静岡新聞 時評(2021年3月3日)
小山真人(静岡大学未来社会デザイン機構教授)
望ましい未来社会の姿をまず描き、そこに到達するための道筋を考える「バックキャスティング」の体現者・高柳健次郎(1899-1990)。彼が郷里の浜松で理想的な研究環境を得たことが、今あるTV放送の実現につながったと昨年12月24日の本コラムで述べた。
健次郎は、天竜川の支流・安間川が流れる浜名郡和田村安間新田(現浜松市東区安新町)で生まれ育った。たびたび天竜川の洪水に悩まされた歴史をもち、筆者が案内人をつとめたNHK「ブラタモリ」浜松編でも洪水の痕跡を探った場所である。ここは、天竜川の治水に始まり、その後の治山・利水・林業・運輸・銀行・更生保護などの数々の事業の創始者として名高い郷土の偉人・金原(きんぱら)明善(めいぜん)(1832-1923)が居を構えていた土地でもある。
健次郎の伯母・ちえは、明善の配下のひとり高柳弥平に嫁いだが、子宝に恵まれなかったため健次郎の父・太作が弥平の養子となった。しかし、弥平は新しい夫人を迎えて跡取り息子ができたため、太作は分家となって職を点々とし家計も苦しかった。
当初は教師を目指して静岡師範学校(現静岡大学教育学部)に通った健次郎であったが、徐々に物理学に興味をいだき、研究者への道を志向し始める。しかし、実家の窮乏で進学を諦めていたところ、そこに援助の話が舞い込んだ。弥平が亡くなった際に、明善の取り計らいで伯母に財産が分与され、それが結果的に健次郎の学費をもたらしたのである。そして、健次郎は東京高等工業学校(現東京工業大学)の工業教員養成所で学ぶことになり、自分の進むべき道を見出すことになる。
つまり、金原明善の配慮なくしてテレビジョンの父・高柳健次郎は存在しなかったと言えるだろう。ちなみに健次郎は自著に明善との思い出を語り、影響を強く受けたと記している。明善の孫であり、その事業を継いだ金原徳次は、その後もさまざまな場面で健次郎を助けている。健次郎が浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)に職を得て、初めて校長・関口壮吉と会ってテレビ開発の野望を語った時にも、当時の浜松銀行集会所の所長をしていた徳次が同席していたという。そのことは、関口が健次郎の話に呆れながらも耳を傾け、研究費の確保に動いたことに影響したかもしれない。
現代社会の礎をつくった高柳健次郎と金原明善の墓所は、ふたりの菩提寺であるJR天竜川駅近くの妙恩寺にある。