静岡新聞 時評(2005年8月24日)
小山真人(静岡大学教育学部教授)
インド洋大津波以来,戦前の国語教科書にあった「稲むらの火」が,すぐれた津波教材として再び注目を浴びている.1854年安政南海地震の際の逸話を小泉八雲が脚色した作品がもとになっており,津波の襲来にいち早く気づいた庄屋が,収穫されたばかりの稲の束に火を放つことによって村人を高台に招き,稲束と引き替えに多くの村人の命を救う物語である.感動的な作品であるが,津波教材として見た場合にはいくつかの欠点がある.さらに,津波教材としての賞賛を受けるあまり,この作品の本当の価値が見逃されているように思えてならない.
まずは津波教材としての欠点をまとめる.最初の津波が「引き波」で来るか「寄せ波」で来るかは,津波の発生の仕方や発生源との位置関係によって異なる.引き波で来た場合には,最初に潮が異常に引くために危険に気づきやすいが,寄せ波で来た場合には前ぶれなく海面が上昇するため,より深刻である.「稲むらの火」は引き波のケースのみを描いているため,寄せ波で来る場合の危険性が伝えられていない.
第二の欠点は,庄屋が津波の発生に気づいたきっかけが,ゆっくりとした小さな揺れの地震として描かれている点である.これは津波地震(揺れが小さい割に大きな津波を発生させる地震)などの際に起きる特殊なケースであり,実際には大きな揺れを伴う地震の後に津波が来る場合が多い.
他の欠点としては,地震後すみやかに津波が来たように描かれていることや(現実には地震発生から何時間も経って津波が来る場合もある),津波の細部の描写(津波が二度三度と襲ってくることや,一度目の波が最大になるとは限らないことなど)が十分でない点が挙げられる.
津波教材として「稲むらの火」を使用する場合には,以上の欠点への配慮が必要である.最近これらの点に多少とも配慮した劇や紙芝居が増えてきたことは喜ばしい.しかしながら,「稲むらの火」の真髄を正当に評価した舞台や評論をあまり目にしたことがないのは残念である.「稲むらの火」の真の価値,それは幕末当時の人々にとっての稲束の資産価値を考えることによって判明する.現代では札束にも相当するような資産を燃やしてまで人の命を守るという,災害時における価値観の転換の大切さ,これを語っているからこそ「稲むらの火」は万人に感動を与える.さらには,この作品に津波教材という狭い枠にとどまらない普遍性を備えさせているのである.