静岡新聞 時評(2018年11月29日)
小山真人(静岡大学防災総合センター教授)
最近、静岡平野の生い立ちについて考える機会を得たが、そこで気づいたのが安倍川の流路変遷についての通説の異様さである。
その説は次のように要約できる。中世以前の安倍川と藁科川は現在のように合流せず、海岸まで並行して流れていた。また、安倍川は賤機山の南で複数河川に分流し、本流が駿府城のすぐ西を流れていたため、その西側と東側に安西・安東という地名がついた。その後、徳川家康が「薩摩土手」を築かせたことによって安倍川の流路が変わり、藁科川と合流した。
しかしながら、静岡平野の現在の地形から考える限り、そのような事実は認めがたい。安倍川と藁科川が海岸まで並行して安定的に流れるためには、両者の間に相当な地形的障壁が必要だが、該当しそうなものは見当たらない。また、「薩摩土手」程度の堤防築造によって、そうした障壁を乗り越える流路の付け替えができたとも考えにくい。安倍川と藁科川は、中世以前から現在のように合流していたと考えるのが自然である。
さらに安倍川の分流に関しても、通説は扇状地のできかたを誤解しているように見える。駿府は扇状地の斜面上に造られた町である。扇状地の河川は洪水のたびに流路を変え、土砂をさまざまな方角に堆積させる。それゆえに土砂が扇状に積み重なって扇状地が形成する。よって、洪水後に一時的に安倍川本流が駿府城の西側を流れたとしても、地名が付くほどの安定した流路になるとは考えにくい。また、扇状地の頂点から放射状に流れる小河川群は伏流水が湧き出したものであり、本流の分流ではない。
そもそも中世以前の安倍川の流路や、家康の治水工事に関する当時の史料は見つかっていない。現在の通説は19世紀の地誌が初出であり、出所不明の言い伝えや想像を交えているように見える。それを1981年刊の静岡市史が図化したため、今では静岡市や国交省静岡河川事務所の解説資料やホームページもそれに従っている。しかしながら、その通説に対して数々の証拠を挙げて合理的な疑問を述べているのは、他ならぬ静岡河川事務所が1992年に刊行した「安倍川治水史」である。
県都の成り立ちに深く関わる安倍川の流路変遷が確たる証拠なく語られている現状は、好ましいものではない。詳細なボーリング調査と地層の年代測定が望まれる。