静岡新聞 時評(2007年7月4日)
小山真人(静岡大学教育学部教授)
さまざまな記録や証拠から判断して,いまから約400年前の慶長九年十二月十六日(1605年2月3日)の夜半前に,東海地震と南海地震が同時に発生したと考えられている.ところが奇妙なことに,この地震は震源域の近くで弱いゆれが感じられただけで,たとえば京都では誰も地震発生に気づかなかった.このことは,歴史上の他の東海地震が京都でも「大地震」と記述され,被害の発生すら報告されていることと大きく異なっている.1605年当時の京都周辺で書かれた貴族や僧侶の日記がいくつか現存しているが,どの日記にも平穏な日常がつづられているだけで,問題の日に地震を感じたという記述をまったく見つけることができない.
豊臣秀吉とも親交があった京都醍醐寺(だいごじ)の住職義演(ぎえん)の地震当日の日記には,「畳の取り替えが終わった」などという,迎春の準備にいそしむ寺の日常が記されている.大地震の風聞が京都に伝わったのは,約1ヶ月後のことである.その噂を聞いた義演は,「このあたりでは覚えず」などと京都無感の事実を明記している.
では,この地震がなぜ東海・南海地震と判定できるかというと,津波の規模や被災範囲が通常の東海・南海地震とほぼ同じだったことが,他のさまざまな史料や物証によって確認できるからである.ゆれの弱さゆえに大地震発生の事実に気づかなかった住民は,寝ているところを突如津波に襲われ,甚大な被害を被ったのである.
つまり,1605年地震は,本来はマグニチュード8クラスでありながらそれに見合ったゆれを伴わず,津波だけはしっかり発生させた特異な大地震だった.このような地震は,数こそ少ないが世界各地での発生事例が報告されており,「津波地震」と呼ばれている.津波地震は,震源断層が通常の地震に比べてゆっくりとすべるために,建物破壊をもたらすような短い周期の地震波をあまり発生させない.
1605年慶長津波地震の存在は,東海・南海地震も時には津波地震として発生するという事実を歴然と物語っている.まったく背筋が寒くなる話であるが,このような津波地震の原因や発生頻度は,まだ十分に解明できていない.過去1300年あまりにわたる東海・南海地震のくり返しの歴史の中で,津波地震と判断できる事例はまだ1605年の1例のみであるが,私たちは,その発生可能性を念頭において「東海津波地震」が再来しても全くのお手上げにならない手立てを考えておくべきである.