まるで夢の世界である.青い海と白い街,本当に絵に描いたような,にわかには信じがたい風景が目の前に展開する.数々の伝説や悲劇の舞台となったこの多島海,エーゲ海にも火山が存在する.3600年前におきた巨大噴火では,東地中海の広い範囲に大災害が生じた.今は何ごともなかったように静まりかえる火山島をおとずれ,遠い昔に思いをはせてみよう.
サントリニ★★★―エーゲ海でおきた巨大噴火とアトランティス伝説
フィラ☆☆☆―カルデラ縁に立つ幻想的都市
プロフィティス・イリアス山☆☆―サントリニ島最高峰
アクロティリ遺跡☆☆―噴火で埋没した古代の街
コラム:サントリニ島の巨大噴火とミノア文明
スカロス山☆☆―中央火口丘の残骸とカルデラの全景
アティニオス港☆―サントリニ火山の20万年史
カメニ島☆―生きているサントリニ火山
コラム:ミノア噴火以後のサントリニ島と東地中海の歴史
サントリニSantorini―エーゲ海でおきた巨大噴火とアトランティス伝説
海岸近くにある空港から,5km先の高台に見えているフィラFiraの白い町へと車を走らせる.植生らしい植生のない島には,視界をさえぎるものが何もない.火山山麓特有の直線的でなだらかな斜面をのぼっていくと,10分ほどでフィラの町に入る.町はずれの駐車場に車を停め,徒歩でさらに高台へと向かう.迷路のような繁華街を抜けると,道のつきあたりに空だけが見えている.何か予感のようなものを感じ,歩みを速める.のぼりつめたその場所は,広大な円形の入江を見おろす絶壁の頂点となっていた.サントリニ火山のカルデラである.背後の街の喧噪とは隔絶された静寂な空間がそこに広がっている.200mの崖下にエーゲ海クルーズの白い客船が停泊しているのが見える.かなたの水平線にまもなく日が沈もうとしている.
サントリニ火山は,およそ20万年前に海上に姿をあらわした.その後,溶岩流を流出して大きな火山体を成長させては,爆発的な噴火をおこして火砕流を噴出し,火山体の中央部を陥没させてカルデラを作った.このようなことが数回くりかえされた.現在みられるカルデラの形は,およそ3600年前の大噴火によって作られたものである.
この噴火当時のエーゲ海にはミノア文明と呼ばれる高度な文明が栄えており,その本拠地のクレタ島には名高いクノッソス宮殿が築かれていた.そして,サントリニ島にもミノア文明の影響を受けた大規模な都市があった.この都市は噴火初期に降りそそいだ軽石によって埋められ,埋め残された部分もつづいて噴出した火砕流によって焼きつくされた.大規模な火砕流は島全体を灰まみれの死の世界に変えた.また,火砕流噴出にともなってカルデラ陥没が起こり,それにともなう巨大な津波が発生して東地中海の沿岸を襲った.この噴火を当時のミノア文明にちなんで「ミノア噴火」と呼ぶ.
ミノア噴火の記憶は,その後エーゲ海を支配した民族によって語り継がれ,海の彼方にあった理想郷が一昼夜にして海中に没したという伝説に姿を変えたらしい.1300年の後,ギリシアの哲学者プラトンはこの伝説を文字に書きとめ,海中に姿を消した国の名を「アトランティス」と記した.
フィラの町とカメニ島
フィラ―カルデラ縁に立つ幻想的都市
なぜ,このような場所に街ができたのだろう.そして,この街の形態はいったい何としたことだろう.断崖の上をわざわざ選んで作られたかのような街の立地や形態は,日本の町づくりの常識とあまりにかけ離れているため,まずは言葉を失うしかない.
街を構成する建物は,すべて色とデザインが統一されている.円と曲線と直線の複雑な組み合せ,そしてすべての壁・屋根・テラスが輝くような白色を基調とし,マリンブルーやピンクを適度におりまぜた色で塗り固められている.建物ひとつひとつが分離・独立しておらず,テラスの境界をなす白壁が隣りの家と共用され,しかも家々の間をぬうように作られた通路の境界ともなっている.つまり,街全体の建物が白壁によってひとつに結合されており,断崖の頂点をなす急斜面上に白いカーペットをかけたように載せられている.街全体がひとつの有機体であり,街の発展とともに外側に向けて白い触手を伸ばしながら増殖をつづけてきたように見える.
街の立つ断崖は西に面しているため,毎夕エーゲ海に沈む夕日が街を美しく茜色に染め上げる.街からは,サントリニ火山のカルデラである円形の巨大な入江のほぼ全景を見下ろすことができる.入江のもっとも深い場所での水深は380mと,陥没カルデラならではの深さである.入江の中心には,カルデラ形成後にできた2つの小さな火山島(パレア・カメニPalea
Kameni,ネア・カメニNea Kameni)が見える.
フィラはサントリニ島最大の町であり,島の商業活動の中心であるとともに,すぐれた観光基地でもある.車で町の中心に入ると,ちょっとした石畳の広場があり,たくさんの商店やオフィスでにぎわっている.テオトコポウロウTheotokopoulou広場である.近くには広いパーキングもある.この広場を中心にたくさんのツーリストオフィスがある.フィラの町では,これらのツーリストオフィスが観光インフォメーションの役割りを担っており,ホテル・レンタカー・観光船の予約,フライトの予約とリコンファーム(ただしオリンピック航空に限る),地図や観光資料の入手など,すべてを済ませることができる.国際観光地であるから,英語が問題なく通じる.
フィラの町から200m断崖をくだると,そこはオールドポートと呼ばれる港である.ここにエーゲ海クルーズの大型客船が停泊する.町との間には整備された歩道(ロバの背にのって登り降りする有料サービスもある)のほか,ロープウェイも運行されている.
この歩道を下っていくと,まずフィラの町が厚い溶岩流の上に建設されていることがわかる.ミノア噴火以前にあった中央火口丘から流出した,およそ2〜3万年前の溶岩流である.さらに下ると,まわりの岩壁に赤と黒の縞々からなる水平な地層が目だっている.8万年ほど前の噴火によって降りそそいだ軽石が,堆積時の高熱のために溶けて固まった層である.さらに下るとオールドポートに着く.港湾施設の背後にあるピンク色の岩壁は,8〜10万年ほど前の噴火で噴出した厚い火砕流堆積物である.
サントリニ火山のカルデラ壁.崖の高さは200mある.崖上にはフィラの町が見える.背後に見える山はプロフィティス・イリアス山.
エーゲ海の火山分布とサントリニ島の位置
サントリニ島の略図.200m間隔の等高線を示した.
プロフィティス・イリアス山―サントリニ島最高峰
サントリニ島がまだ火山島だと実感できてない方は,まずここに行くといい.フィラの町から自動車道を6kmほど南に移動し,左に折れてピルゴスPyrgosの町に入る.小高い丘の上に建設された趣きのある町である.ピルゴスの町を通り抜けて4kmほど登りつめた場所(標高566m)がプロフィティス・イリアスProfitis
Ilias山頂である.テレビ塔の立つ一番高い山をめざせばよいので,道に迷うことはないだろう.道の終点には駐車場らしい駐車場がないうえに観光バスも来るので,車を停める際には注意が必要である.山頂では夏でも防風に気を使ったほうがいい.
山頂からは島全体のすばらしい眺望が得られる.サントリニ島全体がブーメラン状をした外輪山であることがわかる.外輪山の内側の入江がカルデラである.カルデラの縁にそってフィラやオイアOiaの白い街並みが見える.カルデラの縁が地形的に一番高く,外側にむかってなだらかに高度を下げて海岸に達しているのがわかろう.つまり,カルデラが陥没する前は,今カルデラの入江となっている場所にさらに高い山があった.入江には,後カルデラ丘である2つの島が浮かんでいる.カルデラ内に誕生したもっとも新しい火山島である.右側の大きい方がネア・カメニ島,左側の小さい方がパレア・カメニ島である.両カメニ島の背後にあるわりと大きな島は,北西側の外輪山の一部であるティラシアThirasia島である.
プロフィティス・イリアス山自体は,火山とは直接関係のない古い変成岩(片岩や大理石)からできている.外輪山がつくるなだらかな斜面から不調和につき出た山となっているのは,そのせいである.プロフィティス・イリアス山は,サントリニ火山がここに誕生する以前から小さな島として存在していたのである.
アクロティリ遺跡―噴火で埋没した古代の街
フィラの町から自動車道を11kmほど南下し,アクロティリAkrotiriの町に入る前に左に折れる.1km南に下ると海岸近くに大きな駐車場があり,道路をへだてて反対側に入場門がある.ミノア文明の影響を深く受けた都市遺構アクロティリである.サントリニ島の大噴火をミノア文明滅亡の直接の原因と信じる考古学者マリナトスによって,この遺跡の大規模な発掘調査が1967年からおこなわれた.
入口から少し歩くと,平屋だての工場のような大きな建物がある.そこが遺跡発掘の公開場所である.発掘現場全体を屋根でおおっており,現在も発掘作業は進行中である.
中に入ると,石造りの古代都市の跡があらわれ,出土品のいくつかが飾られている.定められた見学コース以外に立ち入ることはできないが,十分満足できる.3600年前のミノア噴火の際,この古代都市はまず50cmほどの厚い降下軽石におおわれ,ついで発生した火砕サージと火砕流によって完全に埋没させられた.遺跡のところどころに噴火初期の降下軽石層の断面を見ることができる.また,ミノア噴火の火砕流堆積物の断面が,駐車場ふきんの道ぞいの崖でよく観察できる.
なお,サントリニ島にはアクロティリ遺跡以外にもいくつかの遺跡がある.時間に余裕がある方にぜひ訪ねてほしいのが,古代ティラArchaia Thiraの遺跡である.古代ティラの遺跡は,島の南東端につき出た岬をつくるメサ・ヴノMesa
Vouno山(標高369m)の山頂に古代ギリシア人が作った都市遺構である.紀元前9世紀に作られ1000年以上にわたって栄えたが,4世紀頃から衰退し,やがて廃墟となった.遺跡の入口まで登山道路がついており,車で行くことができる.遺跡からサントリニ島の2大海水浴場カマリKamariビーチとペリッサPerissaビーチを見下ろすことができるうえ,エーゲ海の見晴らし台ともなっている.背後にあるプロフィティス・イリアス山の荒々しい岩肌も見事である.
コラム:サントリニ島の巨大噴火とミノア文明
エーゲ海には,南に凸の弧状をなして火山島が並んでいる.エーゲ海東端にあるコス島付近から始まり,サントリニ島,ミロのヴィーナスで名高いミロス島などを経て,ギリシア本土付近にいたる火山列である.この火山列の成因は,クレタ島の南側にあるヘレニック海溝からのプレート沈み込みにともなう島弧火山活動と考える見方が一般的である.
サントリニ島の噴火史は,地質学・考古学両面からの研究によってかなり明らかにされている.サントリニ火山は,およそ20万年前から噴火を始め,その後20世紀にいたるまで数多くの噴火を繰り返している.とくに大規模かつ爆発的な噴火が12回数えられ,それぞれが島の広い範囲に厚い噴火堆積物を残している.これらの大噴火のうちの最新のものが3600年前のミノア噴火である.ミノア噴火のひとつ前の大噴火は,およそ1万8000年前に生じたケープ・リヴァCape Riva噴火であり,ミノア噴火はサントリニ島にとっては1万4000年ぶりの大災厄であった.サントリニ島の大噴火にはある程度決まったパターンがあり,最初に軽石を放出した後,火砕サージを発生させ,破局的な軽石流の噴出で終わるものが多い.また,ミノア噴火を含む少なくとも3回の大噴火にともなって,島の中央にカルデラ陥没が起きたことがわかっている.
ミノア噴火の直前にサントリニ島を大地震が襲ったことが,アクロティリ遺跡の調査結果からわかっている.この地震後,当時の人々が被災した町を復興させようと作業した痕跡が残っている.しかし,本当の災厄はその直後に訪れた.おそらく何らかの噴火の前兆があり,避難する余裕があったのであろう.遺跡の中で死んだ人は見つかっておらず,貴重品も持ち出されている.ただし,その後に起きた噴火はあまりにも破局的であったから,避難先の人々が助かったかどうかは定かでない.
まず,米粒大の降下軽石が無人となった町を薄くおおった.そして,次に4〜5cm大の軽石が降り,50cmの厚さで町をおおった.その直後,火砕サージの横風が町を襲った.そして最後に,破局的な火砕流が町を焼いた上で埋め尽くした.この火砕流はサントリニ島の全域をおおい,もっとも厚い部分の厚さは55mあるという.こうして植物を含む島上のすべての生命が死滅した.ミノア噴火全体のマグマ噴出量は30〜40立方kmという.
紀元前5〜4世紀のギリシアの哲学者プラトンは,彼の著作(「ティマイオス」と「クリティアス」)の中でおおよそ次のような内容を書き残している.「アテネの司政官ソロンが紀元前590年にエジプトを旅した時,出会った神官が彼にアトランティスの伝説を語った.アトランティスとは高度な文明をもつ島国であり,地中海のほぼ全域をも支配下においたが,地震と大洪水によって一昼夜にして海中に没した.」
その後,幾多の学者がこの伝説の謎を解いてアトランティスの場所を科学的に特定しようとしたが,成功しなかった.しかし,1939年になってギリシア人考古学者スピリドン・マリナトスSpyridon Marinatosの説が発表され,一時は多くの学者を魅了した.その説とは,クレタ島のクノッソスなどを本拠地として栄えたミノア文明こそがアトランティス伝説の起源であり,ミノア文明を滅ぼした天変地異は,およそ3600年前に起きたサントリニ島の巨大噴火とそれにともなう津波であるというものである.この説は,それを検証しようとするマリナトス自身の指揮によるアクロティリ遺跡の発掘によって,当初はかなり現実味を帯びたものになった.
しかし,その後サントリニ島やクレタ島で精力的におこなわれた考古学的および火山学的調査の結果,現在ではマリナトスの説はほとんど否定されている.ミノア噴火の火山灰は,成層圏中の風に吹かれ主として東北東のトルコ方面に降り積もったから,南方にあたるクレタ島にはほとんど被害を与えていない.噴火にともなう津波はたしかにクレタ島の沿岸を襲ったが,高台や島の裏側にある都市までが同じ時期に滅亡していることを説明できない.さらに決定的な事実として,アクロティリ遺跡がミノア噴火で埋没したのは,陶器の種類の変遷によって編まれた年代区分におけるLMIA期の出来事であり,クレタ島のミノア文明の最末期はそれより一時代後のLMIB期に属することがわかった.つまり,本拠地クレタ島のミノア文明が滅んだのは,ミノア噴火から50年ほど経た後であることがほぼ確定した.その時期,クレタ島のミノア文明の遺跡は,その多くが大火災を被って破壊されているという.その直接の原因がミノア噴火でないことがわかったわけだが,本当の原因が何かは依然として不明のままである.
ミノア噴火の後,サントリニ島は長い間人の住めない灰まみれの無人島になっていた.人が生活した痕跡が再び現れるのはおよそ400年後のことであるが,噴火前に避難した人々が故郷の島に帰ることは二度となかった.3600年前にエーゲ海のSantorini火山でおきた巨大噴火(ミノア噴火)の推移を物語る堆積物断面.降下軽石→火砕サージ→火砕流の順に積み重なっている.
スカロス山―中央火口丘の残骸とカルデラの全景
フィラの町からのカルデラ展望はたしかに美しいが,フィラは入江のもっとも奥に位置するため,カルデラの北の壁や南の壁が見えにくいし,何よりも美しいフィラの町自体をやや離れた場所の海側から見てみたいものである.そんな欲求をもち始めた方に最適なのが,この場所である.
フィラの町の中心テオトコポウロウ広場から自動車道を1kmほど北上すると,T字路があらわれオイアへは右折しろとの表示がある.このT字路を左に曲がると小さな広場とスーパーマーケットがあり,車を数台駐車できるスペースがある.ここに車を停め,さらに徒歩で坂をのぼりつめると,カルデラの入江に面した断崖の上に行き着く.その地点に立つと,三角形の頂点に四角い岩をのせたような特徴的な形のスカロスSkaros山がもう目の前に見えている.急斜面に立つ町中の狭い通路を下っていくと,スカロス山に渡る尾根上の歩道に出られる.歩道はよく整備されており,車を停めた場所から20分ほどでスカロス山の頂上に立てるはずである.
スカロス山は,カルデラの入江につき出た岬の上にそびえる山(標高298m)であり,北端のオイアから南端のアクロティリに至るカルデラ壁の全容のすばらしい展望台となっている.また,背後をふりかえればフィラにいたるカルデラ縁の白い街並みを眺めわたすことができ,そのまま何時間いても飽きないほどである.
ところで,足元のスカロス山の山壁をよく見ると,何枚もの水平な溶岩流の積み重なりからなっていることがわかる.スカロス山が,4〜5万年前にカルデラ内に形成された巨大な中央火口丘の残骸であることが実感できるだろう.また,スカロス山の山頂にはおよそ4万年前の噴火によって降り積もり,堆積時の高熱で溶け固まったスコリア層(US2)が観察できる.
フィラの町のオールドポートに停泊するエーゲ海クルーズの客船.背後の黒々とした山はスカロス山.
アティニオス港―サントリニ火山の20万年史
サントリニ火山の20万年間の噴火史すべてを実感したい方はここへ行くとよい.眺めも他の場所にまさるとも劣らない.フィラの町から自動車道を6kmほど南下し,アティニオスAthinios港への標識を右折する.道はすぐにつづら折りの坂となって,カルデラ壁を海岸に向かって下り始める.ところどころ道幅が広くなっていて駐車が可能である.
道ぞいの崖に沿って,カルデラ壁をつくる地層を上から順に観察できる.最上部では3600年前のミノア噴火の降下軽石・火砕サージ・火砕流堆積物のそれぞれがよく観察できる.つづいてその下位に,4〜5万年前の噴火の産物であるスコリア層(US2,US1など)や10万年ほど前の軽石層(LP2,LP1,CTMなど)が見られる.さらに下に行くと,たくさんの薄い紙をたばねたような緑灰色の岩石(緑色片岩)の露出があらわれる.前述のプロフィティス・イリアス山をつくるものと同じ古い時代の変成岩である.
一番下のヘアピンカーブわきのスペースに車を停め,そこから北側につづくカルデラ壁を観察しよう.そこには最上部のミノア噴火から,最下部のサントリニ火山形成初期の噴火にいたるすべての噴火堆積物のみごとな露出が見られる.壁の中ほどには10万年ほど前に噴出した溶岩流(アロナキ岬溶岩流)も見える.
徒歩で少し北に移動すると,さらに手前のカルデラ壁も見える.そこには噴火堆積物層を断ち切るいくつかの断層が観察できる.これらは過去のカルデラ陥没にともなってできた断層と考えられ,断層がどの層をずらし,どの層をずらしていないかに注目することによって,断層のできた時期(すなわちカルデラの形成時期)を推定することができる.
アティニオス港への道路ぞいに見られる噴火堆積物の積み重なり.
Santorini火山の巨大噴火の歴史を物語る堆積物断面.白い層は巨大噴火によってもたらされた軽石主体の堆積物.手前最上部の白い層が3600年前に起きたミノア噴火に対応する.
カメニ島―生きているサントリニ火山
以上述べてきたように,サントリニ島の地形,およびカルデラ壁に露出する数々の噴火堆積物は,火山島としての多様かつ危険な噴火の歴史を雄弁に物語っている.世界中の人々がその風光を楽しみに訪れるこの美しい島が,未来の巨大噴火によってふたたび死の世界に変わる時は来るのであろうか?
火山としてのサントリニ島が現在もなお地下で生き続けていることを示す証拠を,カルデラの中央に浮かぶカメニ島で見つけることができる.カメニ島へは,フィラのオールドポートからさまざまな観光船が毎日出航している.ネア・カメニ島だけに行くもの,両カメニ島に上陸するもの,両カメニ島を巡った後にティラシア島に上陸するものなど,さまざまなコースが用意されている(ただし,オフシーズンにはその種類や数が激減する).フィラのどのツーリストオフィスでも,これらの観光船の乗船予約ができる.
現在の海面上にあるカメニ島は,紀元1世紀以来の歴史時代の噴火によって作られたものである.古記録と地形との対応から,両カメニ島がどのように誕生し成長してきたかがわかっている.パレア・カメニ島は1世紀と8世紀の2度の噴火によって誕生した.その後,16世紀以後に起きた6回の噴火によってネア・カメニ島が誕生・成長した.ネア・カメニ島の中央で起きた1950年の噴火を最後に,現在まで新たな噴火は生じていない.
1956年7月9日未明,マグニチュード7.5の大地震がサントリニ全島を揺るがし,大きな被害が生じた.建物の多くが壊れ,57名の死者が出た.地震によって地下のマグマが刺激され,次の噴火が生じるのではないかと心配されたが,幸いにして何も起きなかった.この日以来,今日まで大きな地震も生じていない.
カメニ島に上陸した方は,歴史時代の噴火によって生じた新鮮な溶岩流や噴石丘を目の当たりにすることができる.そして,両カメニ島のまわりの海中にいくつかある温泉で体を温め,ネア・カメニ島の中央火口ではかすかな噴気も目撃することができるだろう.カメニ島,そしてサントリニ火山は確実に生きており,これまでの20万年間に十数回繰り返してきたように,またいつの日か巨大な噴火をおこすことだろう.それが近い将来であるのか,それとも数万年先の遠い未来であるかは,現代火山学の力をもってしても知ることはできていない.
過去2000年間の噴火によって作られたカメニ島
コラム:ミノア噴火以後のサントリニ島と東地中海の歴史
ミノア噴火以降,それに匹敵する大噴火はサントリニ島に生じていない.しかし,サントリニ島のカルデラ内では何度かの海底噴火が起き,徐々に後カルデラ丘を成長させてきたらしい.ミノア噴火以降にサントリニ島のカルデラ内で起きた噴火についての現存する最初の記録は,紀元前197年のものである.この噴火を含め,現在までに10回の噴火記録が残っている.現在のカルデラ内にあるカメニ島は,紀元46-47年の噴火で初めて海上に姿をあらわし,以後噴火のたびに面積を広げてきた.
サントリニ島のあるエーゲ海は,場所的には西洋と東洋,あるいはキリスト教圏とイスラム教圏の境界に位置し,古来さまざまな民族興亡の影響をもろにかぶった地域にあたる.サントリニ島の支配者はたびたび交代し,そのたびごとに島はまったく異なる文化の影響を被ってきた.サントリニ島とそれをとりまく東地中海の歴史を,噴火史とからめて簡単に振り返ってみよう.
紀元前197年の噴火では,現在のネア・カメニ島の東端近くにあたる海底で噴火が起き,新島イエラIeraが誕生したことが,高名なギリシア人歴史学者・地理学者のストラボンの叙述によってわかる.当時島を支配していたロードス島の人々がこの噴火を記録し,海神ポセイドンに捧げる祭壇を新島に築いた.しかし,この島は浸食によってやがて失われた.それからまもなく,サントリニ島はローマ人たちの支配下に入った.
次の噴火は,およそ200年後,ローマ帝国の人々の目前で起きた.紀元46年末〜47年初め,イエラ島があった場所の2km南西で海底噴火が始まり,やがて溶岩流からなるティアThia島が誕生したことが,ローマ人の歴史学者アウレリウス・ヴィクトールによって書き残されている.ローマ帝国空前の暴君,ネロ帝の出現前夜であった.
およそ700年の後の紀元726年,ティア島の北端に火口が開き,爆発的噴火が生じた.噴出した軽石や火山灰はエーゲ海の島々に被害を与え,遠く小アジアやマケドニアにも降灰があったと言う.ティア島はわずかにその面積を増やし,現在のパレア・カメニ島となった.この頃,サントリニ島はビザンティン(東ローマ)帝国の支配下にあった.東地中海では,領土拡大を続けるウマイヤ朝イスラム帝国とビザンティン帝国のにらみ合いが続いていた.聖像破壊運動が始まったビザンティン帝国では,ティア島の噴火を聖像崇拝禁止論者に対する神の怒りと解釈する人々もいた.
それから800年以上もの間,サントリニ島の噴火記録は残っていない.衰亡を続けたビザンティン帝国は,13世紀初めにサントリニ島の領有を放棄することになり,1453年に滅亡した.十字軍をうまく利用し,ビザンティン帝国に代わって島を実質的に支配したのは,東地中海の貿易権を独占した都市国家ヴェネツィアの商人たちであった.それまでカリストKallisteあるいはテラTheraと呼ばれていた島の名前は,この時期にサントリニと呼ばれるようになった.14世紀末から15世紀前半にかけてサントリニ島を支配したジャコモ公爵は,パレア・カメニ島の成因に興味をもって調査をおこなったという.ルネサンスの光が島を照らした一瞬である.しかし,大西洋航路の発達とともにヴェネツィアの威光も徐々に陰りを見せ始めた.
1570年,ふたたびサントリニ島カルデラ内のマグマが目を覚まし,かつてのイエラ島の噴火が生じた付近で海底噴火が始まった.この噴火は3年ほど続き,おもに溶岩流によって直径400m,標高70mのミクリ・カメニMikri Kameni島が誕生した.ビザンティン帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国は,その勢力を徐々に東地中海に拡大し,ヴェネツィアとの間で果てしない消耗戦を続けていた.1570年から始まった噴火のさなかの1571年,ヴェネツィアをふくむキリスト教国連合とオスマン・トルコの雌雄を決する艦隊決戦がギリシア沿岸でおこなわれた.史上名高い「レパントの海戦」である.ヴェネツィアはこの戦いに一時的勝利を得るも,オスマン・トルコ帝国は1579年についにサントリニ島の支配権を奪い,以後1821年までこの島を支配し,イスラム教文化が島をおおった.
1645年,オスマン・トルコ帝国は,東地中海におけるヴェネツィアの最後の牙城クレタ島への攻撃をはじめた.この戦争のさなかの1650年,サントリニ島北東岸から8kmほど沖にあるコロンボ岩礁で海底噴火が生じ,2年ほど続いた.この噴火にともなう地震によって津波が発生し,クレタ島のヘラクレイオン港を包囲していたオスマン・トルコ帝国の艦隊に大被害をあたえた.しかし,1669年,ヴェネツィアはついにクレタ島をオスマン・トルコ帝国に奪われる.都市国家ヴェネツィアは,その後1797年にナポレオンの手によって滅ぼされた.
1650年の噴火から57年の後,サントリニ島がオスマン・トルコ帝国の支配下にあった1707年5月から1711年9月まで続いた噴火によって,ミクリ・カメニ島の西側にネア・カメニ島が誕生した.現在のネア・カメニ島の原型となった島である.1821年,オスマン・トルコ帝国に対するギリシア人の武力解放闘争が始まった.オスマン・トルコ帝国は,その報復としてエーゲ海のヒオス島やプサラ島でギリシア人の虐殺をおこなったうえ,エジプトと連合して革命軍をせん滅し始めた.これに対し,東地中海の権益を確保したいロシア・イギリス・フランスは三国連合艦隊を派遣して,トルコ・エジプト艦隊を撃破した.この後,列強の庇護によって自治を認められたギリシアが,外国人の王や首相の支配,ファシズムや軍の台頭などを経て,本当の意味での民主的独立を勝ちとったのは1974年のことである.
ギリシアと列強との政治的駆け引きが続く中の1866年1月,155年の静けさを破って,ふたたびカメニ島の噴火が始まった.16世紀にできたネア・カメニ島の南端付近での水蒸気マグマ噴火と溶岩流出のすえ,ネア・カメニ島の面積は当初の3倍に拡大し,噴火は1870年10月に終了した.この噴火と前後して,サントリニ島の考古学的調査や地質学的調査が始められた.このことは,スエズ運河(1869年開通)の建設用資材として,島に大量にある火山灰が採掘され始めたことと無縁ではない.1919年,オスマン・トルコ帝国は民族革命によって滅びたが,それまでにトルコ半島の一部の権益を得ていたギリシアは,トルコ革命軍との交戦を強いられることになった.この戦争はギリシアの敗北に終わり,1923年の条約でギリシアの領土が(ロードス島などの一部を除いて)ほぼ現在のように確定した.
その2年後の1925年7月,ふたたびカメニ島の噴火が始まり,水蒸気マグマ噴火と溶岩流出が1928年まで続いた.この結果,ネア・カメニ島はさらに面積を広げ,すでにあったミクリ・カメニ島と合体してほぼ現在の形になった.この後,1939〜1941年にもネア・カメニ島中央からの溶岩流出があった.1950年1月には,やはりネア・カメニ島の中央で火山弾・火山灰の放出と小溶岩流の流出が起きた.この噴火が,現在までにサントリニ島,そしてギリシア全土で起きた最新の噴火である.
1967年,ミノア文明滅亡の原因はサントリニ火山の噴火であるという自説を信じる考古学者マリナトスに率いられた大規模な発掘が始まり,ついにアクロティリ遺跡の全貌が明らかになった.マリナトス自身は,1974年10月に,発掘が続く遺跡の中で宿命的な死を迎えたという.
カメニ島の成長史.Fytikasほか(1990)にもとづく.
「ヨーロッパ火山紀行」目次にもどる