(地学雑誌,地学雑誌,104巻,45-68頁,1995)
本文のみ.図と引用文献については原論文をご覧下さい.また,ここに載せたものは校正前のテキストであり,最終的な印刷論文とは違いがあります.やむをえない事情で校正の時にかなり手を入れたので,ここに示すものは参考程度にとどめてください.


西相模湾断裂の再検討と相模湾北西部の地震テクトニクス

小 山 真 人

静岡大学教育学部地学教室

Abstract

I.はじめに
 伊豆・小笠原弧と東北日本弧との間のプレート境界が通過する相模湾北西部(図1)は,1923年関東地震に代表されるM8クラスの地震の発生場であり,また1853年嘉永小田原地震のようなM7クラスの地震が繰り返し発生する場としても知られている.この地域の海底には複雑な活構造が存在し,周辺陸上にも国府津―松田断層に代表される数多くの活断層が分布する.これらの活構造や地震の発生メカニズムをテクトニクス上の視点から統一的に理解することは重要な意味をもつ.
 主として地震時の地殻変動データから1923年関東地震の震源断層運動を推定した研究は数多くなされている(Kanamori, 1971; Ando, 1971, 1974; Matsu'ura et al., 1980など).石橋(1977,1980)は,これらの関東地震の震源断層モデルがいずれも初島における地震時隆起をうまく説明できないことを指摘し,震源断層の副断層として相模湾北西部海底に西相模湾断層を推定した.また,石橋(1985)は,少なくとも過去300年間にわたって小田原における歴史上の被害地震(M7級)がほぼ70年おきに繰り返し起きてきた史実を指摘し,西相模湾断層がこの地震の震源断層も兼ねていると考えた.さらに,石橋(1988)は西相模湾断層のテクトニクス像を再検討し,それが伊豆弧内部に生じた新生プレート沈み込み境界でなく,伊豆・小笠原弧の外弧/内弧間のプレート内断裂(西相模湾断裂 West Sagami Bay Fracture,以下WSBF)であるとの考えに改めた.これに対し,松田(1993)は,相模トラフ断層から真鶴海丘南縁断層を経て西相模湾断層へと鉤型に連なるスラストが1923年関東地震を発生させたと考え,このスラストによって初島の地震性隆起を説明できると考えた.
 小田原周辺で繰り返されるM7級地震の発生メカニズムについては,西相模湾断層(またはWSBF)以外の発生源を考えるモデルも提案されている.松田(1985)は,1923年関東地震が国府津―松田断層を変位させなかったことを指摘し,国府津―松田断層を周期的に変位させる別の地震(大磯型地震)があると考え,その地震の再来周期をおよそ170年と見積もった.山崎(1985)およびYamazaki (1992)も大磯型地震の存在をみとめたが,地形地質データからその再来周期を2300年以上と推定した.これらに対し石橋(1992)は,大磯型地震を関東地震と独立した地震として考える必要性を認めていない.
 以上のように,相模湾北西部とその周辺地域で発生するM7〜8級地震のテクトニクス的解釈は,多くの研究者間で意見が食い違っている.石橋(1988)のWSBFとそれがもたらす小田原付近の被害地震発生仮説は,プレート幾何学とプレート運動,中新世以来の本州弧―伊豆・小笠原弧衝突帯の発達史,歴史地震,海底地形などの広範なデータにもとづく魅力的な考えである.しかしながら,この仮説には他の研究者による批判が少なくない(たとえば,萩原,1993).本論では,相模湾北西部とその周辺地域で明らかになっている広域地質構造・第四紀地殻変動・第四紀火山活動史の特徴をもとに,応力場・地殻構造・地震分布などのデータを加味することによって,相模湾北西部の地震テクトニクスに関する考察を試みる.本論では,まずこの地域の地震テクトニクスを考える上で避けることのできない問題として,本州弧―伊豆・小笠原弧衝突帯におけるプレート境界の位置の問題について触れる.次に,石橋(1988)のWSBFモデルの良否についての再検討をおこない,その問題点を改良した新しいモデルを提案する.なお,本論で扱うようなプレート境界部の議論に限定しない,より広域的な伊豆・小笠原弧火山弧北端部全体の現在および第四紀後期テクトニクスの議論については,小山(1994)を参照されたい.

II.プレート境界の位置の問題
 相模湾北西部をふくむ伊豆・小笠原弧北端部の地震テクトニクスの議論においては,フィリピン海プレート(以下PHS)と本州側のプレートとの境界がどこを通過するかという問題を避けて通ることができない.PHSの東縁をなす伊豆・小笠原弧の北端部は,活動的火山弧であるがゆえの浮揚性(buoyancy)をもつため,本州弧に衝突していると考えられている.このことが問題を複雑化し,この地域のプレート境界の位置・形状・性質にかんする研究者間の議論がいまだに続いている.

1)従来の研究
 伊豆・小笠原弧北端部におけるPHS北縁境界の位置を初めて議論した杉村(1972)は,境界が通る場所として駿河湾北端の田子ノ浦と足柄平野を流れる酒匂川とをなめらかに結ぶ構造線(田子ノ浦・酒匂川線)を推定し,箱根火山北方の活断層として知られる神繩断層(図1)を田子ノ浦・酒匂川線の一部と考えた.
 しかし,その後神繩断層は数多くの横ずれ断層群(塩沢断層系,中津川断層系)によって分断されていることがわかり(たとえば,狩野ほか,1984;Ito et al., 1989),すくなくとも現在の神繩断層はプレート相対運動を解消する単一の境界でないことが明確になった.このような事実から,石橋(1977,1980)は,伊豆半島北縁のプレート境界ではすでにプレート収束運動がおとろえ,現在は西相模湾断層で収束が始まっており,西相模湾断層と駿河トラフの間は伊豆半島南部を通る幅をもった右横ずれ帯(伊豆トランスフォームベルト)によってプレート相対運動が解消されていると考えた.また,Tada and Sakata (1977)および多田(1977)は,1923年関東地震時の地殻変動にもとづいて,現在のプレート境界としては熱海と沼津をむすぶ構造線(熱海―沼津構造線)を考えた方がよいと主張した.
 これらの考えに対し,中村・島崎(1981),島崎ほか(1981)およびNakamura et al.(1984)は,プレート沈み込み境界を高い精度でみる場合には物質境界と力学境界という2種類の概念(図2A)が必要であるとし,PHS北縁境界においては,駿河トラフから黄瀬川低地・箱根火山北縁・足柄平野を通って相模トラフにつづく線が物質境界,物質境界の本州側をとりまく活断層の集中帯を力学境界と考え,西相模湾断層をプレート内部の副次的な断層として扱った.
 プレート物質境界/力学境界の考え方は,その後の本州弧―伊豆・小笠原弧衝突帯のテクトニクス研究に大きな影響をあたえたが,中村らのプレート境界の引き方自体にはさまざまな反論が提出されている.沈み込み境界としての西相模湾断層の考え方を撤回し,あらたにPHS内断裂というWSBFの考え方を採用した石橋(1988)は,相模湾におけるプレート物質境界の位置を,中村らの考える相模トラフ軸よりもさらに南に考えた.また,大河内(1990)と松田(1993)は,相模トラフ断層から真鶴海丘南縁断層につらなる構造線を関東地震の主スリップをおこすプレート力学境界断層とみなし,力学境界の南縁をやはり中村らより南に考えた.

2)変形フロントと沈み込み口
 プレートの物質境界/力学境界は,相模湾北西部に限らない沈み込み帯一般の地震テクトニクスを考える上での重要な概念である.しかし,衝突帯のような特殊な場所に適用するためには定義自体に問題点がないわけでなく,誤解も生じている.ここでは,中村らのプレート物質境界/力学境界の定義を再確認した上で問題点を指摘し,物質境界/力学境界の考え方を改良した新たな概念(変形フロント/沈み込み口)の提案をおこなう.
 プレートの物質境界/力学境界は,伊豆・小笠原弧北端部周辺のプレート沈み込み帯における高精度・高分解能の観測データを統一的に説明するために導入された概念である(中村・島崎,1981;島崎ほか,1981;Nakamura et al., 1984).彼らのプレート物質境界/力学境界の定義はそれぞれ次のようなものである(図2A).
 プレート物質境界:沈み込む海側プレート上面が,海溝(またはトラフ)内において陸源物質(つまり沈み込まれる側のプレート起源物質)で覆われ始める場所.言いかえれば,海溝内における陸源堆積物分布の海側末端であり,便宜的には海溝またはトラフ最深部をむすぶ線(=海溝軸またはトラフ軸)にあたる.
 プレート力学境界:プレート相対運動による変形が集中する場所.物質境界近傍における陸側プレートは未固結堆積物で占められるため,脆性的な変形ができない.一方,物質境界からやや陸側に隔たった場所では陸側プレートの強度が増すため,プレート相対運動による脆性的な変形はここに集中し,力学境界を形成する.力学境界は,地下深部の低角のプレート境界断層から分岐して地表へと向かう高角の逆断層群とそれにともなう活褶曲帯として認識できる.
 力学境界は一本の直線でなく幅をもつ帯であるため,力学境界域という呼び方がむしろ適当である.実際に,Nakamura et al. (1984)は「mechanical boundary zone」という言葉を使っている.このように力学境界域は幅をもつ帯として定義されたにもかかわらず,研究者によってはこの認識が希薄であり,単一のプレート境界断層の意味として誤用されることがある.また,力学境界域の実体は活構造の集中帯であるため,どこからどこまでを集中帯として認識するかが研究者の主観によって異なる.力学境界域内の活構造の集中度は陸側に向かって徐々に下がる場合が多く,力学境界域は明瞭な境界をもつ帯として地図上に表現しにくい.
 このような誤解や欠点を解消するために,ここでは力学境界域に代えて変形フロント(deformation front)という概念の使用を提案する(図2B).力学境界域を構成する活構造群は,物質境界からある距離を隔てた場所から分布が始まるため,地表においてこの活構造群分布の始まる場所を連ねた線を引くことができる.この線を変形フロントとして定義する.変形フロントは,力学境界域の海側の境界線に等しい.活断層分布図(活断層研究会,1991)や地震波探査断面図(Kato, 1987;岩淵ほか,1991;笠原ほか,1991;加藤ほか,1993など)から読みとった相模湾における変形フロントの位置を図1に示す.後述するように真鶴海丘南縁断層は,伊豆外弧の沈み込みにともなう東北日本弧側の変形フロントの一部とみることができる.
 力学境界域と同様に,物質境界の定義にも欠点がある.物質境界は,プレート境界部の地表をおおう堆積物を,その供給元となったプレート別に区分した境界である.よって,表層の未固結物質の地滑りや重力流による移動によっても境界の位置が変動しうる表面的な境界であるため,物質境界の厳密な位置自体にさほど重要なテクトニクス上の意味はない.また,海側プレートの表層が遠洋性堆積物によってひろく覆われる通常の沈み込み帯においては,「海側プレート上面が陸源物質で覆われ始める場所」としての物質境界の認識は容易であろうが,沈み込むプレート上に陸域と火山弧が存在し大量の堆積物がプレート境界域へと供給される伊豆・小笠原弧北端部においては,事情は複雑である.相模トラフ(図1の相模海盆)を横断する地震波探査断面図(図3)をみると,沈み込む側の伊豆・小笠原弧表層にも大量の堆積物が存在する上,トラフ底は堆積物によって埋積され,トラフを充填する堆積物のどこまでが本州弧起源でどこまでが伊豆・小笠原弧起源であるかを明瞭に読みとることはできない.よって,便宜上トラフ最深部を物質境界にとるほかはなく,そのような境界位置のテクトニクス上の意味は希薄である.そもそも,海溝/トラフ充填堆積物はテクトニクス的意味の等しいひとつの構造単元であり,その中に境界を引くこと自体に意味があるとは思えない.
 以上のことから,テクトニクス上の意味がより明確な,物質境界に代わる新しい概念を採用するほうがよいと考える.ここでは,海溝/トラフ充填堆積物の全体がひとつの構造単元であることを重視し,海溝/トラフ充填堆積物の海側末端(つまり沈み込む側のプレート表面が海溝/トラフ充填堆積物に覆われ始める場所)として沈み込み口(subduction entrance)を定義する(図2B).一般に海溝/トラフ充填堆積物は,未変形の明瞭な反射面をもつこと,海溝/トラフ軸から離れるにしたがって厚さを急激に減じて尖滅すること,下位の地層ほどプレートの沈み込む方向に向かって大きく傾斜すること(中村・玉木,1984)などの特徴から,地震波探査断面図からの判読が容易である.変形フロントと同様に,これまで得られている地震波探査断面図から読みとった相模湾における沈み込み口の位置を図1に示す.

III.西相模湾断裂の根拠
1)石橋(1988)の主張
 石橋(1988)は,伊豆・小笠原弧北端部を,火山フロント上で暖められ浮揚性となっている伊豆内弧と,容易に沈み込みをおこなうことのできる伊豆外弧とに区分し,伊豆外弧/内弧間にプレート内断裂であるWSBFの存在を主張した.そして,断裂の存在理由として,
(1)伊豆外弧は相模トラフ付近から関東平野下に沈み込んでおり,微小地震によってスラブの位置・形状が推定されている(たとえば,Ishida, 1991).これに対し,微小地震によるスラブの観測ができない伊豆内弧は,中新世以来の本州弧―伊豆・小笠原弧衝突帯の発達史から考えれば,浮揚性沈み込みの結果丹沢山地下にアンダープレートしていると考えるのが自然である.よって,伊豆外弧スラブと伊豆内弧との間を切り離す鋏状断層の存在が要請される,
(2)地質データにもとづけば,伊豆内弧プロパーの地層群が地表に露出する北縁は箱根火山のカルデラ内である.これに対し,伊豆外弧スラブの沈み込み口は相模トラフ軸でなく,より南方の相模海盆南縁と考えられるため,箱根火山と相模海盆南縁を結ぶ位置に伊豆外弧/内弧を切り離す鋏状断層の存在が要請される,
という2点を主張し,図4のようなWSBFの位置と形状を考えた.また,伊豆外弧スラブの沈み込み口を相模海盆南縁に考えることの証拠として,
(3)相模海盆北部には5kmを越える厚さの堆積物層が存在するため(たとえば,Kato, 1987),伊豆外弧スラブの沈み込み口の位置は,幾何学的に考えて少なくとも相模トラフ最深部よりも南方に考えざるを得ないこと,
(4)1923年関東地震の破壊の出発点が国府津―松田断層北西端付近の25km深にあること(浜田,1987)から,やはり伊豆外弧スラブの沈み込み口は相模トラフ最深部よりも南方に位置すると考えた方がよいこと,
(5)伊豆半島東方沖の群発地震活動が,伊豆外弧スラブの沈み込み口付近とその北西側の伊豆内弧内にもたらされるプレートの曲りによる応力集中の結果として解釈できること,
を挙げた.なお,石橋は「海側プレートが陸側プレートの下へ姿を消し始める場所」の意味で,プレート沈み込み口という言葉を使用している.石橋の示した相模湾における伊豆外弧スラブの沈み込み口の位置(図4)は,本論の定義によるプレート沈み込み口の位置(図1)とほぼ同じである.また,海側プレートが陸側プレート下へ姿を消し始める結果として海側プレート上面がトラフ充填堆積物に覆われ始めるのであるから,定義上から考えても本論のプレート沈み込み口を石橋のものと同義と考えて問題ないだろう.
 また,石橋(1988)は,図4のWSBFの推定位置に実際に大きな断裂構造が存在する証拠として,
(6)相模海盆西端には連続的な地形急変線が存在し,それに沿う深海生物群集や高熱流量が観測されていること,
(7)WSBFの上盤側直近に位置する初島が,最近6000年間に大きく隆起していること(石橋ほか,1982),
(8)1923年関東地震後の水準点変動が,WSBFの地表投影上と推定される小田原西方の早川河口付近で食い違うこと(Scholz and Kato, 1978),
を挙げた.
 以上をまとめると,石橋(1988)は,周辺のプレート幾何学とテクトニクスからの要請(項目1〜2)としてWSBFの存在を主張し,相模海盆南縁に伊豆外弧スラブの沈み込み口が存在する状況証拠を挙げ(項目3〜5),断裂そのものの存在の根拠も述べている(項目6〜8).これらの石橋(1988)の主張の多くが妥当と考えられることをここで示そう.

2)沈み込み口の位置
 まず,石橋(1988)の主張する項目(2)の妥当性をさらなる証拠を挙げて示す.伊豆半島内においては,地質図と地質記載(たとえば,小山,1986,1988)からわかるように,起源の異なる地塊同士の境界と解釈できるような大きな構造不連続はみられない.このような構造不連続が存在するのは,伊豆地塊を構成する火山岩類が更新世前期の厚いトラフ充填堆積物(足柄層群)と神繩断層付近の断層集中帯とを隔てて丹沢地塊の地層群と接する箱根火山北縁地域である.この地域の構造不連続は,伊豆地塊の北縁をとりまくような分布を見せる重力異常の凹部(Satomura, 1989など)からも示唆される.よって,本州弧下への伊豆内弧の沈み込み口を,地質データにもとづいて箱根火山の北縁とみるのは妥当と考えられる.先に述べたように,Tada and Sakata (1977)と多田(1977)は伊豆・小笠原弧と本州弧の接するプレート境界として熱海―沼津構造線を考えたが,この構造線は,すでに松田(1993)によっても指摘されたように,上述の地質学的事実や活断層分布(星野ほか,1978など)と折り合わない.
 伊豆外弧の沈み込み口が相模トラフ最深部ではなく,より南方の相模海盆南縁と考える根拠は,石橋(1988)が指摘した項目(3)と(4)の他に,
(9)相模海盆の南側における伊豆外弧上の地形等高線と重力異常の等値線は,相模トラフ軸と斜交する東西性の走向をもつ.もし,相模トラフ軸が伊豆外弧の沈み込み口であれば,沈み込みにともなうプレートの曲りを考慮すると,この付近の地形や重力異常の等高線・等値線はトラフ軸と平行な北西―南東方向になるべきである.よって,相模トラフ軸に沿った沈み込み口を考えるよりも,相模海盆南縁に東西性走向をもつ沈み込み口を考える方が自然である,
(10)伊豆大島周辺の上部地殻内の地震のP軸(たとえば,堀,1989),1986年伊豆大島割れ目噴火にともなう地震・地割れ・水準変動(山岡ほか,1988;遠藤ほか,1988など),伊豆大島火山の側火山配列は,いずれも伊豆大島の北西側と南東側とで分布方位が系統的に異なっている.このことは,伊豆大島南東側から北西側にかけての伊豆外弧沈み込み口の走向変化にともなって地殻応力方位も変化し,伊豆大島の北西側の相模海盆南縁においては南北性に近い伸張応力方位(つまり東西走向をもつ沈み込み口と調和的)になっているとして説明できる,
という2点が,すでにKoyama and Umino (1991)によって指摘されている.さらに別の新たな証拠として,
(11)相模湾域における地殻構造
をここで挙げる.最近相模湾でおこなわれた屈折法地震探査の結果が,相模海盆南縁付近から北方へと傾き下がっていく伊豆外弧の上面をみごとにとらえている(西澤ほか,1990,1991,図5).伊豆半島付近における上部地殻を代表する層の地震波速度は,ごく表層を除けば5.3〜6.0km/sであることがわかっているから(Asano et al., 1982; 1985; Yoshii et al., 1985),図5の5.6〜6.0km/s層を伊豆外弧の上部地殻と考えるのは自然である.5.6〜6.0km/s層が傾き下がり始めている場所は,相模トラフ軸にあたる地点9ではなく,石橋(1988)やKoyama and Umino(1991)が伊豆外弧の沈み込み口と考えた相模海盆南縁の地点13である.

3)東伊豆地域のテクトニクスとの関連
 前述したように石橋(1988)は,WSBF存在の証拠の項目(5)として,伊豆半島東方沖の群発地震活動が沈み込み口付近にもたらされる応力集中の結果として解釈できること,を挙げた.しかしながら,その後伊豆半島東方沖の群発地震活動はマグマ貫入と密接に関連して生じていることが明らかになったため,WSBFの存在と東伊豆地域の地殻活動との関係については再考察が必要である.
 Tada and Hashimoto (1991)は,相模トラフ沿いの沈み込みにともなうプレートの曲りによって生じる張力による開口割れ目の形成が,伊豆半島東方沖の群発地震活動の原因となる岩脈貫入を引き起こすと考えた.しかしながら,東伊豆地域で発生する地震の発震機構のほとんどは,P軸方位が北西―南東方向の横ずれ断層型であり,また東伊豆地域に分布する活断層にも横ずれ型が多いため,東伊豆地域が北東―南西方向の引張場によって支配されていると単純に考えるのは困難である(Koyama and Umino, 1991;小山,1993).また,伊豆半島東半部における第四紀積算上下変動のパターンは,北西―南東方向の圧縮変形によってもたらされたものとしてよく説明できる(Koyama and Umino, 1991).さらに,もしWSBFが存在するならば,東伊豆地域は沈み込む伊豆外弧スラブとは断ち切られた格好になり,プレートの曲りの影響は受けにくくなるはずである.
 東伊豆地域のテクトニクスを考える上で特筆すべきは,火山フロント付近においては稀な存在である独立単成火山群(中村,1986)に分類される東伊豆単成火山群の存在である.独立単成火山群は,側方拡大に対する制約の弱い地殻内に生じると考えられている.東伊豆地域は基本的には本州弧―伊豆・小笠原弧の衝突の影響による圧縮変形の支配する場であるが,WSBFの南方伝播によって北東側の側方制約が取り除かれた結果,北東方への地殻の抜け出し(張力による単純な伸張でないことに注意)が可能となり,開口割れ目が開きやすくなった結果独立単成火山群が生じたと考えられる(Koyama and Umino,1991;小山,1993,図6).つまり,上述した項目(5)をここで,
(5)火山フロント付近においては稀な独立単成火山群の存在を説明するために,WSBFの存在が要請される,
と書き改め,WSBFのひとつの傍証と考えることにする.

IV.西相模湾断裂の問題点と新しいモデルの提案
 以上述べてきたような数々の証拠や要請により,WSBFというプレート内鋏状断裂が存在すること自体は,かなり確からしいものと思われる.しかしながら,
(1)WSBFの存在を示す証拠や,断裂を必要とする背景が,地球物理学的な側面から地形・地質学的な側面まで多岐にわたる(地質学的側面だけをとっても本州弧―伊豆・小笠原弧の相互作用に関する中新世以来の地史を理解する必要がある)ため,それらが十分理解されていない,
(2)WSBFのプレート幾何学が複雑であり,3次元的形態や運動像などが把握しにくいため,十分理解されていない,
という主に2つの理由から,WSBF説はその本質を誤解されることが多いように見える.また,石橋(1988)の提案したWSBFの位置・形状(図4)に対する疑問や否定的な観測結果も報告されてきている.以下,これらの点について議論し,WSBF付近のプレート幾何学や周辺地域のテクトニクスに関する新しい提案をおこなう.

1)真鶴海丘南縁断層の問題
 最近,相模海盆の北端にある真鶴海丘の南縁に逆断層(真鶴海丘南縁断層,図1のMN)があるという調査結果が報告され(大河内,1990),相模トラフ断層―真鶴海丘南縁断層―西相模湾断層をつらねた断層線が1923年関東地震を引き起こしたメガスラストの地表に達した部分であるという考えが提案されている(松田,1993).仮にこの考え方が正しいとすれば,関東地震時の初島隆起はWSBFの考えを導入しなくても説明できる(松田,1993;萩原,1993).しかしながら,この考え方を採用する場合には,前節で述べたWSBFの存在を支持する数々の観測事実や,小田原地震および東伊豆単成火山群のテクトニクス像に対し,石橋(1988)や本論とは別の合理的な説明が与えられなければならないが,そのような総合的なモデルは提示されていない.
 真鶴海丘南縁断層の存在は,石橋(1988)の主張するWSBFのプレート幾何学と一見矛盾するように見えるため,真鶴海丘南縁断層の発見によってWSBF自体が否定されたという批判を聞くことがある.しかしながら,この批判は妥当でない.石橋(1988)は,伊豆外弧の沈み込み口を相模海盆南縁に考え,国府津―松田断層や相模トラフ陸側斜面にある海底活断層群を,地下にある一枚のメガスラストから分岐して地表に達した覆瓦スラストと考えた.そして,国府津―松田断層の変位がおとろえる傾向にあることから,足柄平野の南方沖に新たな若い覆瓦スラストの存在を予想した.真鶴海丘南縁断層は,石橋の予想したこのような若い覆瓦スラストのひとつと考えて矛盾しない.松田が重視する相模トラフ断層―真鶴海丘南縁断層は,石橋(1988)や本論の考えによれば,付加体のもっとも海側に生じた覆瓦スラスト(つまり変形フロント)ということになる.図4下において伊豆大島の北側から北方に傾き下がっている面は伊豆外弧スラブ上面の形状(図5の5.6〜6.0km/s層の上面にあたる)を表したものであり,その上位をおおう新期堆積物中に発達する覆瓦スラストの断層面を表しているわけではない.よって,真鶴海丘南縁断層の存在自体は,WSBFの存在を否定する意味をもたない.

2)西相模湾断裂周辺のプレート幾何学の再検討
 石橋(1988)によるWSBFの提唱以降,断裂の存在を証明すべく数多くの測地・地球物理学的探査が,石橋の推定した断裂上端の地表投影線(図1のLine A)をまたぐ陸域と海域の両方でなされた(長谷川ほか,1991;岩淵ほか,1991;笠原・山水,1992;加藤ほか,1993;多田,1993など).しかしながら,この断裂上端の地表投影線に沿う構造上の不連続はいまだ明確に実証されていない.その理由のひとつは,石橋(1988)も指摘しているように,WSBFの上端が,伊豆外弧スラブ上面の沈み込みとともに北方に向かって深度を増すためと考えられる.このことは,石橋(1988)に適切な図がないこともあって十分理解されていないようなので,図化して説明を試みる(図7).
 図7は,石橋(1988)によって提唱されたWSBF付近のプレート幾何学を3つの断面図で表わしたものである(断面線の位置は図1参照).WSBF面の傾斜は,垂直または西に急傾斜という石橋説に従って,ここでは80゚西傾斜とした.図において,伊豆外弧は浮揚性の伊豆内弧を置きざりにして,北方へと傾き下がってゆく.このため,WSBF面上の相対変位が生じるのは,伊豆外弧と伊豆内弧が直接接している部分(図で陰影をつけて「西相模湾断裂」とした部分)であり,この部分の上端は小田原付近(断面C―C’)では深度12km付近にある.このため断裂面上の変位は地表にほとんど波及せず,断裂直上の地表部分には活断層などの構造不連続は現れにくい.
 しかしながら,図7からわかるように,WSBFの上端より上位の部分においては,伊豆内弧の上部地殻が東北日本弧と直接接しているわけであるから,構成物質の種類や密度差による地震波速度などの物性のコントラストは観測にかかってもよいのではないだろうか.また,石橋(1988)は,伊豆弧と本州弧の衝突の影響によって,伊豆半島付近における伊豆内弧/東北日本弧間の相対運動は小さいと考えている.しかし,この両者間の相対運動は正確に見積もられておらず,それを無視できるほど小さいとする根拠は今のところない.仮に伊豆半島付近での伊豆内弧/東北日本弧間の相対運動の大きさが無視できないとすれば,図7の伊豆内弧/東北日本弧間に多少の相対変位が予想されるため,それに起因する断裂等の構造不連続が地表付近の観測にかかってもおかしくないだろう.
 最近おこなわれた足柄平野を横断するいくつかの屈折法および反射法地震探査断面図には,箱根火山地域から大磯丘陵下へなめらかに傾き下がる基盤岩層がとらえられている(長谷川ほか,1991;笠原・山水,1992,図8).また,重力探査の結果もこの構造を支持している(大久保ほか,1992).以上の結果は,図7のモデルとは折り合わないように見える.WSBF付近のプレート幾何学,とくに伊豆内弧地殻の形状は,本当に石橋の推定した通りでよいのだろうか.
 ここでは,石橋(1988)によって推定されたWSBF付近のプレート幾何学の代案となる,もうひとつの作業仮説を提案する(図9).石橋(1988)のモデルにおいては,WSBF面とその地表への延長がほぼ垂直(やや西下がり)とされているため,図1のLine A付近に伊豆内弧上面の東端が位置することになる(図7).これに対し,ここでは伊豆内弧上面の東端をLine A付近ではなく,Line Bと考える.図1においてLine A〜Cに囲まれた三角形の領域は,凹凸の激しい急斜面地形をなすことや,伊豆半島陸域と同様な起伏の激しい磁気異常パターンをもつこと(地質調査所,1980,図10)から,伊豆内弧起源の火山岩類の基盤をもつと考える方が自然である.そう考えた場合,Line Aより東側にもかなり伊豆内弧がせり出していることになり,図7の断面図では説明困難である.Line Bは伊豆半島東方沖の陸棚斜面と相模海盆との間の地形急変線に沿っており,ここを境として磁気異常のパターンも異なり(図10),図9のように伊豆内弧上面の東端を仮定してもおかしくない.
 図9をみてわかるように,Line AをWSBF上端の地表投影,Line Bを伊豆内弧上面の東端と考えると,両者を単純に平面で結んで地下深部に延長すれば,WSBF面は西下がりで傾斜角が45゚程度になる.かつて石橋は西相模湾断層を西傾斜30゚程度の低角の逆断層と考えていた(石橋,1985;Ishibashi, 1985).しかし,その後西相模湾断層の性格をプレート内断裂であるWSBFとして考え直すことにともない,幾何学的な要請からWSBF面を垂直または高角西傾斜と考え改めた(石橋,1988).1923年関東地震後の水準点変動は小田原付近で明瞭な不連続性を示し(Scholz and Kato, 1978),WSBF上端が石橋の推定する小田原付近の直下にあり,かつ断裂面が高角であることを示唆している(石橋,1988).また,1703年元禄関東地震を除く3つの地震(1633年寛永小田原地震,1853年嘉永小田原地震,1923年関東地震)の津波の数値実験は,やはり石橋の推定する位置に高角の断層があることを支持し,低角の断層面は適当でないという結果を示した(相田,1993).以上のことから,本論ではWSBF面を一応高角と考え,WSBF上端と地表との間の伊豆内弧地殻/東北日本弧境界面のみがせり出して低角となっていると考える(図9).
 図9の考えに従えば,Line AとLine Bに挟まれた部分では伊豆外弧・伊豆内弧・東北日本弧の3地殻が折り重なる構造となり,大磯丘陵や丹沢山地下へ伊豆内弧が沈み込んでいることになる.伊豆内弧は火山弧であるがゆえの浮揚性を備えるために,沈み込んだ伊豆内弧地殻は丹沢山地下にアンダープレートし(第V節で後述),沈み込んだ伊豆外弧のような地震性スラブを形成しないと考えられる.東北日本弧下への伊豆内弧の沈み込み口は図1のLine Cとなり,伊豆内弧の沈み込みに対する東北日本弧の変形フロントが北松田断層と国府津―松田断層(図1のNM, KM)およびその南東延長を結ぶ線,トラフ充填堆積物が足柄平野およびその沖合を埋める堆積物ということになる.一方,相模海盆の南縁(図1のP,Qを結ぶ線)が東北日本弧に対する伊豆外弧の沈み込み口,相模海盆の北縁〜東縁(図1のRと真鶴海丘南縁断層を結ぶ線)が伊豆外弧の沈み込みにともなう変形フロントということになる.足柄平野を横断する地震探査断面図(図8)にあらわれた箱根火山地域から大磯丘陵下へなめらかに傾き下がる基盤岩層は,東北日本弧下に沈み込む伊豆内弧地殻の上面と考えることができ,図9の幾何学を支持している.
 図9のような地殻構造であるとするなら,Line Aに沿う構造上の不連続が観測にかかりにくいのも不思議ではない.伊豆内弧/外弧間の断裂(WSBF)は北に行くほど深度を増すから,WSBF自体を観測しにくいことは石橋(1988)が述べている通りであるが,伊豆内弧/東北日本弧間の境界面もLine Aよりずっと東側にあるから,Line A沿いに構造不連続が観測されないのはむしろ当然である.WSBFで生じた変位の一部は伊豆内弧中を通って地表にまで波及し,何らかの活構造をLine A付近の地表近くにもたらしている可能性も考えられるが,伊豆内弧は火山岩類を主体とするゆえに構造が見えにくいことと,石橋(1988)の言うようにWSBF自体の北方への深度の増大にともなって地表への波及の程度が小さくなることから,小田原付近ではWSBF変位にともなう変形構造を観測しにくいと予想される.WSBFに関する従来の構造探査は,単にWSBF上端の地表投影という意味しかないLine A付近に集中し過ぎた傾向がある.今後の探査は,図9のような構造の有無も念頭においてなされるべきである.

3)真鶴「マイクロプレート」
 Koyama and Umino(1991)の考えを発展させた小山(1993)は,東伊豆単成火山地域における過去15万年間の平均地殻拡大速度をほぼ0.5〜1.5cm/年と見積り,この地殻拡大によって生じた歪を解消する一種のトランスフォーム断層として,丹那断層とその北方延長からなる構造帯(丹那―平山構造線,図1のTHTL)を考えた.小山(1993)のモデルにしたがえば,東伊豆単成火山地域,丹那―平山構造線,Line B,Line Cの4者に囲まれる伊豆地塊北東部が,一種のマイクロプレートとして他の伊豆弧と独立に運動することになる.このマイクロプレートを,真鶴「マイクロプレート」(以下MNZ)と呼ぶことにする.
 東伊豆単成火山群の岩脈貫入にともなう地殻拡大のおよぶ範囲はおよそ15km以浅の上部地殻に限られるとみられるから(Koyama and Umino, 1991;小山,1993),MNZは上部地殻のみを含み,下部地殻や上部マントルをふくむ通常のプレートとは厚さが異なる.また,MNZは数多くの断層によって分断され,分断されたブロックのそれぞれが構造回転を被り,相模海盆側に抜け出した(あるいは抜け出しつつある)と考えられているため(Koyama and Umino, 1991),MNZ全体を通常の剛体プレートとみなしてよいかという問題もある.よって,ここではMNZを仮に真鶴「マイクロプレート」と呼ぶにとどめ,MNZの運動に対しては剛体プレートとしての第1次近似が成り立つと仮定して話を進めることにする.なお,MNZ上部地殻内のみに限定されたこの抜け出しによって,前節で述べた伊豆内弧地殻/東北日本弧境界面のせり出し(図9)が生じたと考えられる.
 東伊豆単成火山群の噴火開始は0.2〜0.15Ma,丹那盆地付近の丹那断層の垂直変位が顕著になったのはおよそ0.1Maである(小山,1993).また,国府津―松田断層の垂直変位開始時期は0.3Ma頃,国府津―松田断層の北西方の松田山地域が北松田断層の活動にともなって急激に隆起をはじめたのは0.15〜0.1Maである(Yamazaki, 1992).MNZをとりまくこれらの地域の地殻活動が活発化した時期がほぼ同じ(0.3〜0.1Ma)であることは,MNZの存在と運動を裏づけるひとつの証拠と考えられる.
 MNZの運動方向と速度を推定してみよう.伊豆半島付近において,東北日本弧(以下NEJ)に対するPHS=伊豆弧の運動方向はN35゚W,速度は3.1cm/年である(Seno et al., 1993,図11).伊豆弧に対するMNZの運動方向をもっともよく反映しているのは,伊豆弧/MNZ間のトランスフォーム断層と考えられる丹那―平山構造線の走向であろう(図1).丹那―平山構造線は場所によって走向が多少異なるが,ここでは全体的な平均走向(N10゚E)をとることにする.また,東伊豆単成火山地域の拡大速度(0.5〜1.5cm/年,ここでは仮に1cm/年とする)が伊豆弧に対するMNZの相対速度に相当する.図11Aのプレート相対運動収支により,NEJに対するMNZの相対運動ベクトルがN24゚W,3.9cm/年と求められる.
 なお,伊豆半島周辺は衝突帯にあたるため,プレート収束運動による変形が各地に分散することによって伊豆地塊/NEJ間の相対速度はPHS/NEJ間の相対運動速度(3.1cm/年)よりも小さい可能性がつよい.実際に,富士山から箱根北方にかけての陸域においてはNEJ側の変形フロントがどこを通過するかは明瞭でない(図1).伊豆半島の南方海域,たとえば伊豆大島から銭州に至る海嶺の南東縁において,伊豆弧の収束運動の一部が解消され始めている可能性も現状では否定できない.銭州海嶺の南東縁では実際に第四紀における逆断層運動の証拠が発見されている(Lallemant et al., 1989など.ただし,銭州海嶺南東縁の断裂は伊豆弧の衝突と無関係とする見方もある,新妻ほか,1992).仮にこのような収束運動の分散によって伊豆地塊/NEJ間の相対速度がPHS/NEJ間の速度の半分程度(1.5cm/年)になっているとしたら,NEJに対するMNZの相対運動ベクトルはN16゚W,2.4cm/年と求められる(図11B).いずれにしても,MNZはNEJに対し,伊豆弧本体と比べてやや東よりの相対運動方向をもつと推定される.
 WSBFはPHS内断裂であるとされ,断裂面上では左横ずれ成分をもつ逆断層型の震源断層運動が予想されている(石橋,1988).MNZの存在を考えた場合,この震源断層運動像は修正されるべきであるように一見みえる.しかし,先に述べたように,MNZとして伊豆内弧と独立に運動しているのは上部地殻のみであり,それ以深に存在するWSBF面の大部分はMNZの動きとは無関係と思われる.よって,WSBF面上で発生する地震の発震機構を考える時は,とりあえずMNZを考慮に入れなくてよいだろう.WSBF面で発生する地震のメカニズムは,伊豆内弧がPHSおよびNEJに対しどのような相対運動ベクトルをもっているかによって異なる.伊豆内弧がPHS上にほぼ固定されている場合,WSBFは純粋なプレート内断裂となり,WSBF面上に期待される変位は,沈み込む伊豆外弧と取り残される伊豆内弧との間の落差を作る垂直成分のみが期待される.これに対し,伊豆内弧と本州側プレートとの衝突の影響によって伊豆内弧がNEJ側にほぼ固定された状態になっている場合は,WSBF面でPHS(=伊豆外弧)/NEJ間の相対運動の一部が解消され,WSBF面上に期待される震源断層運動は石橋(1988)が予想した通りの左横ずれ成分をもつ逆断層運動になると考えられる.
 大竹(1993)は,石橋(1988)の提唱するWSBF面においてPHSと本州側プレートとの相対運動の一部が解消されている場合には,幾何学的要請によって,その相対運動の方向はWSBF面上端の走向とほぼ同じN15゚W程度でなければならないことを示した.そして,この方向と実際のPHS/NEJ間の相対運動方向N35゚Wとの差は,NEJに対する伊豆地塊の約1cm/年の西方移動によって生じているとの考えを示した(図11C).この考えと定性的に調和する測地測量結果が得られている.1988〜1989年の2年間のGPS測量によって,伊豆半島南部の下田観測点が山梨県塩山に対して3cm/年の速度でN105゚W方向に移動したとの結果が得られている(Shimada and Bock, 1992).また,1975年以来の精密三角測量の結果から求めた駿河湾西岸に対する伊豆半島南部の岩科観測点の相対運動ベクトルは,N98゚Wに1.5cm/年である(橋本,1992).両観測結果ともに狭い時間窓でみた測地学的変動に過ぎないため,プレート相対運動を反映しているかどうかは不明であるが,衝突の影響によって伊豆地塊がPHS本体と異なる運動ベクトルをもつ可能性は十分あり得るだろう.
 NEJに対して伊豆地塊が西方移動する場合には,幾何学的にみて国府津―松田断層が正断層になると予想される.しかしながら,実際の国府津―松田断層は逆断層であり,かつ断層の周辺やその北西の松田山地域は次節で述べるように最近10〜20万年間に強い圧縮変形を被ったことが知られている(Yamazaki, 1992).つまり,NEJに対する伊豆地塊の西方移動という考えは,地質学的事実と矛盾する.しかしながら,ここでMNZ仮説を導入すれば,この矛盾をある程度解決できるかもしれない(図11C).NEJに対し伊豆地塊が西方に1cm/年で進むとする.図11A, Bと同じく,伊豆地塊に対するMNZの相対運動をN10゚Eに1cm/年とおくと,NEJに対しMNZはN39゚Wの方角に1.3cm/年で進むことになる.国府津―松田断層の走向はN40゚Wであるから,MNZ/伊豆地塊間の相対速度が少なくとも1cm/年あれば,国府津―松田断層は正断層にならなくて済むだろう.しかし,次節で述べるように国府津―松田断層の変位には明瞭な逆断層成分が要請されるから,NEJに対する伊豆地塊の西方移動が本当だとすれば,MNZ/伊豆地塊間の速度は1cm/年よりある程度大きい必要がある.

V.議論
 以上述べてきたWSBF付近のプレート幾何学にかんする新しい提案と真鶴「マイクロプレート」仮説によって,これまで未解決であった(1)国府津―松田断層周辺のテクトニクス,(2)大磯型地震の意味,(3)丹沢山地の隆起および丹沢地震,の3つの問題を新たな視点から検討することができる.このことを以下に述べる.

1)国府津―松田断層周辺のテクトニクス
 かつてNakamura et al. (1984)は,相模トラフ地域におけるPHSのユーラシアプレートに対する相対運動方向(N50゚W,Minster and Jordan (1979)のプレート運動モデルにもとづく)が国府津―松田断層の走向(N40゚W)より西に振れていることから,国府津―松田断層とその南東方延長の相模トラフ断層が西落ちの正断層として生じた可能性を指摘した.しかしながら,このことは国府津―松田断層が右横ずれ成分をもつ逆断層であることを示す地形・地質学的な調査結果(Ito et al., 1989;Yamazaki, 1992など)や,逆断層であることを支持する構造探査結果(笠原・山水,1992),重力異常の解析結果(大久保ほか,1992)と矛盾する.その後,グローバルなプレート運動モデルの改訂や東北日本弧がユーラシアプレートと別プレートに属することの判明にともない,PHSの運動モデルも改訂されているので(Seno et al., 1993),国府津―松田断層周辺のテクトニクスを再考察する必要がある.
 MNZの存在を考えない場合,Seno et al. (1993)のPHS運動モデルにもとづく東北日本弧に対するPHSの相対運動方向(N35゚W)と,国府津―松田断層の走向(N40゚W)との差はわずか5゚である.PHSのプレート回転極の推定精度を考えた場合に5゚の差は有意とは考えられないから,国府津―松田断層が正断層成分をもつか逆断層成分をもつかは微妙であり,わずかなプレート運動のゆらぎによって左右されてしまうことになる.逆断層の証拠を示す地形・地質・構造探査データから考えて,国府津―松田断層周辺におけるPHSの相対運動方向は,国府津―松田断層の走向よりもある程度北向きであるべきである.
 山崎(1985)および石橋(1988,1992)は,国府津―松田断層を,PHSの沈み込みにともなって東北日本弧前縁に生じた付加体内部に発達する覆瓦スラストのひとつであると考えた.しかしながら,覆瓦スラストは通常プレート収束方向と直角に近い角度をなすものが多いので,PHSの相対運動方向に近い国府津―松田断層の走向には奇異な感じを受ける.大磯丘陵は伊豆地塊の突入にともなって時計回りに50゚程度回転したことが明らかになっているが,この回転時期は0.6〜0.9Maである(Koyama and Kitazato, 1989).これに対し,前述したように国府津―松田断層の変位開始時期はこれよりずっと後の0.3Maであるので,国府津―松田断層自体が回転した結果,現在の走向をもつようになったと考えるには無理がある.
 真鶴「マイクロプレート」仮説に従い,かつPHSに対する伊豆地塊の相対運動を考えなければ,国府津―松田断層付近での東北日本に対するMNZの相対運動方向はN24゚W程度となり(図11A),国府津―松田断層と16゚の角度をもって斜交し,国府津―松田断層は安定な逆断層成分をもち得る.Shimazaki and Nakamura (1981)に従えば,プレート収束方向とプレート収束によって上盤側プレートが受ける歪みの方位との間には
(1+s)tanj=-1/tan2q
の関係がある.ここでsはプレートを弾性体と考えた場合のポアソン比,jはプレート収束方向,qは上盤プレート内の最大圧縮歪の方位(jおよびqはプレート境界の走向に対し反時計回りに測った角度)である.ポアソン比をShimazaki and Nakamura (1981)と同様に0.25として,国府津―松田断層の北東側の地塊が受ける最大圧縮歪の方位を計算するとN17゚Eとなり,国府津―松田断層の走向(N40゚W)と57゚の角度をなして斜交する.この歪方位ならば,国府津―松田断層を覆瓦スラストのひとつと考えてもさほど矛盾はないだろう.
 以上のことから,国府津―松田断層が逆断層成分をもち,プレート上盤内に生じた覆瓦スラストのひとつとみなされることは,MNZ仮説の導入によってプレート相対運動の視点からもよりよく説明できると考えられる.

2)大磯型地震の意味
 1923年関東地震が国府津―松田断層を変位させた証拠がないことに着目した松田(1985)は,国府津―松田断層に周期的変位をもたらす別の地震(大磯型地震)があると考えた.そして,国府津―松田断層の長さ・累積変位量・変位基準面の年代から大磯型地震の再来周期をおよそ170年と見積もった.しかし,国府津―松田断層の変位によって発生したことが確実である地震の歴史記録は知られていない(石橋,1993).山崎(1985)およびYamazaki (1992)は,大磯型地震の存在を認知はしたが,大磯丘陵および足柄平野の詳細な地形・地質データにもとづいて,その再来周期を2300年以上(山崎(1993)によれば2000〜3000年)と推定した.山崎は,国府津―松田断層を,足柄平野の下から北東へ傾き下がる低角のプレート間境界断層にともなう覆瓦スラストと推定している.その後,松田(1993)はやや考えを改め,国府津―松田断層の延長部も震源域にふくめた,より再来周期の長いプレート間地震として大磯型地震をとらえている(後述).一方,石橋(1992)は,関東地震を起こす主断層から分岐した覆瓦スラストのひとつとして国府津―松田断層を考え,200〜300年間隔で繰り返す関東地震の4回に1回が国府津―松田断層に変位を与えたとすれば断層変位を説明できるとし,関東地震の震源断層面より北西側にさらに別の(大磯型地震をおこす)震源断層面を考える必要はないとしている.
 すでに述べたように,真鶴「マイクロプレート」仮説に従えば,東北日本弧下への伊豆内弧北東部(すなわちMNZ)の沈み込みにともなう変形フロントとして北松田断層,国府津―松田断層,およびその南東延長を連ねた線を考えることになる(図1).この変形フロントは,地下にあるメガスラスト(MNZ/東北日本弧間のプレート相対運動を解消する断層)から派生する覆瓦スラストのひとつである.このメガスラストが大磯型地震を引き起こし,結果として国府津―松田断層を変位させると考える.
 これまで大磯型地震は,東北日本弧に対するPHSの沈み込みにともなって生じる地震であると考えられてきた(松田,1993;山崎,1993).本論では,MNZという別プレートが東北日本弧下への沈み込むことによって生じる地震として大磯型地震を考えることを提案する.MNZ仮説にもとづくプレート幾何学から推定した大磯型地震のメガスラストの領域を,図1に砂目で示した.

3)丹沢山地の隆起および「丹沢地震」の問題
 真鶴「マイクロプレート」仮説を用いれば,これまで説明の困難であった丹沢山地における大きな第四紀隆起速度の原因を,新たな視点から考えることができる.
 丹沢・関東山地/関東平野間のほぼ南北直線状の地形急変線である八王子線(貝塚,1984)は,基盤高度および第四紀上下変動量の急変線であることもわかっており(貝塚,1987),ブーゲー異常図(河野・古瀬,1989)においても明瞭なコントラストを見せている.しかし,八王子線に沿う明瞭な活断層は見つかっておらず,そのテクトニックな意味は必ずしも明確と言えなかった.貝塚(1984)は,PHSが現在よりも北向きに運動していた鮮新世〜更新世前期頃に,関東地方下に沈み込んだ伊豆内弧と伊豆外弧の浮揚性の差によって鋏状断裂がPHS内に生じ,軽い伊豆内弧の沈み込みの影響で八王子線が生じたとした.そして,その後PHSの運動方向が北西進に変わった更新世前期〜中期(1〜0.5Ma)以降に,鋏状断裂の活動が止んだと考えた.
 しかしながら,丹沢・関東山地は2Ma以降現在に至るまで隆起し続けており,とくに過去100万年間の丹沢山地の隆起速度は3〜4mm/年と著しい(貝塚,1987).しかも,1923年関東地震の際に丹沢山地が顕著な沈降域であったことを考えると,関東地震による沈降分を補って余る隆起がより長期的に起きている必要がある.また,現時点において丹沢山地は伊豆地塊の北北東方に位置するため,東北日本弧に対して北北西方向に進む伊豆地塊の衝突によって隆起を続けているとは考えにくい.
 石橋(1988)のWSBFは,浮揚性の差が伊豆内弧/外弧間の断裂をつくると考える点で,貝塚(1984)の考えた伊豆内弧/外弧間の鋏状断裂と本質的に同じものである.つまり,貝塚(1984)が活動を止めたと考えた鋏状断裂が現在もWSBFとして生き続けていることになる.しかしながら,石橋(1988)のWSBFの幾何学(図7)を考えると,浮揚性の伊豆内弧が関東・丹沢山地下にアンダープレートするのは図1のLine Aより西側であり,丹沢山地の大半の下には伊豆内弧地殻が存在しないことになるため,浮揚性地殻のアンダープレートによって丹沢山地東縁のシャープな地形と構造の落差や丹沢山地全体の隆起を説明することが困難である.
 石橋(1988)の代案となる図9のプレート幾何学に従えば,沈み込んだ浮揚性伊豆内弧の東端(図1のSとTを結ぶ線)は丹沢山地の東縁とほぼ一致する.よって,丹沢山地下にアンダープレートした伊豆内弧の浮揚性が丹沢山地全体を隆起させ,その東端における浮揚性の差が基盤構造落差をもたらし,橈曲崖として丹沢山地東縁の地形急変線を形成したと考えることができる.すでに石橋(1988)によっても指摘されているが,丹沢・関東山地下の地殻が30〜40kmと日本で最も厚いのも(Ashiya et al., 1987; Furumoto et al., 1989;石田,1991),浮揚性地殻のアンダープレートを考える上で有利である.
 松田(1993)は,神縄断層,国府津―松田断層,およびその南東方延長の海底活断層をひとつの断層帯(神縄―国府津・松田断層帯)としてとらえ,この断層帯が松田(1985)の考えた大磯型地震を包含する「丹沢地震」を発生して丹沢山地を隆起させている可能性を示した.しかしながら,神縄断層の主活動期は1.0〜0.4Maの間であり,その地表トレースはすでに別の多数の横ずれ断層(塩沢断層系と中津川断層系,図1)によって細断され,現在はもはやスラスト変位を起こしていないことが知られている(Ito et al., 1989).神縄断層以外でそれに匹敵するような長大なスラストの存在は知られていない.よって,松田(1993)の考えた神縄―国府津・松田断層帯のうちの神縄断層部分が現在もスラスト型の地震を発生させているかどうかは疑わしい.丹沢山地に地震性隆起を起こし得る地震は,前節で述べた丹沢山地東部下に震源域が推定される大磯型地震であろう.この地震によってもたらされる地震性隆起が,前述した浮揚性地殻のアンダープレートと相まって丹沢山地の長期的な隆起を起こしていると考えることができる.
 丹沢山地下への伊豆内弧の沈み込みの存否について問題点がひとつ残っている.先に述べたようにMNZの運動が活発化した時期は0.3〜0.1Maであるため,丹沢山地が少なくとも過去100万年間を通じて伊豆内弧の沈み込みが原因で隆起してきたとすると,矛盾が生じる.本州に対するPHSの相対運動方向は,過去においてより北向きであったと考えられているから(Nakamura et al., 1984;貝塚,1984など),かつて沈み込んだ伊豆内弧地殻が現在の丹沢山地下に存在すると考えることもできる.しかし,遅くても更新世前期〜中期までにはPHSの運動方向は現在と同じ方向に変化したと考えられているから,それ以後丹沢山地下への伊豆内弧の沈み込みはいったん途絶えたとみるのが自然である.ところが,丹沢山地の隆起は1Ma以降むしろ加速したように見えるから(貝塚,1987),隆起を加速・継続させる何らかのメカニズムが必要である.PHSと独立したMNZの運動による伊豆内弧の沈み込みはその有力候補であるが,上述のように0.3Ma以前は東伊豆単成火山地域の拡大にともなうMNZの運動は期待できないから,もし0.3Ma以前にも丹沢山地下に浮揚性地殻が沈み込んでいたとするなら,東伊豆単成火山地域とは異なる地殻拡大域が伊豆内弧のどこかに必要である.
 現時点で確かな証拠は得られていないが,現在のところこのような拡大域の候補として2つが考えられる.ひとつは箱根の古期外輪山山体内に数多く観察できる北西―南東方向の平行岩脈群(Kuno, 1964)であり,箱根火山の噴火史から考えて年代はおそらく0.4〜0.2Ma頃である.Kuno (1964)は,箱根カルデラ南東壁に露出する200枚余りの岩脈群によって,箱根火山全体が北東―南西方向に650m拡大したと考えている.岩脈のすべてが地表に達しているとは限らないから,拡大量はさらに大きかったかもしれない.もうひとつは,東伊豆単成火山地域の北方にあたる湯河原〜熱海地域の山中に点々と分布するデイサイト質溶岩ないし溶岩ドーム群(久野(1952)の「輝石石英安山岩質小噴出岩体」)であり,0.6〜0.4Maのフィッショントラック年代が得られている(鈴木,1970).Koyama and Umino (1991)は,この小火山群が東伊豆単成火山群と同様に地殻拡大を反映した独立単成火山群である可能性を指摘した.以上の両者ともに現状では地質・年代データが乏しく,地殻拡大量の正確な見積りは困難であるが,その年代範囲から言って東伊豆単成火山群成立以前に伊豆内弧地殻の拡大を担っていた可能性を否定できない.
 なお,関東山地や甲府盆地・八ヶ岳の下にも沈み込んだ非震性のPHSスラブが存在するという考え方があり(たとえば,Nakamura et al., 1984;瀬野,1984),それを裏づけると解釈されている変換波の観測結果も得られている(Iidaka et al., 1991).これが本当なら,伊豆内弧もスラブをともなった通常の沈み込みをしていることになり,丹沢山地下への伊豆内弧地殻のアンダープレートという考え方と矛盾することになる.しかしながら,地震波のインバージョンによって求められた地震波速度構造(Ishida and Hasemi, 1988;Lees and Ukawa, 1992)からは,そのような非震性スラブの存在は認めがたい(関東平野下の伊豆外弧スラブは明瞭に認められる).また,火山岩のストロンチウム同位体比も伊豆半島北西方の非震性PHSスラブの存在を支持しない(Notsu et al., 1987).伊豆弧―本州弧衝突帯においては,衝突・付加した浮揚性地殻からマントルのみが切り離されて沈み込む現象(デラミネーション)が起きているとみられているから(石橋,1988),Iidaka et al. (1991)の観測結果は沈み込むPHSマントル上面をみている可能性もある.ちなみにインド―ヒマラヤ衝突帯では,多くの研究者がヒマラヤ山脈―チベット高原下の地殻からマントルが剥離する現象の存在を信じている(たとえば,Willett and Beaumont, 1994).

VI.おわりに
 本論においては,以下のことを証拠や実例を挙げて提案・主張した.
1.高精度の観測データのもとでプレート沈み込み境界をみる場合,プレート境界は従来の力学境界/物質境界の概念(Nakamura et al., 1984)を改良した「変形フロント」と「沈み込み口」という2つの概念でとらえた方がよい.
2.西相模湾断裂にかんする石橋(1988)の主張の多くは妥当と考えられるが,石橋(1988)の提案した西相模湾断裂周辺のプレート幾何学はやや修正されるべきである.
3.東伊豆単成火山地域を地殻拡大域としてとらえた場合,伊豆地塊北東部の上部地殻は真鶴「マイクロプレート」として伊豆地塊に対し北北東方に移動していると考えられる.
4.新たに提案した西相模湾断裂周辺のプレート幾何学と真鶴「マイクロプレート」の考え方を用いることにより,これまで未解決であった国府津―松田断層周辺のテクトニクス,大磯型地震,丹沢山地の大きな隆起速度の問題を新たな視点から検討できる.
 東伊豆単成火山地域の拡大速度の見積り(0.5〜1.5cm/年,小山,1993)は不十分な歴史記録に頼っているため,真鶴「マイクロプレート」が他の伊豆地塊に対して本当に無視できない相対速度をもつかどうかは,筆者自身が疑問を感じる面もある.本論では,真鶴「マイクロプレート」が伊豆地塊に対する大きな相対速度(1cm/年)を確かに有すると仮定した場合に,どのような論理的帰結が得られ,どのような観測事実が説明可能かを思考実験した.
 また,この思考実験の最中に痛切に感じたのは,プレート間相対運動を考える上で,今現在の伊豆地塊はフィリピン海プレートと東北日本弧のどちらに属するのか,あるいは衝突の影響によって独立したマイクロプレートとして運動しているのか,という問題が未解決のままであることである.この問題に対する確固たる答が得られない限り,相模湾北西部や伊豆地塊周辺の地震テクトニクスの議論にはいつも不確定性がつきまとうだろう.この問題は,言いかえれば伊豆・小笠原弧―本州弧衝突帯において,プレート収束運動がどのように分散しているかを見積もるという問題にほかならない.この問題は,通常の地形・地質学や測地学的手法からの解決が難しい.
 この問題解決のひとつの決め手になるのは,遠方の固定点に対する観測点の移動量を正確に求められるVLBIやGPSなどの新しい測地測量法であろう.これらの手法による観測を高密度の観測網のもとで長期間継続することによって,伊豆地塊や真鶴「マイクロプレート」の精密な運動ベクトルを求める必要がある.この種の新しい技術を,従来の測地・地球物理・地形・地質学的調査手法と密接に連携させて進めることによって,伊豆・小笠原弧北端部の地震テクトニクス研究はより進展するだろう.

謝辞
 本論文の内容は,松田時彦,石橋克彦,山崎晴雄,徳山英一,岩淵 洋,多田 尭氏らとの議論をつうじて深められました.また,本論文の改善にあたって石橋克彦および匿名査読者両氏のコメントが役立ちました.ここに記して感謝します.


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