静岡新聞 時評(2005年6月15日)

ベネチアの光と影

  一流の観光とは何か

小山真人(静岡大学教育学部教授)

 今年4月28日付のこのコラムで,東京ディズニーシーの人工火山「プロメテウス」が,専門家が脱帽するほど本物に似せて作られていること,そしてその精巧さを利用した新たな観光客誘致の可能性や意義を述べた.今回は,さらに別の面からディズニーシーの隠された魅力を語るとともに,日本人の観光のあり方について問題提起を行う.
 ディズニーシーの入口付近の一角には,アドリア海に面する内湾の干潟に築かれた歴史都市で「水の都」としても名高いベネチアの街角が再現されている.新築でありながら,古びた美しい都市の景観を複製した技術は見事なものである.しかし,しょせんは模造品に過ぎないこの一角が,本物のベネチアが抱える根深い問題の痕跡までを再現していることに気づいた人が,いったい何人いるだろうか.
 ディズニーシーの「ベネチア」を訪ねたら,建物の壁や柱についた汚れのパターンに注目してほしい.かすかな二本の横縞が,常に同じ標高に描かれていることに気づくはずだ.この縞模様こそが,現代のベネチアが抱える「アクア・アルタ」の悩みを物語っているのである.アクア・アルタとは,ベネチアの宿命とも呼べる高潮災害のことである.干潟の軟弱地盤に築かれたベネチアは,建物の自重による長期的な地盤沈下に悩まされ続けており,大潮の際の満潮時には町の一部が人の腰の高さまで水没してしまう(写真:1996年11月).その高水位の記録が,汚れの縞模様としてあちこちの建物に残されている.何とそれが模造品のベネチアにおいても忠実に再現されているのである.
 ベネチアの住民も手をこまねいているわけではない.内湾から外海へ通じる3箇所の出口に,水位調節のための特殊なダムを建設する前途多難な計画(海に路をひらくモーゼの故事にちなんでモーゼ計画と呼ばれる)をスタートさせている.このようなベネチアの苦悩を知らずに,今日も大勢の日本人がベネチアを訪れている.高潮の驚異に目を見張る欧米人観光客をよそに,彼らの多くはショッピングや記念写真に夢中である.
 日本国内においても,日本人観光客の大多数は美しい風景を酒やカラオケの肴としてしかとらえておらず,景観の成り立ちや意味を考えることはしない.観光地の輝きだけでなく,その土地の背負った宿命や,そこに生きる人々の苦楽の歴史を共有してこそ,深い感動が得られる.欧米ではすでに常識となっている,そのような一流の観光の価値を知る人々が,日本の主流になるのはいつの日だろうか.

 


もどる