静岡新聞 時評(2020年12月24日)

社会変えた浜松での出会い

 思い描いた未来を実現

小山真人(静岡大学未来社会デザイン機構教授)

10月28日付の本コラムで、産官学のキーパーソンたちの出会いと交流が、浜松の楽器産業や音楽文化の隆盛をもたらしたことを解説した。同様の出会いと交流は、浜松が起源となった電子社会の実現につながったことも語っておこう。
 山葉寅楠(とらくす)の作った国産初のオルガンを製品化へと導いた静岡県令・関口隆吉の息子たちの多種多才ぶりは凄まじく、四男の関口鯉吉(りきち)は東京天文台(現・国立天文台)長、三男の加藤周蔵は旧制静岡中学の野球部監督として全国制覇した「岳南の球神」、次男の新村出(いずる)は広辞苑初版の編集者もつとめた言語学者、そして長男の関口壮吉(そうきち)(1876-1929)は、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の初代校長であった。彼は仁愛を基調とした自由啓発を重んじたことで知られ、それは現在の静岡大学の理念「自由啓発・未来創成」にも引き継がれている。
 1924年(大正13年)、壮吉の元に弱冠25歳の助教授として赴任してきたのが高柳健次郎(1899-1990)である。彼は、出身校の東京高等工業学校(現・東京工業大学)の初代校長・中村幸之助の薫陶を受けて「流行を追わず、20年後の未来に不可欠となる技術を開発すべき」と考え、郷里の浜松に職を得たのである。今でこそ持続可能な社会の実現のためには、まず望ましい未来の姿を思い描き、そこにたどり着くための具体的な道筋を考える「バックキャスティング」が重視されているが、中村や高柳の思想はその萌芽と言えるだろう。
 高柳が思い描いた未来は動画映像を全国で同時体験する社会、つまりはTV放送の実現であった。当時はラジオ放送すら開局前だったため、その夢を大言壮語のごとく語る高柳に壮吉は当初罵りもしたが、思い直して当時の文部省に掛け合って研究費を確保する。はたして高柳はその2年後、ブラウン管を用いた電子受像に世界初の成功を収める。
 その後の高柳の活躍は単なる研究者に留まることなく、芝浦製作所(現・東芝)の資金援助を取り付けたり、NHKや日本ビクターとの共同研究など、産官学連携の手本として、その先端を走り続け、みずから思い描いた未来を実現した。東海電子研究所(現・浜松ホトニクス)創始者の堀内平八郎も彼の門下生である。

 


 

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