静岡新聞 時評(2020年8月27日)
小山真人(静岡大学未来社会デザイン機構教授)
幕末の伊豆松崎にあった「三余(さんよ)塾」をご存知だろうか。那賀川沿いの名家に生まれた土屋三余(1815-66)は、若くして江戸で勉学して名声を得た後、故郷に戻って「三余塾」を開いた。彼の下には伊豆だけでなく全国から700人を超える門下生が集まり、きら星のごとく近代日本の様々な分野を支えるリーダーとなった。幕末期の日本各地には多数の塾が誕生したので、塾の存在自体は珍しくない。しかし、三余塾の塾生とその関係者たちの活躍は多分野にわたって華々しく、特異と言えるだろう。
たとえば、依田(よだ)佐二平(さじべい)(1846-1924)は、近代化した養蚕・製糸業の一大拠点を松崎に創出するとともに、海運業・銀行業のほか学校設立にも取り組み、帝国議会の衆議院議員も務めた。彼の弟・依田勉三(1853-1925)は、十勝地方の開拓に没頭して当地発展の礎となり、現在の帯広で彼の名を知らぬ者はいないほどである。三余と依田兄弟は松崎の三聖人として、彼らの郷里近くの道の駅「花の三聖苑」に資料が展示されている。塾生で遠洋漁業の先駆者・石田房吉と依田一門の妻との間に生まれた石田礼助(1886-1978)は、松崎小学校を卒業後に三井物産の代表取締役や国鉄総裁にまで上り詰めた。
振り返って現在の伊豆地方を見ると、北縁の東海道沿線を除けば、いくつかの大学付属の研究施設が点在するだけで高等教育機関の人材育成拠点と言える場所はなかった。静岡大も、湯ヶ島に無人の小さな実習施設を持つのみだった。伊豆半島で生まれ育った優秀な若者は、三余自身や石田礼助がそうであったように、半島外で専門教育を受けざるを得なかったのである。こうした状況は人材流出や過疎・高齢化の誘因となりえるので、地元大学としての静岡大の責任は重大と言えよう。
しかし、ようやく一筋の光が差し込んだ。この7月、静岡大学が伊豆市内に東部サテライトを開設し、教職員2名を常駐させた。そして、その副称を「三余塾」とし、出会いと学びと恊働の場を提供・運営していくことを掲げている。その名と目標はもちろん松崎の三余塾に敬意を表し、その精神を受け継ぐものである。現状は小さな施設であるが、徐々に整備されていくだろう。復活した三余塾の今後の活躍に期待してほしい。