静岡新聞 時評(2013年4月25日)

下田市の津波防災

  港町発展へ百年の計を

小山真人(静岡大学防災総合センター教授)

 下田市役所の移転問題が関心を集めているが、その前提となる津波リスクを再確認したい。下田は航路上の重要な位置を占め、港に適した地形もあって古くから栄えてきた。しかし、その地理的・地形的特徴は、皮肉なことに全方位からの津波を呼び込む作用も備える。これにより下田の歴史は、津波によって繰り返された破壊と復興の歴史でもある。18世紀以降だけ見ても1703年元禄関東地震、1707年宝永東海地震、1854年安政東海地震の3度、下田の街と港は壊滅的な被害を被り、とくに安政東海地震では全家屋875軒のうち96%が流出という惨状を呈した。この津波の高さは市街地の中心部で6m、市役所付近で3〜4mに達した。明治以降も1923年大正関東地震と1944年東南海地震の津波が市街地を襲った。17世紀以前の記録は定かでないが、歴史上すべての東海地震(繰り返し間隔100〜150年)と関東地震(繰り返し間隔250年程度)の津波で大被害を受けてきたことは確実であり、それは将来も繰り返される宿命をもつ。
 このリスクに対し、下田の街はあまりに無防備である。稲生沢川の河口低地に広がる街の標高は低く、港の防潮堤は津波を本格的に対策したものではない。
 役場が被災した自治体は悲惨である。住民の貴重な帳簿や記録が散逸し、役場としての機能が喪失するので、防災拠点だけ高台に移せば済む問題ではない。建物の上階が残ったとしても、周囲の道路やライフラインは使い物にならなくなる。下田への陸路は崖崩れで寸断され、海路は港が破壊されて近づけず、外部からの救援は当分望めない。そんな中でどうやって復旧・復興を成し遂げていくのか。そうした自治体は、当然のことながら観光客を守ることもできない。この現実を直視し、百年の計をもって災害に強い観光都市を築いてほしい。
 国や県を過度に頼ってはいけない。安政東海地震の後、開国という国策の下に大量の復興資金が投入されたが、思うように人口は回復せず、その後の国策変更によって開国港・下田の夢は5年後に消えた。後に残された多額の借金を抱えて下田はいったん没落し、苦難の道を歩んだことはあまり知られていない。今は自分たちの着想と努力で、世界でもっとも美しい港町のブランド価値を高めて経済発展を図るしかないが、それは基盤となる防災あっての話である。

 


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