしたスコリア丘モンティ・ロッシMonti Rossiがある.かつてここから流出した溶岩流が,カターニャの町を破滅に導いた.
 第2のルートをとる場合は,カターニャからメッシーナ方面に向けてA18号線をしばらく走った後,「ジアッレGiarre」の表示のあるインターチェンジで高速道路を下り,ツァッフェラーナ・エトネーアZafferana Etneaを経由する.このルートは第1のルートより30分ほど遠回りになるが,景色の変化に富んでいる.ツァッフェラーナ・エトネーアの町を過ぎて道の勾配が急になった頃,道路ぞいのあちこちに黒い溶岩流の露出があらわれ始める.1792年の溶岩流である.やがて,道の周囲に植生が見られなくなり,荒涼とした溶岩流や火山砂レキ一色となる.1892年の側噴火でできた赤色のスコリア丘のわきを通り抜けると,観光起点リフュジオ・サピエンツァが見えてくる.
 リフュジオ・サピエンツァには,ロープウェイ駅のほか,たくさんのみやげ物屋,ホテル,レストラン,駐車場がある.ホテルは2軒あり,すこし奥に入った所にあるホテル・コルサーロCorsaroがやや高級であるが快適である.英語を話すスタッフもいる.みやげ物屋やホテルの売店をよく探すと,エトナ火山の5万分の1地形図のほか,6万分の1地質図(裏面が一般向け火山解説になっている)が手に入る.ホテル・コルサーロにいたる道ぞいに見られる溶岩流は,1983年噴火の際に流出したものである.

エトナ地方の略図.エトナ山の1000m間隔の等高線を示した.二重実線は高速道路.○はインターチェンジ.

  リフュジオ・サピエンツァから山頂火口へ
 標高1910mのリフュジオ・サピエンツァから山頂方面に向かうには,まずロープウェイに乗ってモンタニョーラMontagnola駅(標高2504m)まで行った後,登山バスに乗り換えてトッレ・デル・フィローソフォTorre del Filosofo(2919m)に至る.ロープウェイ駅の切符売り場で,自分がどこまで行きたいか,片道か往復かを告げれば,それに見合った切符が得られる.ロープウェイと登山バスの終了時刻に注意しておこう.徒歩での下山も可能である.
 モンタニョーラ駅に着くと,駅の東側に小高い丘があるのがわかる.1763年の側噴火によってできたスコリア丘ラ・モンタニョーラLa Montagnolaである.この丘に登って山頂方向を見ると,1971年および1989年溶岩流のつくる地形が見事である.駅前から乗る登山バスは4輪駆動のマイクロバスであり,溶岩流上に作られたつづら折りの未舗装道路を走る.ガイドが英語で地形や地質の解説をしてくれる.バス終点のトッレ・デル・フィローソフォから5分ほど登った地点に看板とロープがあり,そこから先の観光客の立ち入りが禁止されている.ここまで来ると山頂に4つある火口のうちの南東火口の縁が見え,時おりドーンドーンと噴火の音がはっきり響いてくる.夜間には,赤熱マグマが火口上空を赤く染める火映現象も見ることができる.
 エトナ火山の山頂火口は,すでに述べたストロンボリ火山の火口と違って山の最高所にあるため,火口を見下ろしたり間近で噴火を観察することにはかなりの危険がともなう.また,噴火の状態や溶岩流の流路が突然変わることもある.立入禁止区域内へ入ることは慎もう.

  ヴァッレ・デル・ボーヴェ―謎の巨大凹地
 エトナ火山の東斜面を訪れた人は,エトナ火山独特とも言えるきわめて異様な光景を目にすることになる.巨大凹地ヴァッレ・デル・ボーヴェValle del Boveである.この凹地は,標高2750mから1250mあたりにかけてのエトナ火山東斜面にある楕円形の谷間(東西6km,南北5km)である.この凹地の成因が大規模崩壊か陥没かについては,学者間の議論が続いている.
 成因はともかくとして,身の毛がよだつほどのその絶景を見ない手はない.谷間の底には黒々とした溶岩流が幾重にも重なり,いくつかの側火山も見られる.また,谷間の南北を境する急崖をよく見ると,板状の岩石が何枚もつき出ているのがわかる.かつてのマグマの通り道であった岩脈である.ロープウェイのモンタニョーラ駅からつづく登山バスの道路を東に外れ,凹凸の激しい溶岩流上を避けながら原野を進めば,この谷間の南西を境する急崖上にたどり着ける.視界をさえぎるものがないので,天気のよい日なら道に迷うことはないだろう.モンタニョーラ駅から歩いてもいいし,登山バスに乗った後,トッレ・デル・フィローソフォから徒歩で降りてくる途中に寄ってもよい.

謎の巨大凹地ヴァッレ・デル・ボーヴェ

   コラム:エトナ火山の噴火史
 エトナ火山はおよそ50万年前に誕生したらしいが,詳しいことはわかっていない.17万年〜10万年前に古期噴出中心群(Centri Eruttivi Antichi)と呼ばれる溶岩流主体のいくつかの火山体が作られた.その後,8万年〜6万4000年前に,現在ヴァッレ・デル・ボーヴェ凹地のあるあたりにトリフォリエットTrifogliettoという火山体が作られた.3万4000年前になると噴出中心がやや北西に移動し,現在噴火中のモンジベッロMongibello火山体が誕生した.モンジベッロ火山は,3万4000年〜8000年前の古期モンジベッロ(Mongibello antico)と8000年前以降の新期モンジベッロ(Mongibello recente)の2つに区分されている.トリフォリエット火山体と古期モンジベッロ火山体が爆発的噴火を繰り返したのに対し,新期モンジベッロ火山体の噴火はおだやかで溶岩流出主体である.
 現在の東斜面にある大凹地ヴァッレ・デル・ボーヴェの成因は必ずしも明確でない.10万年前,8000年前,5000年前の3回の陥没でできた凹地が組み合わさり浸食で拡大したとの説もあるが,東方への大規模な山体崩壊によってできたとする考えもある.18世紀のこの凹地は緑におおわれていたという.しかし,1792年以降,たびたび溶岩流が凹地を流れ下り,現在では累々と溶岩流が積み重なる不毛の世界に変わってしまった.
 エトナ火山の歴史時代の噴火は,紀元前7世紀から少なくとも180回が記録に残り,今世紀だけでも80回を越えている.このほか,年代が確定できない紀元前15〜11世紀の噴火伝説もある.溶岩流出を主体とするおだやかな噴火が圧倒的に多いが,噴出量が大量であった場合に大きな災害を引き起こしている.とくに南麓のカターニャ市の大部分を埋めた1669年の噴火が悪名高い.カターニャ大聖堂内部の壁面には,エトナ火山の南斜面から流出し,カターニャの街を埋め尽くそうとしている1669年溶岩流のフレスコ画が描かれている.
 住民は,溶岩流の流路を制御して町を守る試みを1669年以来たびたびおこなっている.最近では1983年と1992年の溶岩流制御作戦が有名である.両作戦とも,市街地に向かう溶岩流流路の上流部分の側面を爆破して,新たな人工的流路に溶岩流を導くというものであり,紆余曲折を経た後にまずまずの成功をおさめている.
 エトナ火山の巨大な山体は,みずからの重みで徐々に東のイオニア海側にせり出しているという.このせり出しが,ヴァッレ・デル・ボーヴェ凹地や,山体の北東側と南側山腹にできた地溝帯の成因と関係するらしい.このせり出しによってできた山体地下のすべり面は地震発生能力をもち,1169年,1693年などのエトナ山周辺の大地震を引き起こしたと考える研究者もいる.

 ヴェスヴィオVesuvio―ナポリ湾にそびえるイタリア火山の象徴
 北西―南東方向に900kmにわたる長靴形をしたイタリア半島の南西岸(つまり,長靴のすねの部分)に沿って,火山が列をなして並んでいる.この火山列は,北はトスカーナ州南部の古都シエナ付近から南はナポリ湾まで,400kmにわたって並ぶ13ほどの火山からなる.イタリアの首都ローマはこの火山列の中ほどに位置し,コーリ・アルバーニとサバティーニという2つのカルデラ火山にはさまれた火砕流台地上を占める.しかし,これらの火山列は,最南端付近にある3つの火山(ヴェスヴィオ,カンピ・フレグレイCampi Flegrei,イスキアIschia)をのぞいて,歴史時代に顕著な噴火を起こしていない.
 ヴェスヴィオ,カンピ・フレグレイ,イスキアの3火山は,イタリア南部最大の都市ナポリ(Napoli,人口106万人)が面するナポリ湾をとりまく形で存在する.このうちカンピ・フレグレイとイスキアは,歴史時代にさほど破局的な噴火をおこしておらず,その地形も素人目に即座に火山とわかるものではない.これに対し,ヴェスヴィオ火山はナポリ湾岸から1000m以上の高さ(現在は1277m)にそびえ,数々の悪名高き噴火で知られている.そのうちの最たるものが,山麓にあったローマ帝国の都市ポンペイとヘルクラネウムを全滅させた紀元79年の大噴火である.この噴火については後で詳しく述べるとして,ここではその後のヴェスヴィオ火山とナポリの歴史について簡単に触れておこう.
 79年の噴火につぐ規模のヴェスヴィオ火山の爆発的噴火が,ゲルマン人によって西ローマ帝国が滅ぼされる直前の472年に起きた.西ローマ帝国の滅亡(476年)の後,19世紀後半にいたるまで,ナポリ付近およびイタリア南部の支配者はめまぐるしく交代した.このことはイタリア南部の社会や文化に複雑な影響をあたえ,これに起因する根深い「南北問題」は現在でも尾を引いている.
 5世紀末以降のナポリは,東ゴート族,ランゴバルド族,ビザンティン帝国などの支配を受けた後,11世紀に入ってノルマン人が王国を作った.その間もしばしば噴火したヴェスヴィオ火山は1139年の噴火を最後に長い眠りについたが,その代理をつとめるかのように1302年にイスキア火山,そして1538年にカンピ・フレグレイ火山で噴火が生じた.この両噴火の後,イスキアとカンピ・フレグレイでは今日に至るまで噴火が起きていない.1302年はフランス王族のアンジュー家を主としたナポリ王国が成立した年でもあった.しかし,15世紀になると,ナポリの支配者はスペイン人に交替した.
 スペイン支配下の1631年,ヴェスヴィオ火山は長い眠りから覚め,火砕流が山麓のいくつかの村を焼き尽くした.その後もヴェスヴィオ火山は300年あまりにわたって頻繁に噴火を繰り返した.この間,ナポリの支配者はスペインからオーストリアに一時移った後,ふたたびスペイン王家に戻り,さらにナポレオン帝国の支配を受けた後,1815年からふたたびオーストリアが覇権を握った.そして1860年,イタリアの統一をめざすガリバルディの千人旅団によってナポリはイタリア領となり,今日に至っている.ヴェスヴィオ火山は,ムッソリーニ体制下の1944年噴火を最後にふたたび眠りについた.

  ナポリ湾とソレント半島―忘れ得ぬ光景
 美しい地形上の役者をこれほど適当な位置に配置した入江は,世界的にみてもそう多くないだろう.ナポリ湾は,ローマの南東200kmほどのイタリア半島にある南西に開いた入江であり,湾口のさしわたしが約30km,奥行きが15kmほどの四角形をしている.入江の両端には岬があり,地形的な高まりをなしている.南東の岬がとくに長く険しい山地をなし,ソレントSorrento半島と呼ばれる.有名なカンツォーネ「帰れソレントへ」の歌の舞台である.また,北西側の岬付近には小火山群やカルデラがあり,まとめてカンピ・フレグレイ火山と呼ばれている.
 ソレント半島の沖には,国際観光地として名高いカプリCapri島がある.カプリ島自体は火山ではないが,この島の景観をたたえたドビュッシーが「アナカプリの丘」を作曲し,この島を舞台にした映画「ル・メプリ(軽蔑)」をブリジット・バルドーが主演した.また,カンピ・フレグレイ火山の沖にはイスキア島がある.イスキア島にはいくつかの小火山が分布し,付近の海底に推定されたカルデラとともにイスキア火山と呼ばれている.カプリ島とイスキア島は,ナポリ湾の湾口を守るようにしてその両側に位置している.

ソレント半島からナポリ湾越しにみたヴェスヴィオ火山


 そして,それらの地形的な立役者をしたがえ,ナポリ湾の最奥部にヴェスヴィオ火山が厳然とそびえ立っている.百万都市ナポリの街並みは,ヴェスヴィオ火山とカンピ・フレグレイ火山にはさまれたナポリ湾の北岸にひろがっている.天気さえ良ければ,ヴェスヴィオ火山の姿はナポリ湾岸のほとんどの場所から眺めることができる.ナポリの港(サンタ・ルチア港)やナポリ市街背後の丘からのヴェスヴィオ火山の眺めはとくに有名であり,古来多くの絵画に描かれてきたが,ソレント半島やカプリ島,イスキア島から見る姿もまた格別である.

ナポリ地方の略図.ヴェスヴィオ山の500m間隔の等高線を示した.


 ヴェスヴィオ火山は,山麓の広大な平地から火山特有のゆるやかな裾を引いて立ち上がり,山頂に近くなるにつれてかなりの急斜面を見せる円錐形の火山である.一目してわかるように,山頂は2つの峰からなる.南西側の高いほうの峰が歴史上幾多の噴火を繰り返した火口をもつ峰(ヴェスヴィオ山,1277m)であり,北東側の低い峰(ソンマSomma山,1132m)は,ヴェスヴィオ山を円弧状にとりまく古い火山体の一部である.このような形態や活発な爆発的噴火の歴史は,日本の浅間火山をほうふつとさせる.現在はソンマ山よりヴェスヴィオ山の方が標高が高いが,17世紀なかばにはソンマ山の方が高かったことが当時の絵画からわかる.豊富な絵画を時代順に並べることにより,17世紀末からの何度かの噴火によってヴェスヴィオ山が成長し,18世紀なかばに至ってほぼ現在の形となったことがわかっている.

  ポンペイとヘルクラネウム―ローマ帝国を揺るがした紀元79年噴火
 ヴェスヴィオ火山の名がこれほどまでに世界に知れわたっているのは,ローマ帝国の2つの町ポンペイPompeiとヘルクラネウムHerculaneumを埋没させた紀元79年噴火の著名さのせいだろう.
 初代皇帝オクタヴィアヌスの即位によって紀元前27年に成立したローマ帝国は,その絶頂期への道を歩み続けた.しかし,その道は決して平穏無事なものではなかった.第4代皇帝クラウディウスが54年に没した後,その後を継いだのは暴君として後世に名高いネロであった.ネロの傍若無人さに合わせるかのように,不吉な事件がローマ帝国のあちこちで起きるようになった.
 ネロがみずからの母を謀殺した2年後の61年にはブリタニア(現在のイギリス)で原住民の反ローマ蜂起が起き,ロンディニウムの町(現在のロンドン)が略奪を受けた.64年には帝都ローマが大火に襲われた.ネロは大火の罪をキリスト教徒にかぶせ,組織的な迫害を始めた.ネロの師であったストア派の哲学者セネカは,火山の下にマグマだまりがあること,噴火の原因がマグマ中のガスであることを見抜いていたが,65年にネロによって自殺を余儀なくされた.その後,68年に起きた反乱を機にネロはついに自殺に追い込まれることになったが,ネロの死後も凶事はやまず,政変と短命政権が続いた.そして79年を迎えた.
 ポンペイ・ヘルクラネウムとその一帯は,肥沃な土壌と豊かな作物,火山麓独特の風光明媚さ,温暖な気候などがあいまって,ローマ帝国当時から一級の保養地・避寒地であった.ポンペイはヴェスヴィオ山の南東麓(火口から9km)のナポリ湾に面する町で当時の推定人口は2万人,ヘルクラネウムは西麓(火口から6.5km)にあってやはりナポリ湾に面し,人口は5000人であった.発掘された街並みや,建物の壁に描かれた壁画などから,噴火前の住民の平和な暮らしぶりがしのばれる.ポンペイの町から発見された壁画のひとつには,緑におおわれたヴェスヴィオ山を背景に酒神バッカスの姿が描かれており,当時の山麓が今と同じくぶどうの名産地であったこともわかる.

ポンペイ遺跡から見たヴェスヴィオ火山


 63年(あるいは62年)にヴェスヴィオ山周辺で起きた地震が,ポンペイとヘルクラネウムの悲劇の(物理的)前兆であったとする考えがある.この地震によって,2つの町は少なからぬ被害をこうむったらしい.この地震の体験とその後の復興が,かえって町の人々に自然災害に対するある種のたくましさと油断をあたえ,それが79年噴火時の避難の遅れの誘因となったのではないかと考える人もいる.
 79年噴火の推移は,山麓に分布する火山灰などの噴火堆積物の地質学的な研究と,噴火を記述した古記録の研究から,かなり明らかになっている.噴火の数日前から有感地震が何回か起きていたらしい.8月24日の昼ごろに最初の水蒸気マグマ噴火が生じた後,午後1時ころに火口から巨大な噴煙が立ちのぼり,高度30km付近の成層圏に達した.この噴煙は北西の風にのって南東方向に広がり,その方角にあったポンペイの町におびただしい白色の軽石を降らせ始めた.
 この日のうちにポンペイの人々が大がかりな避難行動に移っていれば犠牲者の数はもっと少なくて済んだかもしれないが,町の人々の多くはその場所にとどまったらしい.巨大な噴煙は絶えることなく続き,ヴェスヴィオ火山周辺は日没前から闇に包まれた.噴火にともなう地震が何度も起き,人々の不安をいっそう煽った.ポンペイの町に降りそそぐ軽石は衰えを見せず,徐々にその厚さを増していった.
 翌日8月25日未明,噴火活動に重大な変化が生じた.火口の大きさが拡大したことと,マグマ中のガス成分の減少によって,それまでの安定した噴煙の形が崩れて火砕流が発生し始めたのである.火砕流はおもにヴェスヴィオ火山の西斜面と南斜面を流れ下り,そのうちのひとつがヘルクラネウムの町を全滅させて海岸に達した.つづいて8月25日の朝,南斜面をやや規模の大きな火砕流が流れ下り,すでに2m以上の厚さの降下軽石に覆われていたポンペイの町を襲った.ポンペイの町に残っていた2000人はこの時に焼き殺された.死の町となったポンペイとヘルクラネウムの上を,さらに数度の火砕流が通りすぎた.8月25日の朝8時ころをクライマックスとして噴火は徐々に衰えをみせ,数日後にはおさまったらしい.79年噴火全体で噴出したマグマの量は,およそ4立方kmと推定されている.噴火による降灰はイタリア半島だけでなく,北アフリカから中東までの広い範囲におよんだ.

火砕流堆積物の下から発掘されたヘルクラネウムの街.背景の山がヴェスヴィオ火山.


 ヴェスヴィオ火山周辺は灰におおわれた死の世界となったが,全盛期のローマ帝国の力によって復興が迅速におこなわれたらしい.しかしながら,数mまたはそれ以上の火山灰や軽石の下に埋没したポンペイやヘルクラネウムをはじめとする山麓のいくつかの町や村の復興は断念され,そのまま放置された.埋没した都市の伝説は住民に長く語り伝えられ,また農夫はときおり自分の畑から古代都市の遺物を掘り出したから,それらの位置や物語が完全に忘れ去られることはなかった.
 18世紀になって,付近を当時支配していたスペイン王家出身のナポリ国王カルロス3世の命により,本格的な発掘が開始された.発掘によって明らかになった古代の生活様式や文化は当時のヨーロッパ社会に衝撃をあたえ,「ポンペイ様式」と呼ばれる建築・装飾やファッションまでが登場した.1834年にはリットンによって歴史小説「ポンペイ最後の日」が書かれ,後に映画化もされて,ポンペイの名は世界中の人々が知るところとなった.
 ポンペイやヘルクラネウムは20世紀末の今日においても発掘が完了していないが,発掘の終わった部分は一般に公開され,一大観光地となっている.ポンペイは城壁に囲まれた東西1.2km南北700mの大きな町であり,その7割ほどが掘り出されている.また,ヘルクラネウムは200×300mほどの区画が掘り出されているが,町をおおった厚い火山灰の上に現代の町エルコラーノErcolanoが作られてしまったから,今以上の発掘を進めることがもはや難しい.発掘された2つの町の建物ひとつひとつの機能や位置づけはよく調べられ,よく解説されているから,遺跡の中を歩くことによって当時の町の生活や雰囲気を容易に想像することができる.

コラム:プリニウスが見たヴェスヴィオ火山の紀元79年噴火
 紀元79年の大噴火については,それを間近で目撃したローマ帝国の小プリニウスが歴史家タキトゥスにあてた2通の書簡によって,その詳細を知ることができる.この書簡は噴火から25年後の104年になって書かれたものであるが,生々しい噴火の様相と推移がえがかれている.噴火当時,小プリニウスは18才頃の若者であり,ローマ帝国の軍港のあったミセヌムMisenum(現在のミセーノMiseno,ナポリの西16kmにあるナポリ湾口の町)に家族とともに住んでいた.
 79年8月24日午後1時ころ,小プリニウスはヴェスヴィオ山の方角にたちのぼる異常な形の雲を見た.ミセヌムからヴェスヴィオ山頂までは25kmほど離れており,間にはナポリ湾が横たわっている.彼の叔父(または伯父)の大プリニウスも,その時ミセヌムにいた.ローマ帝国海軍提督の任にあった大プリニウスは,「博物誌」の著者として知られる学者でもあった.「博物誌」には当時知られていた活動的火山のリストまでが載せられていたから,大プリニウスが異常な形の雲に興味を示したのは不思議ではなかった.ちょうどそこへ,ヴェスヴィオ山麓に住む友人から救助を求める手紙が届いた.大プリニウスは軍船を一隻用意させると,部下とともにみずからそれに乗り込んだ.
 北西の風にのってナポリ湾を横断した大プリニウスとその部下たちは,やがてヴェスヴィオ山麓に展開されるすさまじい噴火の地獄絵を船上から眺めることになる.彼らはポンペイ港への上陸を果たせず,ナポリ湾の南東最奥にあるスタビアエStabiaeの町(ヴェスヴィオ火口から14km)に上陸する.北西風は,噴煙を火口の南東に位置するポンペイとスタビアエの方向へなびかせたため,2つの町にはおびただしい量の軽石が降りそそいでいた.強い北西風のために船での脱出ができなくなった大プリニウスたちは,そのままスタビアエにとどまることを余儀なくされた.噴火にともなう地震と降り積もった軽石の重みによって,次々に家屋が倒壊した.火口や噴出物を起源とする有毒ガスも町に充満した.そして,ミセヌムを出航した2日後の夕方,疲れ果てた大プリニウスはついに息絶えることになった.死因は有毒ガスとも心臓マヒとも言われている.
 一方,地震と降灰はミセヌムにいた小プリニウスをも襲っていた.地震による建物の倒壊をおそれた小プリニウスは,8月25日の朝に彼の母とともに屋外へと避難し,降りそそぐ灰を振り払いつつ郊外の丘から噴火の一部始終を観察することになった.日はすでに昇っていたが,空をおおう巨大な噴煙のためにあたりは暗黒に閉ざされていた.彼の観察記録から,ヴェスヴィオ山体を駆け下って海上をつき進んだ火砕流や,ナポリ湾で生じた津波などの事件を読みとることができる.やがて噴火はピークを越え,ミセヌムに戻った小プリニウスは,生き残って帰還した大プリニウスの部下から叔父の死の知らせを聞いた.
 小プリニウスが書き残した79年噴火は,有史以来現在までの間にヴェスヴィオ火山で起きた最大かつもっとも激しい噴火であったことが地質学的調査によってわかっている.噴火から17年後の96年,ローマ帝国皇帝としてネルヴァが即位する.ローマ帝国の絶頂期である五賢帝時代のはじまりである.小プリニウスは,ネルヴァ帝の後を継いだトラヤヌス帝に法律家・政治家としてつかえ,その生涯を全うした.世界で初めてこのような破局的噴火の克明な様相を書き残した小プリニウスの名にちなんだプリニー式噴火(plinian eruption)の名前が,大規模な降下軽石をおこす噴火をあらわす火山学用語として使われている.

  ヴェスヴィオ山頂―火口からの絶景
 ヴェスヴィオ火山の山頂にのぼることは容易なので,ぜひ観光コースに入れるとよい.天気のよい日なら家族づれや老人も訪れている.雄大な山頂火口やソンマ山の崩壊壁,ナポリ湾やソレント半島のパノラマ,数々の噴出物がつくるスペクタクルな地形などが楽しめる.ナポリ市内などからバスツァーも出ている.
 ヴェスヴィオ火山には西麓と南麓に2つの登山道路がもうけられている.南麓のものは標高800m,西麓のものは1000mまで自動車で登ることができるが,山頂へのアプローチが楽な西麓の登山道路をお勧めする.
 標高400m付近から,道のわきに1858年噴火で流出した溶岩流が見えはじめる.標高600mの道ぞいに,ヴェスヴィオ火山観測所(Osservatorio Vesuviano)がある.1840年代に建てられた由緒ある観測所であり,以後の数々の噴火に際して大した被害を受けずに生き延びてきた.
 観測所から先は,道の北側を流れ下った1944年溶岩流を見ながらの登り坂となり,火口のあるヴェスヴィオ山とその北側のソンマ山との間にある谷間ヴァッレ・デル・ジガンテValle del Giganteへと入ってゆく.ここから見るソンマ山は高さ200mほどの切り立った壁になっており,壁面には数多くの岩脈を観察することができる.この山壁は,古い火山体であるソンマ山が南西に向かって大崩壊をおこした跡であり,その崩壊谷の中に成長してきた新しい火山体が,現在のヴェスヴィオ山である.
 ヴァッレ・デル・ジガンテの中で道路は二手に分かれる.南へ進むと終点に景色のよいカフェテラスと登山リフトがあるが,リフトは現在運行されていない.もう一方の東へ進むと,やがて終点の駐車場となる.駐車場から山頂火口までは,よく整備されたなだらかな登山道を通って20分の距離である.登りながら北側をふりかえると,黒々とした1944年溶岩流がソンマ山の壁にぶつかって流路を西に変え,ソンマ山ぞいに谷を流れ下った様子がわかる.
 やがて山頂火口のへりに着くが,火口に近づくためにはチケットを購入しなければならない.火口の直径は500m,深さは300mある.火口内壁には,19世紀後半から1944年までに噴出した溶岩流の積み重なりが観察できる.山頂火口のへりからは,ナポリ湾,ナポリ市街,イスキア島,カプリ島,ソレント半島などの雄大なパノラマをのぞむことができる.

ヴェスヴィオ火山の山頂火口

コラム:ヴェスヴィオ火山の噴火史
 ヴェスヴィオ火山がいつ頃誕生したのかはよくわかっていないが,79年噴火以前のおよそ2万3000年間にわたって,数千年おきに7回の大規模かつ爆発的な噴火を起こしたことが地質調査によって明らかになっている.79年噴火のひとつ前の大噴火は,3750年前に起きたアヴェッリーノAvellino噴火である.一方,79年以前の噴火記録にはっきりしたものはなく,わずかに紀元前217年ころに噴火が生じたことを疑わせるいくつかの天変地異記録が知られるのみである.
 79年噴火は,ヴェスヴィオ火山の噴火史上における最大級の噴火であり,先に詳しく述べた通り,山麓にあったローマ帝国の都市ポンペイとヘルクラネウムを全滅させた噴火としても名高い.それ以後今日まで,それを上回る規模の噴火こそ起こしていないが,ヴェスヴィオ火山は幾多の噴火を繰り返した.472年の噴火はとくに爆発的なものだった.ところが,1198年の噴火を最後にヴェスヴィオ火山は450年近くにわたる長い眠りに入ってしまい,この間顕著な噴火は記録されていない.山は頂き近くまで深い緑におおわれたらしい.
 1631年12月16日の早朝,ヴェスヴィオ火山は突然眠りから覚めて噴火を開始し,降灰・火砕流・泥流などによって広範囲に大きな被害を生じさせた.犠牲者の数3000〜6000人と推定される大変な災厄だった.この噴火の前数ヶ月間にわたり,群発地震・鳴動・噴気・火映・井戸水の異常などのさまざまな前兆があらわれたことが,多数の史料から知られている.噴火の24時間前から群発地震はいっそう激しさを増したらしい.噴火は,79年噴火とよく似た推移をたどった.初期に水蒸気マグマ噴火が起き,20時間ほどプリニー式噴火が続いた後,17日未明から火砕流を発生するようになった.火砕流は西および南斜面を流れ下り,一部は海に達した.ナポリ湾では津波も観測された.17日の夕方に噴火はピークを越え,数日かけて収束していった.噴出したマグマの総量は,79年噴火の8分の1にあたる0.5立方kmであった.噴火にともなう山体の崩落によってヴェスヴィオ山頂は標高が450mも低下し,ソンマ山より低くなってしまった.
 1631年の噴火以後も300年あまりにわたってヴェスヴィオ火山は頻繁に噴火を繰り返したが,79年噴火や1631年噴火のような大規模な軽石噴火は起こしていない.それらの噴火の多くは溶岩流出で始まり,やや爆発的な噴火をした後,数年休むということを繰り返した.そして1944年の噴火を最後に,ヴェスヴィオ火山はふたたび眠りについてしまった.この休止期がいつまで続くのか,そして眠りの後には79年や1631年噴火のような破局的な噴火を起こすのかという疑問に,火山学者はまだ明確な回答を用意できないでいる.かりに今1631年と似た噴火が起きるとした場合,ヴェスヴィオ火山周辺から60万人もの住民を避難させねばならないという.


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