(地学雑誌,103巻,576-590頁,1994)
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伊豆・小笠原火山弧北端部における現在および第四紀後期のテクトニクス

小山真人(静岡大学教育学部地学教室)

Abstract

1.はじめに
 伊豆・小笠原弧の北端部にある伊豆半島とその周辺陸域・海域は,プレート境界の近傍に位置する活発な地殻活動・火山活動の場として知られている.伊豆・小笠原弧北端部における現在および第四紀後期のテクトニクスは,伊豆・小笠原弧と本州弧の衝突(あるいは浮揚性沈み込み),ならびに駿河・相模両トラフにおけるフィリピン海プレートの沈み込みという2つの現象の重畳によって大枠が支配されているとみられている(たとえば,Nakamura et al., 1984;Ukawa, 1991).しかし,詳細なプレート幾何学や力学的状態,および具体的な個々の地学現象の位置づけについては,これまで数多くのモデルが提唱され,研究者間の議論が続けられている.
 本論では,伊豆・小笠原弧北端部における現在および第四紀後期のテクトニクスを統一的に説明しようとしたモデルのうち,プレートテクトニクスの枠組みの中で十分な考察と吟味がなされているものについて分類をおこない,各モデルの特徴と問題点の総括を試みる.このような作業・考察を通じて伊豆・小笠原弧北端部のテクトニクスに関する理解を深めることが,この地域に生じる火山・地震をはじめとする様々な地学現象の原因を知り,さらには将来予測のための基礎となるであろう.

2.研究史
 プレートテクトニクスを念頭においた伊豆・小笠原弧北端部のテクトニクスの研究は,杉村(1972)に始まると言ってよい.杉村の研究は,フィリピン海プレートと本州側のプレートの境界が陸上のどこを通過するかという問題に主眼がおかれた.そこには,伊豆・小笠原弧が本州弧を「北西方に押している」という認識が呈示されているが,「衝突」という言葉はみられない.伊豆地塊と本州の相互作用を衝突(collision)という言葉で初めて表現したのは,Matsuda (1978)である.その後,伊豆・小笠原弧北端部のテクトニクスに関する研究は,およそ1Maに起きた伊豆・小笠原弧と本州弧の衝突過程に主眼をおいた地質学的研究と,伊豆・小笠原弧北端部の現在の状態をどう理解するかという総合的・学際的研究へと二極分化してゆく.本論は,この後者を扱う.
 1974年伊豆半島沖地震を発端とする伊豆周辺の地殻活動の高まりの中で,伊豆・小笠原弧北端部の現在の状態をどう理解するかという問題が関心をよび,エポックメイキングな討論会「伊豆半島の変形と応力場」が1979年8月におこなわれた.その成果は,月刊地球1980年2月号「伊豆半島のテクトニクス」としてまとめられている.そこでは,プレートの曲りによって伊豆周辺のテクトニクスを総合的に理解しようとする中村(1980),岩脈法によって伊豆半島を東と西の応力区に分けた中野ほか(1980),伊豆周辺を北部の衝突帯と南部のトランスフォームベルトとに分けた石橋(1980),伊豆・小笠原弧北部を外弧と内弧とに分けて考える貝塚(1980)など,のちの重要なモデルの原型となる考え方が登場ないしは強調されている.
 プレートの曲りを重視した中村(1980)のモデルは,その後中村・島崎(1981)を経て,Nakamura et al. (1984)のモデルへと集大成されてゆく.また,中野ほか(1980)の考え方は,小林(1980),塚原・池田(1983)などへ継承される一方,石橋(1980)の考え方の基本はIda (1991)などに継承された.また,貝塚(1980)の考え方は貝塚(1984)に集大成され,さらに伊豆内弧と外弧の裂け目として西相模湾断裂を導入した石橋(1988)によって精密化させられた.
 1980年代以降には様々な調査や観測の精度が高まり,プレートの曲りよりも衝突現象のつくる応力場を重視するUkawa (1991)のモデルや,火山活動の歴史と特徴,上部地殻の構造,プレート幾何学に関する考察を加えたKoyama and Umino (1991),小山(1993),山岡ほか(1994)などのモデルが登場している.


3.モデルの分類

 これまで提案された伊豆・小笠原弧北端部全体をあつかうテクトニックモデルは,
モデル1:伊豆・小笠原弧北端部を基本的には単一の構造区(tectonic province)とみなし,内部に大きな構造境界を考えないモデル
モデル2:伊豆・小笠原弧北端部を複数の構造区の集合体とみなし,構造区ごとにやや異なるテクトニクスを考えるモデル
の2つに大きく区分できる(表1).
 これらのうち,同じモデル1に属するモデルの中にも,対照的な2つの考え方がある.すなわち,
モデル1A:相模・駿河両トラフでの沈み込みとそれにともなうプレートの曲りによる張力を重視するモデル(plate bendingモデル)(Nakamura et al., 1984)
モデル1B:伊豆・小笠原弧と本州弧の衝突による圧縮力と,相模トラフから沈み込むプレートのスラブプルによる張力とがあいまってテクトニクスを支配するとみるモデル(collision-slab pullモデル)(Ukawa, 1991)
の2種類である.
 また,モデル2に属するモデル中にも,
モデル2A:伊豆半島の北部(北東部)と南部(南西部)で異なる構造区を考えるモデル(石橋,1977,1980;Somerville, 1978;Ida, 1991など)
モデル2B:伊豆半島を北北東―南南西に縦断する構造線の東西で異なる構造区を考えるモデル(中野ほか,1980;小林,1980;塚原・池田,1983;星野,1984;Tsukahara and Ikeda, 1987;Kikawa et al., 1989;Koyama and Umino, 1991)
モデル2C:伊豆・小笠原弧北端部を伊豆内弧と伊豆外弧の2つの構造区に分けて考えるモデル(貝塚,1984;石橋,1988;Koyama and Umino, 1991;小山,1993)
モデル2D:東伊豆単成火山地域を地殻の拡大域,丹那断層とその北方延長を地殻拡大にともなうトランスフォーム断層としてとらえ,伊豆半島北東部をふくむ一帯を一種のマイクロプレートとして考えるモデル(小山,1993;山岡ほか,1994)
の4種類がある(表1).Koyama and Umino(1991)はモデル2Bと2C,小山(1993)はモデル2Cと2Dを組み合わせたモデルを考えている.
 なお,上記には含めていないが,伊豆・小笠原弧北端部のうち,とくに大地震の発生の場であるその北縁の境界部を主として扱い,境界の場所や地震テクトニクスを考察したモデルもいくつか存在する(多田,1977;Tada and Sakata, 1977;松田,1985,1993;山崎,1985,1993;大河内,1990;石橋,1992など).
 このように伊豆・小笠原弧北端部のテクトニクスを統一的に説明しようとしたモデルは多い.しかし,すべてのモデルが共通のデータの上に立脚し,同程度の精度の議論をおこなっているわけではなく,重視するデータの種類や,どの程度細かな構造・特徴まで説明しようとするかが異なっている(表1).同じモデルとして分類された中でも,個々のモデルの精密さや細部の様相・考え方には幅がある.

4.各モデルの特徴と問題点
 4.1 モデル1
 モデル1は,伊豆・小笠原弧北端部において上部地殻内でおきる地震のP軸(あるいはT軸)方位が扇型の分布をもつこと(図1〜2)に代表される様々な観測事実を,単一の構造区を用いたモデルによって統一的に説明したものである.
 モデル1Aは,相模・駿河両トラフでのプレート沈み込みが伊豆・小笠原弧北端部にプレートの曲りをもたらし,それに起因するトラフ軸と直交する方向の引張力が最小主応力軸方位の扇型分布を発生させたと考える(Nakamura et al., 1984,図1).そして,このプレートの曲りに起因する引張場に,伊豆地塊と本州の衝突による北西―南東方向の圧縮力が重畳した結果,中間主応力軸が垂直となり,伊豆・小笠原弧北端部を支配する横ずれ断層型の応力場が形成されたと説明している.
 Ukawa (1991)は,駿河トラフ近傍のフィリピン海プレート内部に南北性のP軸をもつ逆断層型の地震が生じていることを見いだした.このような地震は駿河トラフでの沈み込みに起因するプレートの曲りとは不調和であり,モデル1Aではうまく説明できない.また,本州に対するフィリピン海プレートの進行方向を考えると,相模トラフ軸でのプレート相対運動はほとんど横ずれ成分と考えられるため,沈み込みに先立つプレートの曲りは累積しにくく緩和しやすいと考えられる.よって,たとえプレートの曲りが生じたとしても,それに起因する引張場が現在も持続しているかどうか疑問である(Ukawa, 1991).
 Ukawa (1991)は,簡単な力学計算にもとづき,伊豆地塊北縁でおきる本州との衝突に起因する圧縮応力場が,相模トラフから沈み込むプレートのスラブプル力とあいまって,現在みられる応力軸の扇型分布をつくり得ることを示した(モデル1B,図2).モデル1Bに従えば,駿河トラフ近傍のフィリピン海プレート内部に生じる南北性のP軸をもつ逆断層型地震は,伊豆地塊と本州との衝突に起因する地震として説明できる.また,スラブプルによる引張力を採用することによって,プレートの曲りという現象を無理に考えなくてもよいことが示されたわけである.
 モデル1A・1Bは,伊豆・小笠原弧北端部全体を大局的に支配するテクトニクスを知ろうとする考え方であり,西相模湾断裂のような局所的な構造は,副次的なゆらぎと考える.たとえば,Nakamura et al. (1984)は,石橋(1988)によって西相模湾断裂の南端部としてみなされた海底崖に断層の存在を認めながらも,それをプレート内部の副次的な構造と考えて重視していない.
 しかしながら,伊豆・小笠原弧北端部においては高密度高精度の観測データが集積されており,様々な観測値の局所的なゆらぎについても精度の高い議論が可能となっている.また,個々の地震断層や火山噴火のテクトニクスを考える上で,局所的・副次的なテクトニクス場のゆらぎを無視できない場合がある.モデル1は基本哲学として重要であるが,たとえば東伊豆地域でおきる群発地震や地殻変動のメカニズムのような局所的な個々の問題を考えるにあたっては,おのずと適用限界があるように思う.

 4.2 モデル2A
 単一構造区のモデル1に対し,複数の構造区を設定してより細部の現象まで説明しようとする立場をとるのが,モデル2である.モデル2は,構造区境界の引き方と構造区を支配するテクトニクスの解釈の仕方によって,モデル2A〜2Dの4つに分けられる(表1).
 モデル2Aは,伊豆・小笠原弧北端部のうち,とくに伊豆半島とその周辺海域に注目し,その地域の北部(または北東部)と南部(または南西部)の特徴の違いに基礎をおいたモデルである.モデル2Aは,北部を本州弧との衝突に起因する圧縮変形の場,南部を石廊崎断層をはじめとする複数の右横ずれ断層によるshearingが支配する場と考える(たとえば,石橋, 1980,図3).
 石橋(1980)は,プレート力学境界断層である相模トラフスラストの続きとして西相模湾スラストを考え,西相模湾スラストと駿河トラフを結ぶ幅をもつトランスフォーム境界(伊豆トランスフォームベルト)が伊豆半島南部を通過すると考えた(図3).これに対し,Somerville (1978)とIda (1991)は西相模湾スラストをプレート力学境界断層とは考えずに,伊豆半島南部をフィリピン海プレートの内部変形帯としてとらえた.伊豆半島北縁の衝突帯においてはフィリピン海プレートの北西進が妨げられるため,南海トラフ下へ容易に沈み込むフィリピン海プレートとの間にプレート相対速度の差が生じることになり,この相対速度差に起因する剪断歪みの解消帯として伊豆半島南部の活断層帯が生じたという考え方である.なお,明確な構造区分をおこなってはいないが,石廊崎断層とその延長(図4)を一種のプレート内断裂としてとらえ断裂の南北でテクトニクスが異なることを主張した茂木(1977)のモデル,およびフィリピン海プレートが伊豆半島周辺において3つにスプリットするという笠原(1985)のモデルも,伊豆半島南部における右横ずれ変形を重視する点でモデル2Aの一種と言えるかもしれない.
 石橋(1980)は,伊豆トランスフォームベルトの南東縁を西相模湾スラストの南方延長である「伊豆東方線」と考え,ここに西相模湾スラストと同様の西傾斜スラストが存在する可能性を述べている.かつてこの「伊豆東方線」が,駿河トラフスラストとともに二重のスラスト構造をなすプレート力学境界断層として重視されたことがあった(石橋,1977;藤井,1977など).しかし,断層地形が不明瞭なこと,スラストの存在を裏づける地震活動が知られていないこと,1978年伊豆大島近海地震の震源断層が伊豆東方線と交差すること,当初は伊豆東方線沿いのクリープに起因すると考えもあった伊豆半島東部の地殻隆起が火山活動起源であることが明確になったことなどから,1980年代以降に提唱されたほとんどのモデルは伊豆東方線の存在を重視していない.
 モデル2Aの難点は,現実の地質データをはじめとする多くの観測事実と調和的でない点である.モデル2Aにおいて伊豆半島南部を支配するとされる右横ずれ型のshearingが,実際に駿河湾トラフ軸付近まで達している証拠は見つかっていない.Ukawa (1991)によれば,駿河湾海域のフィリピン海プレート内部で生じる地震の発震機構は南北あるいは北東―南西のP軸方位をもつ逆断層あるいは横ずれ断層型であり(図2上),モデル2Aから期待される北西―南東のP軸方位をもつ横ずれ断層型とは異なる.また,次節で述べるように1974年伊豆半島沖地震や1978年伊豆大島近海地震の余震分布は,モデル2Bの唱える伊豆半島を縦断する構造線付近が北西限となっている.
 茂木(1977)は,石廊崎断層から駿河トラフを横断して静岡西方に達するフィリピン海プレート内断裂を推定し,その存在の主な証拠として断裂線に沿う線状の震源分布,駿河トラフ軸および静岡側斜面の地形,の2つを挙げた.このうち震源分布については,その後増えたデータから,茂木の推定した断裂線付近を境にした駿河湾海域の地震活動度の差が指摘されている(Ukawa et al, 1988,図4).断裂線北側の低い地震活動度は,駿河トラフ軸に直交する方向の圧縮応力の増加にともなうフィリピン海プレート内の差応力の低下が原因とされ(Ukawa, 1991),断裂の存在を直接反映するものではない.また,茂木(1977)が断裂存在の証拠として指摘した駿河トラフ軸地形の屈曲は,伊豆側斜面上にある隆起帯が駿河トラフ下へ沈み込むことによって作られた狭窄部(石花海ゴージ)であることが深海潜水艇を用いた地質調査によってわかっている(小山ほか,1992).また,茂木(1977)の指摘した駿河トラフ静岡側斜面の南北の地形差も,この隆起帯の沈み込みに起因するものとして説明可能である.石花海ゴージ付近の駿河トラフ伊豆側斜面上に広く分布する第四紀の石灰質砂岩層は,全体が西方のトラフ軸に向かって緩やかに傾斜しており,大きな断裂構造の存在は認められていない(小山ほか,1992).恒石・杉山(1978)は,静岡市西方の高草山層群の分布に右横ずれ変位を与えている断層を発見し,それが茂木の提唱した断裂線上にあることから断裂を反映した断層と考え,「駿豆断層」と命名した.しかし,その後の詳細な地質調査によって,問題の断層はまわりの褶曲構造と調和的な分布を示す局所的な断層であり,主要な活動時期も鮮新世末〜更新世初期と古いことが判明している(杉山ほか,1982).
 かりに,モデル2Aから期待されるような伊豆半島南部における右横ずれ型のshearingが過去数十万年にわたって続いてきたとしたら,shearingにともなう歪を解消する断層の累積右横ずれ変位は相当量になると考えられる.しかし,それを支持する地形・地質学的事実はこれまで見つかっていない.たとえば,石廊崎断層に沿う変位は地質図表現としては無視できるほど小さいことがよく知られている(Yamada, 1977;狩野,1983).伊豆半島南部の主な活断層の変動地形から推定された活動度は0.01〜0.1cm/年であり(星野ほか,1977),伊豆半島周縁のプレート力学境界域を構成する入山瀬断層や国府津―松田断層などの主要活断層の活動度(0.2〜0.8cm/年,Yamazaki, 1992)より一桁小さい.伊豆半島の地質図(小山,1988)からも,大きな右横ずれ断層が伊豆半島中部〜南西部地域を北西―南東方向に横切っている証拠を認めることはできない.たとえば,次節で述べる湯ヶ島―松崎構造線の一部をなす門野断層は,松崎町南部から天城峠西方まで13kmにわたって追跡できる直線的なトレースをもつ.
 以上のことから,伊豆半島南部から駿河トラフ軸付近にいたる地域を右横ずれ型のshearingが支配する場と考えるモデル2Aの考え方には,納得できない点が多い.なお,モデル2Aに属するモデルのうち,石橋(1977,1980)のモデルはその後撤回され,西相模湾断裂の概念を導入した石橋(1988)のモデル(モデル2C)となっている.

 4.3 モデル2B
 モデル2Bに分類されるモデルは,伊豆半島内における地殻応力方位をはじめとする様々な観測データの地域的不連続性を説明するために提唱された.中野ほか(1980)は伊豆半島に分布する岩脈の方位から,塚原・池田(1983),星野(1984),Tsukahara and Ikeda (1987)は現場応力測定・活断層の走向などから,伊豆半島を北北東―南南西に縦断する地殻応力方位の急変線を見い出し,その線を境として伊豆半島を2つの構造区に区分した(図5).Kikawa et al. (1989)は,第四紀火山の古地磁気偏角が上述の構造線付近を境として伊豆半島の西部と東部で系統的に異なることを見い出し,2つの構造区の存在を支持した.Koyama and Umino (1991)も地質データからほぼ同じ位置に構造線を推定し,そこを境とする地殻構造・地殻応力方位・地震活動度・古地磁気方向・火山活動の性質などの違いから伊豆半島を2つの構造区に分けた(図6).
 これらモデル2Bの主張する構造区境界の存在は,モデル2Bや後述のモデル2Dの是非にかかわる根本的な問題であるので,ここでその根拠をやや詳しく述べる.構造区境界の存在の根拠として考えられている観察事実および解釈を以下に列挙する.
 地殻応力方位:伊豆半島においては,上部地殻内でおきる地震のP軸方位や現場応力測定などのデータから求まる地殻応力方位が西半部(水平最大圧縮軸方位がほぼ南北)と東半部(水平最大圧縮軸方位がほぼ北西―南東〜北北西―南南東)とで系統的に異なる(図2上,図5).この応力方位の変化については,ほぼ連続的に扇型を描くように変化するという見方(モデル1,図1〜2)と,半島をほぼ北北東―南南西に縦断する境界を境として不連続的に変わるとする見方(モデル2B,図5)とがあるが,データの豊富な塚原・池田(1983)やTsukahara and Ikeda (1987)から判断して,不連続に変化するとみる方が自然であるように思う.
 地質構造:伊豆半島内(箱根火山地域までを含めて)には,起源の異なる異質な地質体同士が接している例(たとえば,伊豆地塊の北縁で丹沢山地の火山岩類と足柄層群とが神縄断層で接するような例)はなく,伊豆・小笠原火山弧起源の物質のみが分布する(小山,1986,1988).しかしながら,伊豆半島内には活断層を含む数多くの断層が存在する.Koyama and Umino(1991)は,伊豆半島内に3列の断層密集帯を認識し,それぞれ平山―棚場構造線(HTTL),棚場―湯ケ島構造線(TYTL),湯ケ島―松崎構造線(YMTL)と呼んだ(図6).HTTL,TYTL,YMTLの3つの構造線は全体として伊豆地塊をほぼ北北東―南南西に分断しており,モデル2Bの唱える東伊豆/西伊豆構造区境界の位置とほぼ一致する.
 活断層・発震機構:伊豆半島内に分布する活断層のほとんどは水平方向の変位が卓越する横ずれ型であるが,モデル2Bの西伊豆構造区に含まれる半島の西半部には正断層も存在する(星野ほか,1978,図6).一方,上部地殻内でおきる地震の発震機構は,伊豆半島およびその周辺海域の全域において横ずれ型が卓越しているが,西伊豆構造区とその沖合の駿河湾海域には逆断層型も存在する(Ukawa, 1991,図2上).
 地震活動度:ここ60〜70年間の伊豆半島とその周辺における地震分布をみると,地震活動度はモデル2Bの西伊豆構造区で低く,東伊豆構造区で高いことが明瞭である(たとえば,吉田,1985,図7).
 地殻構造:屈折法地震探査によって明らかにされた伊豆半島の地震波速度構造(Asano et al., 1982)をみると,東伊豆/西伊豆構造区境界の一部にあたるHTTLを横切る三島―下田測線の修善寺付近に大きな不連続が見られ,HTTL付近より北側に存在する5.0km/s層が南側には存在しないことがわかる.また,この付近より北側にある6.1km/s層には認められない垂直方向の地震波速度勾配が,南側にある5.5km/s層には認められるという(Asano et al., 1982).
 測地学的変動:伊豆半島の主として東部において,現在までの総隆起量が多い場所で40cmに達する隆起が1975年以来続いている(たとえば,石井,1989,1992).この隆起が進行している地域は,ほぼ東伊豆構造区内部だけに限られるように見える.とくに,1980年頃までの測地測量結果をみると,隆起域の西端はちょうど修善寺付近における東伊豆/西伊豆構造区境界の位置に一致するように見える(Tada and Asano, 1983;小山,1988;Koyama and Umino, 1991).
 最近の主な地震の特徴:1978年伊豆大島近海地震の余震は,本震の震源域である伊豆大島西方海域から出発して伊豆半島内部を北西に向かって分布を広げ,東伊豆/西伊豆構造区境界の一部にあたるYMTL付近に達した後,YMTLに沿って南西方向に分布を広げたように見える(津村ほか,1978,図8).1974年伊豆半島沖地震の余震分布も,その北西端はYMTL付近に限られており,それを越えて北西方の駿河トラフ軸付近へは広がっていない(石橋ほか,1975).
 古地磁気:伊豆半島の第四紀火山(時代的には1.5〜0.4Ma)の古地磁気偏角が,東伊豆/西伊豆構造区間で系統的に異なることが知られている(Kikawa et al., 1989;Koyama and Umino, 1991).西伊豆構造区内の古地磁気偏角がやや時計回り方向の異常を示すのに対し,東伊豆構造区内の古地磁気偏角の多くは顕著な反時計回り方向の異常を示し,両者の境界は東伊豆/西伊豆構造区境界に一致するように見える.このことは,東伊豆構造区と西伊豆構造区が最近数十万年間に異なる構造運動を被ったことを強く示唆している.
 Kikawa et al. (1989)は,東伊豆/西伊豆構造区間の古地磁気偏角異常の系統的な差を,伊豆半島のdifferential tilting(西伊豆構造区の西方〜南西方への傾動,および東伊豆構造区の東方〜南東方への傾動)によって説明した.これに対し,Koyama and Umino (1991)は,Kikawa et al. (1989)の示した東伊豆構造区の傾動角は第四紀の積算上下変動のパターンや地質構造と矛盾することを示し,東伊豆構造区内における反時計回りのblock rotationの存在を主張した.
 火山活動の性質:火山には複成火山と単成火山があり,さらに単成火山には複成火山体の一部をなすものと,単成火山だけで火山群をなすもの(独立単成火山群)がある(中村,1986).同じ火道を何回も使用する複成火山は,地殻の側方拡大が容易でないテクトニクス場に生じ,噴火のたびに新しい割れ目火道を開く(つまり,新たな割れ目火道の幅分だけ地殻を伸張させる)独立単成火山群は,地殻の側方拡大が容易なテクトニクス場に生じると考えられている.
 独立単成火山群である東伊豆単成火山群は15万年前頃から噴火を開始し,その分布は東伊豆構造区内にほぼ限られる(Koyama and Umino, 1991;小山,1993,図6).これに対し,大島から銭洲にかけての海域には伊豆大島,新島,神津島などの複成の活火山が多く分布する.このことから,大島から銭洲にかけての海域を東伊豆構造区と異なるvolcanotectonic province(大島―銭洲構造区)とみなし,東伊豆構造区を地殻の側方拡大の容易な場,大島―銭洲構造区を側方制約の大きな場とみなすことができる(Koyama and Umino, 1991).なお,西伊豆構造区には更新世後期以降の火山がないため,現在どのようなvolcanotectonic provinceにあたるか不明である.

 以上述べた数々の観察事実から,少なくとも東伊豆/西伊豆間には何らかの構造区境界があるとみてよいだろう.つまり,構造区分としてのモデル2Bはかなり有力な考え方だと思われる.大島―銭洲構造区に関してはデータ不足であり,東伊豆構造区とのテクトニクス場の違いは現在のところ火山活動の性質のみによって示される.
 モデル2Bが主張する東伊豆/西伊豆構造区分のテクトニックな意味は何であろうか?塚原・池田(1983)やKikawa et al. (1989)は,駿河トラフ下への沈み込み直前に生じるプレートの曲りによって東伊豆/西伊豆構造区境界で応力方位が急変すると考えた.しかし,この考え方で地質構造や地震活動の差まで説明するのは難しい.Koyama and Umino (1991)は,モデル2Cの考え方を取り入れることによって,東伊豆構造区を側方拡大テクトニクスの場としてとらえ,西伊豆構造区との違いを説明した.

 4.4 モデル2C
 伊豆半島内の構造区分に注目したモデル2A〜2Bとはやや異なり,モデル2Cは伊豆・小笠原弧の外弧と内弧の性質の違いに注目する.モデル2Cは,伊豆・小笠原弧を,活動的火山弧であるゆえの浮揚性を備えた伊豆内弧と,容易に沈み込み可能な伊豆外弧との2つの構造区に分けることが重要と考える(図9).この考え方は,もともとKaizuka(1975)や貝塚(1984)によって主として伊豆・小笠原弧北部と関東地方の大地形を説明するために提案されたものである.石橋(1988)は,神奈川県西部においておよそ70年ごとに繰り返すM7級の地震(神奈川県西部地震)のテクトニクスを説明するため,石橋(1980)の西相模湾スラストの概念を貝塚(1984)の考えと組み合わせ,伊豆外弧/内弧間のプレート内断裂としての西相模湾断裂を提唱した.
 Koyama and Umino(1991)も,東伊豆構造区のテクトニクスや東伊豆単成火山群の存在を説明するために,西相模湾断裂の存在とその役割の重要性を主張した.西相模湾断裂を含むプレート幾何学を考えた場合,断裂の上盤側にあたる伊豆半島北東部の上部地殻にとっては,北東側に拡大するための障害が伊豆外弧の沈み込みによってある程度取り払われた状況になっている(図9〜10).また,前節で述べた東伊豆構造区における反時計回りのblock rotationを起こすためには,上部地殻内に低角の滑り面の存在が必要である.以上のようなプレート幾何学と滑り面の存在がマグマ貫入にともなう北東方への地殻の側方拡大を容易にし,東伊豆単成火山群を成立させたと考えるのがKoyama and Umino(1991)のモデルである.
 海底地形,歴史地震,相模湾西部海域の地殻応力方位と地殻構造,周辺テクトニクスからの要請などを考えると,断裂の正確な位置や形状は別として,西相模湾断裂の存在そのものはかなり確からしいと思われる(小山,1992).しかし,断裂の存在を疑う研究者も多い(たとえば,萩原,1993).

 4.5 モデル2D
 モデル2Dは,モデル2Bの東伊豆/西伊豆構造区境界の北半分を重視し,東伊豆地域における地殻拡大に結びつける考え方である.Koyama and Umino (1991)の考えを引き継いだ小山(1993)は,東伊豆単成火山群の噴火史から東伊豆構造区における過去15万年間の平均地殻拡大速度をほぼ0.5〜1.5cm/年と見積り,この地殻拡大によって生じる歪を解消する一種のトランスフォーム断層として,丹那断層とその北方延長からなる構造帯(丹那―平山構造線:Koyama and Umino (1991)のHTTLに相当)を位置づけた(図10).小山(1993)のモデルにしたがえば,東伊豆単成火山地域,丹那―平山構造線,西相模湾断裂,国府津―松田断層の4者に囲まれる伊豆地塊北東部が,一種のマイクロプレートとして他の伊豆地塊に対し北北東進することになる.吉田(1993)も小山(1993)と類似したモデルを考えているが,西相模湾断裂を重視していない点が異なる.
 山岡ほか(1994)のモデルは,小山(1993)のモデルの一部をさらに発展させ,中部地方下のフィリピン海プレートスラブの形状までも説明しようとした野心的なモデルである.山岡ほか(1994)は,東伊豆単成火山地域から伊豆大島火山までをひとつの連続的な地殻拡大域としてとらえ,この拡大域が第四紀後期を通じて南東方に伝播(propagate)してきたと考えた.そして,この伝播性拡大によって生じた地殻の裂け目が富士山下のフィリピン海プレートスラブの欠如と,愛知県下のスラブの重複をつくったと説明した.

5.まとめ
 以上,伊豆・小笠原弧北端部における現在および第四紀後期のテクトニクスの統一的理解を試みたモデルを整理・紹介し,問題点の指摘と議論をおこなった.要点を以下に述べる.
1.これまで提案された伊豆・小笠原弧北端部のテクトニックモデルは,伊豆・小笠原弧北端部を単一構造区とみなすモデル(モデル1),複数の構造区の集合体とみなし構造区ごとにやや異なるテクトニクスを考えるモデル(モデル2),の2つに大きく区分できる.
2.モデル1の中には,相模・駿河両トラフでの沈み込みにともなうプレートの曲りを重視するモデル(モデル1A),伊豆・小笠原弧と本州弧の衝突による圧縮力と相模トラフ下に沈み込んだプレートのスラブプル力を重視するモデル(モデル1B),の2種類がある.
3.モデル2の中には,伊豆半島の北部と南部で異なる構造区を考えるモデル(モデル2A),伊豆半島を北北東―南南西に縦断する構造線の東西で異なる構造区を考えるモデル(モデル2B),伊豆・小笠原弧北端部を伊豆内弧と伊豆外弧の2つの構造区に分けるモデル(モデル2C),東伊豆単成火山地域を地殻拡大域,丹那断層とその北方延長を地殻拡大にともなうトランスフォーム断層としてとらえるモデル(モデル2D),の4種類がある.
4.モデル2Aは,調和的でない観測事実が多い点でやや問題があると思われる.構造区分としては,モデル2Bのものがより確からしい.モデル2Cは西相模湾断裂を重視した立場をとるが,断裂の存在そのものの是非・位置・形状に関しては様々な議論がある.東伊豆構造区内の地殻拡大という新たな発想にもとづくモデル2Dは,今後の発展の可能性を秘めている.
 西相模湾断裂の是非の議論や神奈川県西部地震のテクトニクスにかんする筆者の見解については,紙数の関係から機会をあらためて述べる.

謝辞
 石橋克彦および匿名査読者の両氏からいただいたコメントは,本論文の改善に大いに役立ちました.ここに記して感謝します.


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