静岡新聞 時評(2023年8月2日)
小山真人(静岡大学未来社会デザイン機構教授)
2021年3月に改定された富士山ハザードマップにおいて、過去一度も溶岩流が到達していない小山町のJR足柄駅付近から御殿場線沿いの谷間を経て、はるか下流の小田原市北部にまで溶岩流の到達が想定されているのは過大との声を聞くことがあるので、説明しておきたい。
たしかに過去の噴火では、富士山から御殿場市方面に流れ下った溶岩の多くは南東の裾野市方面へと向きを変え、中には三島市や清水町まで到達したものもあるが、真東の足柄方面に向かった溶岩で到達距離を延ばしたものは皆無である。
その理由としてまず考えられるのは、溶岩を真東に流すことができる火口の場所が地形的に山頂東側のごく狭い範囲に限られており、そこが既存の火口の密集域からも外れていることである。このため、この範囲に火口が生じること自体が少なく、結果としてその下流にあたる足柄方面が溶岩流の洗礼を免れたのである。実際に、コンピュータ上でこの範囲内に火口を想定した場合にのみ、足柄方面に溶岩流が到達することが確かめられている。
もうひとつの可能性は、かつて現在の山頂の東側に古い火山(古富士火山)の高まりがあったことと関係する。その高まりが、真東への溶岩の流れを妨げる「土手」として作用したため、足柄方面に溶岩流が到達できなかったのかもしれない。しかし、この高まりは2900年前に起きた大規模な崩壊によって消滅してしまったので、現在は真東への溶岩流をさえぎるものはない。
富士山は、山頂とその周囲の山腹に多数の火口を開き、四方八方に多数の溶岩を流してきた火山である。とは言え、それでも溶岩流の洗礼を長期間免れた場所が、山腹や山麓の各所に点在している。たとえば、富士山スカイラインの西臼塚駐車場(富士宮市)の南西側一帯は、幸運にも溶岩流の洗礼を8000年間も免れている。しかし、地形や想定火口範囲との近さを考えれば、その場所が未来永劫安全というわけではない。つまり、過去に溶岩流が一度も来ていないから大丈夫と考えるのは、経験に過度に頼りすぎた安全神話に過ぎない。
ハザードマップの作成においては、そうした「幻の安全地帯」をつくらないために、わざわざコンピュータ上に仮の火口を多数設定し、そこからあふれ出す溶岩の流下シミュレーションを実施しているのである。