静岡新聞 時評(2008年8月12日)

川の防災を考える

  「対策依存症」から脱却を

小山真人(静岡大学教育学部教授)

 神戸市の川で死亡事故が起き、警報装置の設置が検討されているという。警報装置や、さらには鉄砲水を出しにくくする川の改修工事は重要と思うが、一方で危険な川は日本中に数限りなくある。そうした対策を広めるには莫大な費用と時間がかかる。さらに、対策によって絶対の安全が保証されるわけではない点にも注意すべきである。想定外の災害は今後も起きえるし、状況判断をお役所任せにして警報が出るまで逃げなかったり、警報が出ても無視して被災する人々が必ず出てくる。そうした問題は水害にとどまらず、他の災害でも表面化している。だから、機器の設置や土木工事などのハードウェアだけに頼る対策はあまりに安易であるし、そうした対策の不在を理由に行政を責めるマスメディアや住民も軽率である。
 インタビューを受けた地元の古老が「六甲山に雲がかかったら、私は絶対に川に近寄らない」と語っていたが、こうした先人の経験や知恵が生かされていないことの方に、むしろ強い危機感を覚える。自然災害大国である日本では、対策工事や警報システムなど全く存在しない大昔から、住民は自然とうまく付き合い、今の繁栄を勝ち得てきたのだ。そうした貴重な経験知をすべて忘れ、自然の成り立ちや仕組みに関心をもたず、自らすべき備えや安全管理の大半を行政に押しつけている。それが現代の日本人である。
 たとえば、川の風景の意味を考えてみるがいい。なぜ河原には草が茂っていないのか。その場所がたびたび水につかるからである。なぜ河原には岩や砂利がごろごろしているのか。それらを上流から運ぶ強烈な洪水が、過去に何度も起きたからである。なぜ堤防の外にも広くて平らな土地があるのか。洪水が大量の土砂を運び、もとの凹凸を埋め立てたからである。険しい山ばかりの島国にとって、平野や盆地はむしろ異常な地形と認識すべきである。過去にその土地を平らにした恐ろしい事件があったのである。逆に、洪水があったからこそ、険しい島国に1億人以上を養える平野や盆地が生まれた。
 そうしたことを住民ひとりひとりが理解すれば、おのずと川との付き合い方は変わる。すべては教育・啓発の問題と言ってもよい。そして、それにかかる費用は、ハードウェア対策にかかる費用より桁違いに安く済む。また、警報に頼らなくても、いまや住民が必要とする情報はネット上にあふれている。パソコンや携帯で「防災情報提供センター」を検索してみるがいい。日本全国、どの山にどれくらい雨が降っているかは、10分おきに更新される国交省のレーダー画像で見られるのである。


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