静岡新聞 時評(2020年10月28日)

ブラタモリ浜松こぼれ話

 地域つくる人の出会い

小山真人(静岡大学未来社会デザイン機構教授)

 NHK「ブラタモリ」の案内人を以前、浜松で務めた。同番組で案内したのは、富士山から数えて3地域めとなる。制作過程では、まずスタッフと案内人(候補も含む)が当地の成り立ち・歴史・産業等にわたる話題を徹底的に収集しながら下見を重ねる。その後、厳選を重ねたシナリオを作成して本番収録に至るので、惜しくも漏れたエピソードが多数ある。その中のひとつを紹介しよう。
 今回の番組は、天竜川がもたらした地形や洪水が楽器産業の成り立ちに深く関係したことを探る謎解きの旅であったが、重要な転換点は偶然とも言える人と人との出会いにあった。当時の浜松尋常小学校(旧元城小、現浜松中部学園)に納品された米国製のオルガンが故障して誰も直せない。困り果てた県議会議員で同小の学務委員だった樋口林治郎が、当時あった浜松病院の福島豊策院長に相談した結果、和歌山から来ていた腕の良い医療器具修理工に直させることになった。この修理工こそが後の日本楽器製造(現ヤマハ)創業者・山葉寅楠(とらくす)(1851-1916)である。オルガンを分解してみた山葉は、自分の手で製品化できることを確信し、試作機の完成に至る。
 しかし、彼の手に負えなかったのが調律である。山葉の相談を受けた樋口は、静岡県令(後の初代県知事)の関口隆吉(1836-89)を介して、文部省担当官の伊沢修二(1851-1917)を山葉に紹介する。伊沢は後に東京音楽学校(現東京芸術大音楽学部)の初代校長となり、「日本の近代音楽の父」と呼ばれた人物である。伊沢の助力によって最初の国産オルガンが誕生し、その製造拠点・山葉風琴製造所(後の日本楽器)が生まれる。ここで注目すべきは、福島と樋口が山葉に資金援助し、関口も当時は高価だったオルガンを発注して山葉をサポートしたことである。また、樋口が山葉に紹介し、11才にして山葉風琴製造所に入社した浜松尋常小の天才児童・河合小市(1886-1955、河合楽器研究所すなわち現河合楽器製作所の創業者)が、最初の国産ピアノ製造の立役者となった点も忘れてはならない。
 つまり、産・官・学それぞれのキーパーソンの出会いと交流が無ければ、現在の浜松の楽器産業や音楽文化の隆盛は無かった。組織の内部や組織間に壁を作らず、人と人とが自由に出会い協働できる仕組みをつくることが、地域づくりのために本質的に重要と言えるのではないだろうか。

 


 

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