(地学雑誌,105巻,133-162頁)
本文のみ.校正前のテキストであり,最終的な印刷論文とは若干の違いがあります.図と引用文献については原論文をご覧下さい(総合柱状図についてはこれを参考にしてください).露頭写真については口絵写真解説をご覧ください。


伊豆大島火山カルデラ形成以降の噴火史

小山真人*・早川由紀夫**

*〒422 静岡市大谷836 静岡大学教育学部地学教室
**〒371 前橋市荒牧町4-2 群馬大学教育学部地学教室

Abstract

I.はじめに

 1986年11月21日16時15分に伊豆大島火山(図1)のカルデラ底噴火割れ目から始まった準プリニー式噴火の際,上空に立ち上がった噴煙柱は高さ16kmに達し,火口の東3.5km地点に厚さ25cmのスコリア堆積物を残した(早川,1987).この堆積物は,噴火から10年が過ぎようとする現在もほぼ当初の姿のまま観察することができる.
 1986年噴火は,(1)地層として残る降下スコリアをカルデラ外に降らせた,(2)カルデラ外で側噴火を起こした,という2点で過去の伊豆大島の大噴火(Nakamura, 1964,後述)の特徴をそなえており,1986年と同程度の噴出量であった1912〜14年噴火や1950〜51年噴火とは根本的に異なる噴火と考えられる.ところが,数年間にわたって継続的に火山灰を降らせる時期(火山灰期)がないこと,総噴出量(5.8×10の10乗kg,早川,1987)が大噴火にしては小さいこと,の2点で過去の大噴火と異なる.よって,これらの欠損する条件をみたすために,近い将来火山灰期が始まると予想されていた(中村,1987).
 ところが火山灰期は訪れず,1987年11月の噴火をきっかけにして三原山火口を満たしていたマグマはマグマ溜りに戻ってしまった(井田ほか,1988).1986年噴火堆積物上には,後述するように噴火休止期をしめす風成堆積物が堆積をはじめているから,1986年噴火は終了したとするのが妥当であろう.1986年噴火は,カルデラ形成以降の過去1450年間に一度も起きたことのない特殊な噴火であったのだろうか,それとも前提となる大噴火の概念に問題があるのだろうか?
 このような問題意識のもとで,私たちはテフラ層序学の手法,さらには最近急速に発展したレスクロノメトリーの手法(早川,1995)を用いて,伊豆大島火山のカルデラ形成以降の噴火史を再検討した.その結果,これまで1回の大噴火とみなされてきた噴火のうちのいくつかは,明瞭な噴火休止期間に隔てられた複数の中〜大規模噴火の集合であることがわかり,従来の噴火史および大噴火の概念に大幅な修正を加えることができた.また,その上に立って1986年噴火の歴史学的意義を再考し,今後の噴火様式と規模についての長期的予測をふくむいくつかの考察を試みたので報告する.
 なお,伊豆大島のカルデラ内の大部分はY1.0噴火以降の溶岩流におおわれてほとんど植生がなく,テフラの保存状態が悪いため,本論に記された以外の小規模なテフラがあったとしても,その分布や層序を調べることは困難である.また,明治以降の伊豆大島においてカルデラ内での溶岩流出を主体とした中規模噴火(1912〜14年噴火および1950〜51年噴火.噴出量はそれぞれ7.9×10の10乗kgと6.5×10の10乗kg,Nakamura, 1964)の存在が知られているが,これらの噴火はカルデラ外に地層として残るテフラを堆積させなかった.もし江戸時代以前にこのような噴火があったとしても,カルデラ外のテフラ層序からはその存在を知り得ない.また,伊豆大島周辺の海底で大規模な側噴火があったとしても,陸上にテフラを堆積させない限り,その存在を知ることは現状では困難である.つまり,本論で検討した噴火史は,カルデラ外の伊豆大島陸上にテフラを地層として残した噴火に限定されたものであることを最初にことわっておく.

II.従来の噴火史の問題点と新しい噴火事件認定法

 テフラ層序学の手法をもちいてカルデラ形成以降の伊豆大島火山の噴火史を編んだNakamura (1960, 1961, 1964)は,過去1500年間に10の11乗kg以上のマグマを噴出した12回の「大噴火」を認識し,噴火サイクル(噴火輪廻)の概念を提出した.彼によれば,1回の大噴火の噴火サイクルは1組の噴火堆積物(メンバー)によって定義される.ひとつのメンバーは,下位より(1)基底スコリア,(2)成層火山灰,(3)褐色風化火山灰の順に積み重なっている.(1)は短時間の高噴出率噴火,(2)は数年続く低噴出率噴火(火山灰期と呼ぶ),(3)は静穏期を示している.中村は,12メンバー(新しい順にY1〜Y6,N1〜N4,S1〜S2)すなわち12回の噴火サイクルに例外なく(1)→(2)→(3)の累重が認められるとした.さらに,カルデラ形成以降にカルデラ外で生じた側噴火のすべては,これら12回の大噴火のいずれかにともなったと述べている.
 Nakamura (1964)は,上述(3)の褐色風化火山灰を,噴火によって降り積もった火山灰が噴火静穏期にその場で風化を受けたものと考え,その量を計算に加えて各大噴火の噴出量を求めた.ところが,その後中村(1970)は,(3)は一次的な火山灰が風化を受けてできたものではなく,噴火休止期間に火口周辺から舞い上がって降り積もった二次的な風成堆積物であると考えるようになった.これにともない,伊豆大島の各大噴火の噴出量は(3)の分を減算して求め直す必要が生じたが,再計算はなされず今日に至っている.
 早川・由井(1989)および早川(1991,1995)は,中村(1970)の考えをより厳密に一般化し,日本の火山地域でふつうに見られる褐色ロームやクロボクの大部分が噴火休止期における二次的風成堆積物(レス)であり,その堆積速度の一様性を主張している.この考えにもとづけば,レスの存在によって個々の噴火事件を区切ることができ,レスをはさまない噴火堆積物は1回の噴火事件に対応するとみなすことができる.また,レス堆積速度の一様性によって,レスの厚さから噴火休止期の長さを推定できる.
 島の東部の外周道路付近(図1の地点48付近)の森林中においては,1986年スコリアの上位をおおう厚さ数mmの褐色ロームが観察できる.1986年11月以来この地点に降灰があったのは1987年11月16日の噴火時のみである.その堆積量はおよそ0.2kg/m2,つまり厚さに換算して0.2mm程度とわずかだった(早川・白尾,1988).この火山灰はその後風に吹き飛ばされてしまったから,いま地層として認めることはできない.この地点の地表直下にある褐色ロームはすべてレスである.もし近い将来ふたたびテフラがこの地点をおおえば,このレス薄層は地層として保存され,1986年テフラは,上下をレスにはさまれた1回の噴火事件を示す地層として残るだろう.
 Nakamura (1960, 1964)が認識した12メンバーすべての最上部には噴火休止期間をあらわすレスが存在する.しかしながら,たとえばN4のテフラ中にもレスの薄層が何枚か存在すること(すなわち,N4は複数の噴火事件をふくむこと)が,Nakamura (1964)や一色(1984a)によってすでに気づかれていた.また,S2とS1の間にはS’と呼ばれる小規模なテフラの存在が知られ(Nakamura, 1964;一色,1984a),Y1の上位にも小規模な火山灰の存在(Nakamura, 1964)が知られていたが,それらの実態はあまり明らかでなかった.
 私たちは,まず露頭断面において褐色ロームの存在の有無にとくに注意をはらい,それらの厚さがカルデラ中心(あるいは特定火口)からの方向や距離によらずほぼ一定であることを確かめた(図2,表1).このことは,これらの褐色ロームが噴火による降下堆積物でなく,風成堆積物,つまりレスであることをつよく示唆している.そこで,これらのレスの存在によって1回1回の噴火事件を区切り,計24回の噴火事件を認識した.それらは上位より,1986年噴火テフラ(Y1986),Y0.8,Y1.0,Y2.0,Y3.0,Y3.8,Y4.0,Y4.2,Y5.0,Y5.2,Y5.6,Y6.0,N1.0,N2.0,N3.0,N3.2,N4.0,N4.2,N4.4,N4.6,N4.8,S1.0,S1.5,S2.0である.各噴火事件のリストおよびNakamura (1960, 1964)のテフラ層序との関係を表2に示す.ここで注意すべきは,Nakamura (1960, 1964)のメンバーはレス部分も包含した地層に対して与えられた名称であり,噴火事件の名称ではないことである.本論ではテフラ部分をレス部分から切り離し,個々の噴火事件(あるいはテフラ)の名称としてY1.0等の記号を用いた.小数点以下の数字は,各テフラのおおよその層位をあらわしている.

III.個々の堆積物とその特徴

 各噴火事件(および噴火休止期間)の堆積物を新しい順に記述する.図3に各噴火事件の噴火位置と降下テフラの等層厚線図をまとめた.図4には重要地点のテフラ/レス柱状図を示し,それらをまとめた総合柱状図を図5に示した.噴出したマグマの質量を計算する際の堆積物の平均密度には,降下スコリア500kg/m3,火山灰700kg/m3を用いた.降下テフラの体積Vは,厚さTの等値線が囲む面積SからHayakawa(1985)の経験式V=12.2TSを用いて算出した.
 なお,伊豆大島においては,シルト粒子を多く含んでよく固結した淡褐色またはクリーム色の降下テフラが特定層準に多く見られ,カタと呼ばれている(中村,1978).カタは水蒸気マグマ噴火の産物であり,火山豆石を含む.本論も記載用語としてカタを使用する.

Y1986
 本論では,1986年噴火事件(およびその産物であるテフラ)をY1986と呼ぶことにする.Y1986は,三原山火口からの溶岩噴泉が起きた第1段階(1986年11月15日17時25分〜21日16時15分),カルデラ底およびカルデラ外側の割れ目噴火事件に代表される第2段階(11月21日16時15分〜23日16時31分),三原山火口での間欠的爆発である第3段階(12月18日17時34分〜21時21分)からなる(早川,1987).このうち,第1段階と第2段階がカルデラ外へのテフラ降下事件をともなった.第1段階では東南東と西南西に分布軸をもつスコリアと火山毛が降下したが(早川ほか,1987),これらを現在地層として認めることは,堆積直後に第2段階スコリアにおおわれて保護された地点をのぞいて,困難である.現在カルデラ外に地層として観察できるテフラのほとんどは,第2段階の降下スコリアである.

Y0.8
 伊豆大島の十分植生のある場所においては,地表または1986年スコリアの下位におよそ15cmの褐色砂質レスがあり,その下位に灰色火山灰の薄層が存在する.この火山灰と下位のY1.0との間には4cmの褐色レスが存在するため,この火山灰がY1.0とは異なる噴火事件(Y0.8)の産物であることがわかる.
 Y0.8は,淘汰のよい灰色降下火山灰であり,上部に赤紫色の火山砂薄層を1枚はさむ.南西に分布軸をもち,間伏林道の地点33における厚さは20cmある.中村一明はY0.8にあたる灰色火山灰を島の南部でのみ認識していたが(Nakamura, 1964のp.691),今回の調査によって島のほぼ全域に分布することがわかった.

Y1.0
 Y1.0は,18世紀後半の安永年間の噴火事件(後述)による降下テフラであり,基底にある1枚の黒色スコリアとそれを直接おおう灰色火山砂からなる.スコリアは東方に鋭く伸びる分布軸をもち,外周道路ぞいの地点18における層厚は40cmである.分布軸上のカルデラ縁近くではスコリアの粒径が粗くなり,地点64では一部が流動変形・溶結してスパター状になっている.分布の限定されたY1.0スコリアに対し,Y1.0火山砂は島の全域に分布し,北東と南西に伸びる不明瞭な分布軸をもつ.Y1.0火山砂にはぼんやりした葉理が発達しており,最上部に赤紫色の火山砂薄層が1枚はさまれる.
 Y1の噴火の際,カルデラ底に溶岩が流出し北東側2ヶ所,東側,および南西側斜面を流れ下ったとされている(Nakamura, 1960, 1964;一色,1984a).Nakamura (1960, 1964)によれば,溶岩流出はY1の基底スコリアの放出後に起きた.Y1.0の層位と分布から,中村の言うY1基底スコリアがY1.0スコリアと同一であることは明らかである.

Y2.0
 Y1.0とおよそ10cmの褐色レスを隔ててY2.0がある.Y2.0は,17世紀後半の天和〜貞享年間の噴火事件(後述)による降下テフラであり,上位より火山灰/スコリア/火山灰/火山砂の層序をもつ.最下位の黒色火山砂は,島の東〜北東部の地点20と地点18の間のみで1cm以下の薄層として観察できる.Y2.0火山灰には赤,紫,灰などのさまざまな淡い色調の縞模様が発達する.Y2.0火山灰とスコリアは,東北東と西南西,および南東方向の分布軸をそれぞれもつ.
 Y2の噴火の際,カルデラ底に溶岩流が流出して東側斜面を流れ下り,長根岬の海岸扇状地をつくったとされている(Nakamura, 1960, 1964;一色,1984a).Nakamura (1960)は,この溶岩流がY2の基底スコリアをおおうとしている.長根岬西の地点55では溶岩流の基底に厚さ1cmの黒色スコリアが観察できるが,このスコリアが,上述のY2.0スコリアと同一かどうか私たちは確認できなかった.

Y3.0
 Y2.0とおよそ7cmの褐色のレスを隔ててY3.0がある.Y3.0は,下位のスコリアとそれを直接おおう火山灰からなる降下テフラである.Y3.0スコリアは紫〜赤紫色を帯びており,島の南部にのみ分布し南に分布軸をもつ.Y3.0火山灰は,黒〜灰色を呈し,北東と南西に分布軸をもつ.島の北部では,黒〜灰色のY3.0火山灰の直下にスコリア混じりの赤紫色火山灰があるが,これは島の南部にあるY3.0スコリアの縁辺相かもしれない.
 Y3の噴火の際,カルデラ底に溶岩流が流出して北東側斜面を流れ下り,海岸に達したとされている(Nakamura, 1960, 1964;一色,1984a).地点115において,この溶岩流がレスをはさんでY3.8以下のテフラをおおい,Y2.0以上のテフラにおおわれる関係(つまり,Y3.0層位の溶岩流であること)を確認できた.

Y3.8
 Y3.0とおよそ10cmの褐色のレスを隔ててY3.8がある.Y3.8は1枚の灰色の降下火山灰であり,主として島の南部の保存のよい露頭でのみ確認できる.

Y4.0
 Y3.8とおよそ2cmの褐色のレス薄層を隔ててY4.0がある.Y4.0は,最下部にあるスコリアとそれを直接おおう火山灰からなる.最下部のスコリアは東南東に分布軸をもち,外周道路の地点17での厚さは40cmある.また,島の南東部の保存のよい露頭に限って,スコリアの直下に黒色火山砂の薄層が確認できる.Y4.0火山灰には,Y2.0火山灰と同様の赤,紫,灰などのさまざまな淡い色調の縞模様が発達し,粒径も層準によって変化する.島の南東部では,火山灰中に1ないし2枚の降下スコリア薄層がはさまれている.Y4.0火山灰全体としての分布軸は東北東と南西に伸びている.
 Y4の噴火の際,島の南部の噴火割れ目で側噴火が生じ,岳の平スコリア丘やイマサキ沖海底での水蒸気マグマ噴火などが生じたことが知られている(Nakamura, 1961, 1964;一色,1984a).間伏林道の地点83で,この噴火割れ目の北西延長が確認できる.そこには,厚さ62cmのY4.0火山灰の直下に,側噴火割れ目からの放出物と考えられる厚さ3m(下限不明)の赤色スパターがある.この付近にあるべきY4.0最下部のスコリアが見られないこと,この地点のY4.0火山灰の厚さが付近のY4.0火山灰の厚さと調和的であることから,赤色スパターはY4.0最下部のスコリアの直上の層位を占めると思われる.
 Y4の噴火の際,カルデラ底に溶岩流が流出したとされている(Nakamura, 1960, 1964;一色,1984a).桂・中村(1960)は,この溶岩流をカルデラ北端の地点14の東で観察している.彼らの柱状図をみると,溶岩流の上位を直接おおうY4火山灰の厚さは20cmあるから,この火山灰がY3.8やY4.2であるとは考えにくい.よって,この溶岩流の層位をY4.0と考える.

Y4.2
 Y4.0とおよそ2.5cmの褐色のレス薄層を隔ててY4.2がある.Y4.2は1枚の黒色火山砂薄層であり,島の南東部の保存のよい露頭でのみ確認できる.

Y5.0
 Y4.2とおよそ11cmの明褐色のレスを隔ててY5.0がある.この明褐色レスと,Y5.0/Y6.0間にある色調のやや暗い褐色レスとの組み合せは,Y5.0識別のためのよい鍵層である.
 Y5.0は,火山灰を主体とし,島の南東部でのみ中位に1枚のスコリア薄層をはさむ降下テフラである.Y5.0火山灰は,東北東に分布軸をもち,Y2.0やY4.0火山灰と同様の赤,紫,灰などのさまざまな色調の縞模様が発達する.島の東部では,火山シルトと火山砂の互層となって層理が発達し,中位に明褐色の火山シルトの薄層が2枚はさまれる.地点27では,厚さ36cmのY5.0の基底から12cmの層位に,上述の茶白色火山シルトのうちの1枚(厚さ2cm)があり,その直上をY5.0スコリア(厚さ5cm)がおおっている.
 カルデラ東縁の櫛形山西麓(地点98)には,よく成層した火山砂/火山シルト互層(厚さ80cm)が露出しており,岩相上の特徴からY5.0の火口近接相と考えてよいだろう.桂・中村(1960)およびNakamura (1961)は,この火山砂/火山シルト互層の直下にスパターを記載し,スパターの存在から,櫛形山をY5の側火山体と考えた.私たちはこのスパターを確認できなかったが,この地点は櫛形山の山麓であり,櫛形山の山体内部を代表する露頭とは言いがたい.また,カルデラ東縁付近においては,地点64のY1.0スコリアがそうであるように,降下スコリアの火口近接相としてのスパターがあってもおかしくない.
 櫛形山の山体内部を代表するとみられる地層は,山頂近くの地点99に見られる.ここには,カルデラ南東縁の白石山の山体を構成するものと同様の厚さ3m(下限不明)のアア溶岩流が露出している.このことと,白石山のカルデラ壁の北方延長にあたることから,櫛形山は,白石山と同じくカルデラ形成前の火山体の一部と考えられる.

Y5.2
 Y5.0とおよそ1cmの褐色レス薄層を隔ててY5.2がある.Y5.2は1枚の降下スコリアである.
 島の西斜面には,Y5の噴火の際に元町スコリアと元町溶岩を噴出したとされる側噴火割れ目の存在が知られていた(Nakamura, 1961).1986年C火口駐車場の地点1では,厚さ60cmの元町スコリアの上位を,厚さ2cmの褐色レスをはさんで厚さ12cmのY5.0火山灰がおおう関係が観察できる.このY5.0火山灰の下面には軽微な不整合も観察できる.このことから,元町スコリアは,Y5.0とは異なる噴火事件(Y5.2)に放出されたY5.2スコリアであることがわかる.Y5.0/Y5.2間にレス薄層がはさまれる関係は,島の西〜北部の地点25,13,12,東部の地点48,19,5,18でも確認できる.Y5.2スコリアは,噴火割れ目から東南東に鋭く伸びた分布軸をもつ.

Y5.6
 Y5.6は,カルデラ北西縁の地点21のみに見られる1枚の降下火山灰である.地点21では,厚さ1.5m(上限不明)のY5.2スコリアがあり,褐色レスを隔てて12cm下位に厚さ2cmの灰色火山灰がある.この火山灰から褐色レスを隔てて10cm下位には,厚さ25cmのY6.0テフラ(後述)があるため,この火山灰を降らせた噴火が,Y5.2やY6.0とは独立の事件(Y5.6)であることがわかる.

Y6.0
 Y5.2とおよそ10cmの褐色レスを隔ててY6.0がある.Y6.0は,葉理をもつ灰色〜紫灰色の降下火山灰を主体とし,その基底と中位にそれぞれ1枚の厚い降下スコリア(スコリアLおよびM)をはさむ.スコリアLは東,スコリアMは南南西に,それぞれ分布軸をもつ.また,Y6.0火山灰は東と南西に分布軸がある.

N1.0
 Y6.0とおよそ10cmの褐色レスを隔ててN1.0がある.この褐色レスの上面には顕著な浸食不整合がみられる場合が多い.間伏林道の地点62には,レスを介してN1.0/Y6.0間にはさまれる厚さ3〜4mのラハール堆積物がある.その主要な構成粒子はスコリアと火山砂であり,斜交葉理が発達する.
 N1.0は,葉理が発達した灰〜紫灰色の降下火山灰を主体とし,降下スコリアをはさむ.上部の火山灰にはシルト粒子が多くふくまれ,火山豆石が観察できるものもある.N1.0スコリアは,少なくとも島の南西部で4枚,南東部で2枚,北東部で3枚あるが,火山灰と細かな互層をなすものもあり,個々の降下ユニットの正確な認識と追跡は難しい.しかしながら,ほとんどの地点において,火山灰がN1.0の基底を占めている.図3にはN1.0テフラ全体の等層厚線図を示した.N1.0の厚さは今回記載したテフラ中で最大であり,東北東と西南西に分布軸をもつ.
 N1の噴火の際,島の南部で側噴火が生じて2つのスコリア丘(N1P1およびN1P2)が作られ,溶岩が流出して差木地の航路標識所付近に達したとされている(Nakamura, 1961, 1964;一色,1984a).航路標識所入口の地点45におけるN1.0の層序は,上位より火山灰(厚さ20cm)/スコリア(30cm)/火山灰(10cm)であり,スコリアの基底近くに付近の溶岩流からもたらされたとみられる多孔質の溶岩塊がふくまれる.このことから,この側噴火をN1.0噴火の初期の事件と考える.

N2.0
 N1.0とおよそ15cmの明褐色レスを隔ててN2.0がある.この明褐色レスは,厚さが厚いことと,特徴的な色調(中村(1972)によれば「できたてのバフン色」)から容易に識別でき,鍵層として有用である.
 N2.0は,葉理の発達した灰色〜紫灰色の降下火山灰であり,下半分には多数の降下スコリア薄層がはさまれる.上部の火山灰にはシルト粒子が多くふくまれ,火山豆石が観察できるものもある.図3に示したN2.0テフラ全体の等層厚線図から,東北東と南西に分布軸をもつことがわかる.

N3.0
 N2.0とおよそ2.5cmの褐色レスを隔ててN3.0がある.N3.0は,ぼんやりした葉理をもつ灰色〜紫灰色〜赤紫色の降下火山灰であり,島の南西部では基底に黒色火山砂の薄層がある.N3.0は東と南西に分布軸があり,とくに島の南西部で厚い.また,後述の波浮港マールとスリバチ火口付近でわずかな層厚増大がみられるようである.
 N3.0の最上部には白色の降下火山灰がはさまれており,このことがN3.0をよい鍵層としている.白色火山灰は,ほとんどの露頭で厚さ1cm程度のレンズ状をなす.厚さが島全体でほぼ一様なことと,組成が流紋岩質で黒雲母をふくむことから,白色火山灰の給源は伊豆大島以外にあると信じられている.後述するように,私たちはこの白色火山灰の起源を838年の神津島天上山噴火と考える.
 N3の噴火中に島の南東部で側噴火が生じ,波浮港マールとその北西のスリバチ火口が生じたとされている(Nakamura, 1961, 1964;一色,1984a).スリバチ火口直近の地点94では,スリバチ火口からの噴出物と考えられる厚さ200cm(下限不明)の赤色スパターが露出し,その上位をN2.0以上のテフラがおおう.その南東の地点46では,波浮港マールの爆発角礫岩がやはりN2.0以上のテフラにおおわれる.以上の両地点では,スパターおよび爆発角礫岩とN2.0との間にレスが認められないが,N2.0自体の保存が悪いため,N2.0時の噴火とは即断しかねる.地点47では,波浮港マールの爆発角礫岩がレスをはさんでN4.0以下のテフラをおおう関係が確認できる.以上の観察から,波浮港マールとスリバチ火口の噴火は,N3.2,N3.0,N2.0のいずれかの事件にともなうと考えられる.ここでは,中村と一色の観察にしたがって,N3.0噴火末期に波浮港マールとスリバチ火口を結ぶ割れ目噴火がおきたと考える.

N3.2
 N3.0とおよそ1cmの褐色レスを隔ててN3.2がある.このレス薄層は下位にあるN3.2スコリアの凹凸に富む上面をおおうため,レスの厚さを正確に計ることは難しい.保存の悪い露頭においてはN3.2スコリアの最上部が褐色を帯びていることだけが確認できる.
 N3.2は1枚の降下スコリアであり,南西と南東に分布軸をもち,島の南部にのみ分布する.
 間伏林道の地点82では,N3.2スコリア(厚さ20cm)の直上を赤色スパター(2m)がおおい,さらにその上位を褐色レス薄層(1cm)をはさんでN3.0火山灰(5cm)がおおう.この赤色スパターは,すでに川辺(1992)がN3層位の側火山として報告しているが,上述した層位からN3.2時の側火山と考えられる.
 上記の地点82に(側噴火による赤色スパターとは別の降下テフラとして)N3.2スコリアが存在すること,N3.2スコリアの2つの分布軸は島の中心から外側に向かうように見えることから,N3.2スコリアの供給源はカルデラ内に存在したと考えられる.カルデラ南西縁の地点97では,厚さ50cmのN3.0火山灰の下位に3cmのレスをはさんでスコリアの最大粒径(MS)=20cm,厚さ2mのN3.2スコリアがあり,地点97の北東側直近にN3.2スコリアを供給した火口があったことを予想させる.
 N3.2と同じく降下スコリアのみを放出した2つの噴火事件(Y1986およびY5.2)が,ともに割れ目噴火事件であったことから類推して,ここではN3.2スコリア放出事件も割れ目噴火事件と考え,地点82の側火山とその北西延長のカルデラ内火口をむすぶ噴火割れ目を推定した(図3).この噴火割れ目の走向は,伊豆大島における他の噴火割れ目と同様に北西-南東である.

N4.0
 N3.2とおよそ7cmの褐色レスを隔ててN4.0がある.N4.0は,葉理の発達する灰色〜紫灰色〜赤紫色の降下火山灰を主体とし,2枚の降下スコリア(スコリアLおよびM)をはさむ.スコリアMはN4.0のほぼ中位にあり,南南東に分布軸をもつ.スコリアLはN4.0の基底近くにあり,南東に分布軸をもつ.スコリアLはとくに粒径が大きく,外周道路より火口側に位置する多くの地点においてMS=10cmであり,スコリア礫の内部は高温酸化によって赤色を帯びている.なお,猿橋ほか(1993)は,スコリアLをN4M,後述のN4.4スコリアをN4Lと呼んで,N4Mの噴出中心を地点64付近と考えたが,スコリアLの噴火位置をあえてカルデラ外に考える証拠を私たちは得られなかった.
 N4.0火山灰の分布軸は北東および南西を向いており,島の南東部での厚さは薄い.このため島の南東部のN4.0はスコリアMおよびLが主体を占め,その層序は上位より火山灰薄層/スコリアM/葉理をもつ火山灰薄層/スコリアL/火山砂薄層である.
 なお,Nakamura (1961)は,差木地の航路標識所の北東1kmにある松の窪を囲む高まりをN4の側火山(N4P)と考え,一色(1984a)はこの側火山がすくなくともN3よりも古いことを確認した.しかし,私たちは,この側火山がN4.0もしくは後述のN4.2〜N4.8スコリアのいずれかに属すると考える証拠を得られなかった.

N4.2
 N4.0とおよそ1cmの褐色レス薄層を隔ててN4.2がある.N4.2は降下スコリアである.
 島の東部の外周道路ぞいの地点53に,レスをはさんでN4.0火山灰の下位,後述のN4.4スコリアの上位に,厚さ100cmのN4.2スコリアがある.下位のN4.4スコリアの最上部は粒径が細かいのに対し,N4.2スコリアには層準による粒径の変化がみられないため,N4.4とN4.2スコリアの区別は容易である.1986年C火口駐車場の地点1においても,レスをはさんでN4.0火山灰の下位,細礫サイズのN4.4スコリアの上位に,厚さ25cmのN4.2スコリアがある.
 N4.2スコリアは,カルデラ北縁付近と島の東部の限られた場所にのみ分布する.分布軸が鋭く東北東を向くことから,N4.2スコリアの噴出源はカルデラ底の北部にあるとみられる.前述したN3.2と同様の類推により,スコリア放出事件であるN4.2を割れ目噴火であったと考える.
 なお,島の南西部においても,レスをはさんでN4.0/N4.4間にスコリア薄層が分布する.このスコリアも層位から考えてN4.2噴火の産物と考えられるが,上述の東北東に分布軸をもつN4.2スコリアとの上下関係は不明である.

N4.4
 N4.2とおよそ2cmの褐色レスを隔ててN4.4がある.N4.4は降下スコリアである.北部をのぞく島のほぼ全域に分布し,とくに東〜南東部と南西部で厚く,東と南西に2つの分布軸がある.南西に分布軸をもつN4.4スコリアには上下方向の粒径の変化が見られないのに対し,東に分布軸をもつN4.4スコリアは上部で粒径が細かい.たとえば,島の東部の地点53にあるN4.4スコリア(厚さ60cm)の上部25cmは細礫である.また,島の南東部のN4.4スコリアには上方細粒化がみられ,地点63にあるN4.4スコリア(厚さ110cm)の下部30cmは赤色酸化した粗粒スコリア(MS=4cm)をふくむのに対し,上部はMS=1cmである.カルデラ北縁付近の地点1や地点59のN4.4スコリアは,とげの多いスコリア細礫のみからなる.
 元町の東南東の地点108においては,厚さ8cmのN4.2スコリアの下位にレスをはさんで厚さ10cmのN4.4スコリア細礫がある.このN4.4スコリアは,厚さ5m(下限不明)の赤色スパター(MS=20cm)を直接おおっている.Nakamura (1961)は,この赤色スパターを見望(みはらし)茶屋スコリアと呼び,付近にあるN4層位の側火山から供給されたと考えた.N4.4スコリアとの間にレスをはさまないことから,見望茶屋スコリアがN4.4噴火の産物であることがわかる.見望茶屋スコリアの上位をおおうN4.4スコリア細礫の厚さが付近のN4.4スコリアの厚さと調和的であることから,見望茶屋スコリアを供給した側噴火はN4.4噴火の初期に生じたと考えられる.
 カルデラ南西縁の地点96においては,南西に分布軸をもつN4.4スコリアを供給したとみられるスコリア丘の一部が露出している(図6).谷頭の大露頭に厚さ14m(MS=20cm)の成層した赤色スコリアが露出し,その上面から9mの層位に葉理をもつ厚さ15cmの火山灰がはさまれている.この赤色スコリアは,全面露頭となっている谷筋を南西方に向かって厚さと粒径を減じながら,少なくとも500m下流まで連続しているのが観察できる.地点96の赤色スコリア断面の北東端は鋭く削り取られており,そこをカルデラ内を埋めた堆積物と溶岩流がおおっている(図6).赤色スコリア内部を注意深く観察すると,カルデラの外側に向いて傾いている葉理や火山弾の底面が,赤色スコリア北東端の浸食面直近ではカルデラ内に向けて傾斜方向を変えていることに気づく.このことから,上記の浸食面はカルデラ内壁ではなく,赤色スコリアを供給したスコリア丘の火口内壁であったと考えられる.スコリア丘の北東半分はカルデラ内を埋めた堆積物中に埋没しているのだろう.
 一色(1984a)の地質図は,上述した地点96の赤色スコリアを,カルデラ形成以前の主火山体の一部としている.しかし,地点96の下流において赤色スコリアの下位にS2.0岩なだれ堆積物がみられること(図6),赤色スコリアは島の南西部に分布する厚いN4.4スコリアの火口近接相と考えて矛盾しないことから,この赤色スコリアはN4.4噴火の産物であると私たちは考える.
 なお,この地点96のスコリア丘断面を貫く幅20〜50cmの1枚の岩脈が観察できる.岩脈の上端はカルデラ内を埋めた堆積物におおわれている.Nakamura (1961)はこの岩脈がN4のスコリアを貫くとしているが,層位から考えてN4.4噴火時あるいはそれ以降の岩脈であろう.
 上述した見望茶屋付近の側火山とカルデラ南西縁のスコリア丘は,北西-南東方向の直線上にのる.前述したN3.2噴火割れ目と同様の考察にもとづいて,見望茶屋付近とカルデラ南西縁をむすぶN4.4噴火割れ目があったと考える.

N4.6
 N4.4とおよそ2cmの褐色レスを隔ててN4.6がある.N4.6も,N4.2およびN4.4と同じく,降下スコリアである.1986年C火口駐車場の地点1には,厚さ5cmのレスをはさんでN4.4スコリアの下位に,厚さ70cmのN4.6スコリアがある.このスコリアはMS=10cmと粗く,高温酸化して内部が赤色を帯びたスコリア礫をふくんでいる.同様の粗粒スコリアは,カルデラ北〜西縁付近の地点71や14にもある.Nakamura (1961)はこのスコリアを踊り茶屋スコリアと呼び,粗粒であることから給源をカルデラ底の北端付近に考えた.
 N4.6スコリアは,カルデラ底の北部から東方に分布軸をもつ.このこととスコリア放出事件であることから,カルデラ底北部にN4.6スコリアを供給した噴火割れ目を考える.
 なお,島の南西部においても,レスをはさんでN4.4と後述のN4.8との間にスコリア細礫の薄層が分布する.このスコリアも層位から考えてN4.6噴火の産物と考えられるが,上述した踊り茶屋スコリアとの上下関係は不明である.

N4.8
 N4.6とおよそ2cmの褐色レス薄層を隔ててN4.8がある.N4.8もN4.2〜N4.6と同じく,降下スコリアである.上下方向の粒径変化にとぼしく,島の東部の地点53における厚さは120cm,MS=2cmである.その分布と,スコリア放出事件であることから,カルデラの北東側における噴火割れ目とそこから東南東に伸びる分布軸を考える.
 なお,島の南西部においても,レスをはさんでN4.6と後述のS1.0との間にスコリア薄層が分布する.このスコリアも層位から考えてN4.8噴火の産物と考えられるが,上述したカルデラ北東側を起源とするN4.8スコリアとの上下関係は不明である.

S1.0
 N4.8とおよそ2cmの褐色ないし赤褐色のレス薄層を隔ててS1.0がある.このレスの上面には顕著な浸食不整合が発達する場合が多い.
 S1.0は,火山豆石を多く含む茶白色ないしクリーム色のカタを主体とする特徴的な降下テフラであり,島の南端と北端をのぞく広い範囲でよい鍵層として追跡できる.また,島の東部の限られた範囲にのみ基底に1枚の降下スコリア薄層がある.S1.0カタとスコリアは,それぞれ北東と東に分布軸をもつ.

S1.5
 S1.0とおよそ2cmの褐色レス薄層を隔ててS1.5がある.S1.5は,1枚の降下スコリア薄層とそれをおおう茶白色ないしクリーム色のカタであり,島の東部の限られた範囲にのみ分布する.カタおよびスコリアの両者とも東に分布軸をもつ.なお,S1.5は,一色(1984a)のS’のテフラに相当する.

S2.0
 S1.5とおよそ2cmの褐色レス薄層を隔ててS2.0がある.S2.0の層序は,上位より凝灰角礫岩/カタ/スコリアである.基底のS2.0スコリアは,島の南東部の保存のよい露頭でのみ確認できる1枚の降下スコリア薄層であり,地点87での厚さは2cmである.S2.0カタは,火山豆石を含む茶白色ないしクリーム色の降下テフラであり,場所によって細かな葉理が発達することがある.S2.0スコリアを直接おおって島の東〜南西部にのみ分布し,東と南西に分布軸をもつ.カルデラ東縁付近の地点64と,島の南西部の地点73や地点129などのS2.0カタ中には,巨礫サイズの異質岩塊とその着弾によってできたクレーター断面が観察できる.
 S2.0凝灰角礫岩の大部分は無層理塊状の流れ堆積物であり,淘汰のわるい茶白色火山灰基質に雑多な岩質の角礫が点在する岩相を示す.偏析パイプ(gas-segregation pipe)などの脱ガスにともなう組織や,炭化木・高温酸化などの堆積時高温の証拠はみられない.これらの特徴から,中村(1978)はこの無層理塊状の凝灰角礫岩を「低温火砕流」という言葉で表現した.伊豆大島火山博物館駐車場の地点24に露出する厚さ5m(下限不明)のS2.0凝灰角礫岩中には,成層火山灰や降下スコリアなどからなる直径1m程度のブロックが観察でき,岩なだれ堆積物に特有のパッチワーク構造と解釈できる.これらの岩相上の特徴から,私たちはこの流れ堆積物をGlicken and Nakamura (1990)と同様に山体崩壊にともなう岩なだれ(debris avalanche)堆積物と考える.なお,中村一明はすでに1986年11月の時点でこの流れを岩なだれと認識していたことを,彼が臨時委員として参加した第39回火山噴火予知連絡会の統一見解(1986年11月24日)からうかがい知ることができる.
 S2.0岩なだれ堆積物は1枚ではなく,カルデラ北西縁の地点23では葉理の発達する厚さ30cmのカタをはさんで厚さ80cm(上位)と250cm(下位)の2枚が観察できる.また,地点1近くのC3火口内壁にもカタをはさんだ2枚のS2.0岩なだれ堆積物が露出している.カルデラ東縁の地点64では,岩なだれ堆積物(厚さ2m)の直上を斜交葉理の発達する砂礫質のラハール(厚さ40cm)がおおい,さらにその直上を火山弾をふくむカタ(厚さ45cm)がおおう.
 Nakamura (1964)は,島の北西部と南東部にはS2の流れ堆積物が分布せず,爆発角礫岩のみが分布するとしている.しかしながら,島の北西・南東部に分布するS2.0凝灰角礫岩は,厚さ100cm以下と薄いことと,大礫サイズ以上の礫を含まないこと以外は,他の地域のS2.0岩なだれ堆積物と同じ特徴をもち,S2.0カタや他層準の爆発角礫岩にしばしばみられる平行葉理,火山豆石,火山弾の着弾クレーターなどの降下堆積物特有の特徴はみられない.よって,島の北西・南東部に分布するS2.0凝灰角礫岩も,岩なだれ堆積物と考えた方がよいだろう.
 S2の噴火の際,島の東部とカルデラ北西縁付近で側噴火が生じたことが知られている(Nakamura, 1961, 1964;一色,1984a).島の東部の外周道路の地点49には,60cm(下限不明)の赤色スパターが露出しており,その上位を火山豆石まじりの厚さ50cmのS2.0カタが直接おおう.S2.0カタとスパターの間にレスがはさまれないこと,S2.0カタの下面付近はスパターの熱によって高温酸化していることから,このスパターがS2.0噴火の産物であることがわかる.このスパターを供給した噴火割れ目は,中村や一色が推定した島の東部の噴火割れ目に違いない.川辺(1992)は,この噴火割れ目の北西延長上にあたる蜂の尻採石場の地点114に露出する厚さ5mの赤色スパターをS2層位と考えた.このスパターはS2.0岩なだれ堆積物に直接おおわれる部分もあるが,注意深く観察すると両者の関係は不整合であり,両者の間に少なくとも2枚の降下火山灰(厚さ20〜30cm)とその上下のレスが確認できる.よって,地点114のスパターはS2.0層位より古い.
 中村と一色がS2側噴火割れ目を推定したカルデラ北西縁付近の地点122には,厚さ2m(下限不明)のアア溶岩が露出し,S2.0岩なだれ堆積物に直接おおわれている.また,一色(1984a)と川辺(1992)は元町の東方でS2側火山の存在を報告しており,地点121ではS2.0岩なだれ堆積物に直接おおわれる厚さ2m(下限不明)の赤色スパターが観察できる.さらに,川辺(1992)がS2層位の側火山を報告した間伏林道の地点30では,厚さ1.5mのS2.0岩なだれ堆積物が厚さ4m(下限不明)の赤色スパターを直接おおっている.以上の観察にもとづいて,これらの側火山をS2.0層位と考える(図3).

IV.カルデラ形成の層位とメカニズム

 Nakamura (1960, 1964)と一色(1984a)は,N4以降の地層の傾きがカルデラ内壁の地形と調和的なのに対し,S2以前の地層がカルデラ内壁に切られる観察事実から,S2〜S1の時期に現在みられるカルデラが形成されたとした.カルデラ北西縁の地点23に露出する2枚のS2.0岩なだれ堆積物は,カルデラの外側に向かって傾き下がり,その山側延長はカルデラ内壁によって切られている.よって,すくなくともこの地点でのカルデラ内壁形成がS2.0岩なだれ以後におきたことがわかる.
 Nakamura (1964)は,(1)側火道からのマグマ流出によって主火道内のマグマ頭位が低下し,(2)そのため主火道内に地下水が流入して水蒸気マグマ噴火を引き起こし,(3)それによって主火道付近の力学的強度が弱められたことがカルデラ陥没に有利な状況を作った,と考えた.そして,このような水蒸気マグマ噴火が生じたS2およびS1の2回の噴火時にカルデラ陥没が生じたと考えた.しかし,総計で3.1km3と推定した大きな陥没量に見合うだけの火山下のスペースがどのように準備されたかは不明としている.ここで注目すべきは,Nakamura (1964)はカルデラが陥没によって形成したことを直接示す地質学的証拠を呈示しているわけではないことである.
 私たちは,現在みられる伊豆大島火山のカルデラが,主としてS2.0噴火時の山体崩壊によってできた馬蹄形崩壊谷であると考える.その根拠を以下に述べる.
 (1)S2.0,S1.5,S1.0の各噴火は,テフラ噴出量が他の噴火と比べてとくに大きいわけではない(表2,図5).また,S1.0とS1.5噴火にともなう側噴火は知られておらず,S2.0側噴火の噴出量もとくに大きいとは言えない.また,水蒸気マグマ噴火は地表付近の水とマグマが作用して引き起こされる爆発現象であるから,水蒸気マグマ噴火が起きたからと言って,マグマ溜りから地表へのマグマ供給率がとくに大きかったと考える必然性はない.よって,S2.0からS1.0までの3噴火が,他の噴火と比べてとくに大きい(あるいは急激な)マグマ溜り内圧の減少をもたらしたとは考えにくい.
 (2)上述のように,S2.0噴火の際には少なくとも2回の岩なだれが島の北西斜面に流下している.また,S2.0岩なだれ堆積物は島のほぼ全域に分布する.1回の崩壊で島の全方向に岩なだれを流すことは不可能であるから,北西斜面を流下した2回のほかに,さらに1度か2度は違う方向への崩壊がおきているはずである.地形からみると,伊豆大島のカルデラは北東に開いており,北東への山体崩壊と岩なだれ流下にともなう馬蹄形崩壊谷と考えて不思議はない.崩壊によって島の高所にできた崩壊地形は,次の崩壊によって崩される場合が多いだろうから,現在のカルデラ縁は最後におきた崩壊(北東へ)による地形のみを反映している可能性がつよい.以上のように,カルデラ形成の主因を山体崩壊と考えれば,大きな陥没量を説明するための困難は解消する.
 (3)一色ほか(1963)は,カルデラ北縁の地点14付近のカルデラ内壁下およびその南方400mのカルデラ底における掘削結果から,付近のカルデラ埋積物底面の深度を110〜150m(海抜310〜340m)と推定している.馬蹄形崩壊谷の考え方にもとづけば,カルデラをとりまくS2.0より古い火山体のどこかに,この海抜より低い部分がなければならない.島の北東部の地点115と53の間には,幅500mのY3.0溶岩流が海岸まで流れ下った谷がある.その谷中に露出する古い火山体の最高所の海抜は240mであり,地点14付近のカルデラ底海抜より低い.
 (4)伊豆大島の重力異常図(駒沢・曽屋,1989;安藤ほか,1991)によれば,伊豆大島のカルデラ底は正のブーゲー異常の領域となっており,カルデラ底を満たした高密度の溶岩によるものと考えられている.カルデラ縁が地形として確認できる北西〜西縁と南東縁には明瞭なブーゲー異常の急変線がみられるが,カルデラの北東側にはそのような特徴はみられない.このことは,カルデラが地下においても北東側に開いた形をしていることを意味しており,馬蹄形崩壊谷の考えと調和的である.
 上述したように,S2.0岩なだれの発生直前に島の広い範囲にわたる4ヶ所で側噴火がおきている(図3).S2.0以外の各噴火における側噴火がいずれも1ヶ所以内であることを考えれば,S2.0時の側噴火数は異例に多いと言えるだろう.広範囲での複数回の側噴火が暗示する当時の火山体内部への大量のマグマ貫入が山体強度を低下させ,山体崩壊と岩なだれ発生を引きおこしたのではないだろうか.
 カルデラ南東縁付近の地点77では,S2.0岩なだれ堆積物の下位に厚さ11.5mのテフラ/レス断面がみられ,カルデラ形成前の24枚のテフラが観察できる.S2.0の基底から9.3m下の層位には,無層理塊状の雑多な岩質の岩片をふくむ凝灰角礫岩(厚さ50cm)があり,S2.0と同様の岩なだれ堆積物と考えられる.また,田沢(1980,1984,1991)は,島の南西部においてカルデラ形成前のO41メンバー中にS2.0層位と同様の凝灰角礫岩の存在を報告している.地点77の断面には不整合があるため,地点77の岩なだれ堆積物が田沢の言うO41の層位にあるかどうかはわからない.しかし,S2.0以前にも少なくとも1度,岩なだれの発生と馬蹄形崩壊谷の形成があったことはほぼ間違いない.

V.噴火年代

 1)レスクロノメトリーによる噴火年代
 第2節で述べたように,伊豆大島のテフラ間にはさまれる褐色ロームはレスであると考えられる.レスの厚さは噴火休止期の長さに比例すると期待されるから,レスの堆積速度を一定と仮定してテフラの噴火年代を推定するレスクロノメトリーの手法(早川,1995)が適用できる.
 表1には,各テフラ間にはさまれるレスの厚さの実測データがまとめてある.各レスの厚さは,中央値付近にピークをもつユニモーダルな分布を示すものが多い.ただし,歪度の多くが正の値を示し(つまり,厚い側に分布の裾を引き),平均値は中央値よりやや大きい.このことは,層厚の薄い側が0を下限とするのに対し,厚い側には上限がないために生じたみかけ上の歪みと考えられる.よって,ここでは中央値を各レスの厚さを代表する値として扱う.
 後述するように歴史記録との対比から,Y1.0が1777年,Y2.0が1684年,N3.0が838年の事件と考えられるため,これら3点と地表(またはY1986の基底)の計4点を基準点とし,そこからの内挿あるいは外挿によってレスクロノメトリー年代をもとめた(表2).なお,Y1.0やY2.0の噴火終了年(ここでは,テフラ堆積の終了年)を正確に求めることは困難なので,ここでは噴火開始年を噴火年代として扱う.
 地表(またはY1986の基底)とY1.0との間には19cmのレスがあり,地表を1986年と考えると,その堆積速度は9.1cm/yである.この堆積速度を一定とした内挿によってY0.8の噴火年代1821年を得る.Y1.0/Y2.0間には10cmのレスがあり,その堆積速度は10.7cm/yである.Y2.0/N3.0間には合計67.5cmのレスがあり,その堆積速度12.5cm/yを一定と仮定した内挿により,Y2.0/N3.0間にある各テフラの噴火年代を計算した(表2).
 この計算にあたっては,まずテフラ間のレス層厚データの豊富なY3.0,Y4.0,Y5.0,Y6.0,N1.0,N2.0のそれぞれの年代を求め,その後たとえばY3.0/Y4.0間の内挿によってY3.8の年代を求めるというやり方で,分布が限られるためにレス層厚データのすくないY3.8,Y4.2,Y5.2の各年代を求めた.
 N3.0より下位にある各テフラの年代は,Y2.0/N3.0間の堆積速度を外挿することによって求めた.その際も,分布の限られたN3.2とS1.5の年代については,Y3.8と同じやり方で上下のテフラ年代から内挿によって求めた.

 2)文字史料の吟味と対比
 伊豆大島の噴火を記述した文字史料は多く,噴火年代決定の決め手となるものもある.史料中の伊豆大島の噴火記述は,中村(1915),大森(1915,1918),武者(1941,1943),一色(1984b),村山(1989)などにまとめられているが,いずれも史料の成立年や性格などの素性をほとんど問うことなく,噴火記述をそのまま事実として扱っている点で問題がある.また,誤植や西暦換算の誤りなども少なくない.さらに,私たちは,これらのいずれにも記載のない若干の噴火史料の存在を知るに至っている.史料に記述された伊豆大島(および近隣地域)の主要な噴火(あるいは噴火に関係すると思われる天変地異事件)を表3にまとめた.
 本来なら,これらすべての史料に科学的妥当性の検討をふくむ史料批判をくわえ,信頼性の判定をおこなった上で取捨選択することが望ましい.しかし,その作業は未完成であり,かつ史料批判に多くの紙数を費やすことは,堆積物として残る中〜大規模噴火だけをあつかう本論の目的からやや外れてしまう.よって,本論では,現時点でわかっている史料の素性や信頼性の概要を述べた上で,堆積物層序との対比をこころみた.
 一般に,16世紀以前の日本の歴史史料の欠落は甚だしいから,堆積物に残るすべての噴火が史料記述として残っているとは言えない.よって,私たちは,古代〜中世の具体的な噴火記事の内容が堆積物から得られた情報と一致しない限り,確実な対比はできないとする立場をとった.なお,旧暦から新暦への換算は内田(1992)にもとづいた.

Y0.8
 レスクロノメトリー年代が1821年であること,明治以降に島全体に降灰をもたらした噴火が知られていないことから,Y0.8はY1.0後の江戸時代後半に起きたと思われる.1876年以来の三原山火口の地形発達史をまとめたTsuya et al.(1956)は,長い休止期間に出現するはずの三原山火口内の縦穴火孔が1876年当時に存在しなかったことから,その時点からそう遠くない過去に比較的大きな噴火があったと推定した.
 Y1.0後の江戸時代後半には,1822〜24年や1837〜38年などの噴火記述をふくむいくつかの史料が知られているが,刊本がなく入手困難なもの,素性や出所が不明なものが多く,二次史料も多い.現時点で,これらの記述のいずれかをY0.8に対応させるのは困難である.

Y1.0
 安永六年七月二十九日(1777年8月31日)から2〜3年間にわたって規模の大きい噴火があったことが,『大島山火記』(別名『伊豆大島山焼事実』)を代表とする多数の古記録・古文書からわかる.これらの史料は,直接体験や体験者からの伝聞にもとづいて書かれたものが多く,信頼できる.史料記述および噴火後の島全体の絵図(中村,1915,p.56)に描かれた溶岩流分布が,Y1.0噴火堆積物の内容や分布とよく一致することから,Nakamura (1964) や一色(1984a)の指摘通り,この噴火がY1.0にあたることは間違いない.

Y2.0
 天和四(貞享元)年三月二十九日(1684年2月14日)からすくなくとも翌年まで規模の大きい噴火があったことが,多数の古記録・古文書からわかる.これらの史料には,上述の安永噴火に関連して成立した史料中に付記された二次史料が多いが,1684年当時に噴火を直接伝聞して書いたと思われる『熱海名主代々手控』,『江戸幕府日記』,『甘露叢』もあり,ある程度信頼できる.これらの史料中には,溶岩が海岸に達して広がったこと,厚い降灰があったことが記されている.この噴火以後1777年まで,伊豆大島の噴火記録はほとんどみられない(『続史愚抄』には『資廉卿御記』からの引用として「伊豆大嶋焼出.所見一里可云」という1695年の簡単な伝聞記録があるが,他の史料中にないことから噴火の存在そのものが疑わしい).江戸幕府による中央集権体制が確立した17世紀後半以降に大きな噴火があれば,まず間違いなく記録に残ったと思われる.Y2.0が堆積物として残る降下テフラをともなうこと,東海岸に達した溶岩流があることから考えて,Nakamura (1964)や一色(1984a)が考えたように,1684年に始まる噴火がY2.0と考えて間違いないだろう.

Y3.0〜Y5.6
 元町の薬師堂に納められていた木札には,体験あるいは直接の伝聞にもとづいて書かれたと思われる1552年の激しい噴火の様子が記されている(一色,1984b).大島郷土資料館でこの木札の実物を見ることができる.Nakamura (1960, 1964)は,この記述中の「江津ニ嶋ヲ焼出給江津ノ池即チ嶋トナル」にもとづいて,溶岩流が海に達したY3の噴火と考えた.しかし,「嶋ヲ焼出」を溶岩流の海中への流入と解釈するのは妙な感じを受ける.また,「江津ノ池即チ嶋トナル」の意味がわからない.なお,「江津」が現在のどこにあたるかは定かでない.
 Y3.0のレスクロノメトリー年代は1596年であり,1552年に近い.1552年噴火を史料記述通りに受けとれば,側噴火によって沖合海底に新島が誕生したとみる方が自然である.1983年三宅島噴火で生じた新鼻タフリングが,後に高波で浸食されたように,一時的にどこかの海面上にタフリングが顔を出したとしてもおかしくない.沖合にできたタフリング島は火口内に水をたたえ,古人をしてそれを「池即チ嶋」と表現させたと考えることもできよう.しかしながら,Y3.0時に側噴火がおきた地質学的証拠は見つかっていないから,1552年噴火がY3.0にあたるかどうかは疑問である.1552年以降にもいくつかの噴火記事があるから,それらのいずれかがY3.0にあたることもあり得る.
 『鎌倉大日記』など多数の史料に応永二十二年(1415)〜二十八年(1421)の期間の噴火記述がある.これらの史料のほとんどは二次史料と考えられる編纂物であり,原史料を今のところ特定できない.これらのうち,噴火の年月日を応永二十二年四月四日,同二十八年四月四日のいずれかとする史料には,「海水が沸き多くの魚が死んだ」という共通した内容が含まれる.類似した内容で月日も同じ史料があること自体,伝聞や筆写による誤りの存在が疑われる.Nakamura (1960, 1964)は,この海水が沸き魚が死んだという記述を,Y4の噴火時におきたイマサキ沖の水蒸気マグマ噴火と解釈した.イマサキ沖の水蒸気マグマ噴火が生じたY4.0のレスクロノメトリー年代は1446年であり,上記の一連の史料に記述された噴火年と近いから,上記史料はY4.0を記述したものかもしれないが,確かなことはわからない.
 延元三年(1338)に降灰の激しい噴火があったことが,当時鎌倉付近に在住していた禅僧,竺仙梵僊の著した『竺仙和尚語録』(『竺仙録』)中の伝聞記事として知られる.Y5の下位のレス中から鎌倉時代後半の陶磁器片が出土したことから,Nakamura (1960, 1964)と一色(1984a)は,1338年噴火記事をY5の噴火にあたると考えた.しかし,1338年記事には降灰以外の具体的な記載がないから,この対比には疑問が残る.レスクロノメトリー年代から考えてY5.2やY5.0などが対比候補であろうが,それ以外の小規模な噴火かもしれない.

Y6.0〜N1.0
 1338年以前の史料には,後述する信頼性の乏しいわずかな史料を除いて,噴火場所が伊豆大島と明記されているものは知られていない.
 天永三年(1112)に京都で東から鳴響が聞こえた後,伊豆国の海上に異常があったという報告が届いたことが,当時の公卿の日記である『中右記』と『殿暦』に書かれている.Nakamura (1960, 1964)は,この記事をN1の噴火にあたると考えた.しかし,「伊豆国の海上」というだけで場所が特定されておらず,具体的な噴火の記載もないから,N1.0のほかにY6.0,あるいは他の島や海底火山の噴火と考えることも可能である.
 なお,『富士山噴火年代記』には,1112年に伊豆大島が噴火したという記述がある.しかし,この史料は信憑性に問題のある「宮下文書」中の一史料であり,偽作かあるいは口碑伝承にもとづくものと考えられるため(小山,1993),その内容を鵜呑みにできない.

N2.0〜N3.0
 N3.0,および2.5cmのレス薄層をはさんでN3.0の上位をおおうN2.0の噴火年代推定の鍵は,N3.0の上部に含まれる外来の白色火山灰である.この白色火山灰は,これまで神津島838年あるいは新島886年噴火の産物と考えられてきた(Nakamura, 1964).まず,この両噴火の年代を再考する.
 当時の朝廷が編纂した正史のひとつである『続日本後紀』には,承和五年(838)七月に京都で東方からの鳴響や降灰があったこと,それに続いて中部・近畿・北陸・関東地方の広い範囲から降灰の報告がもたらされたことが記されている.そして,伊豆国からこの時「上津島」が噴火したとの報告が届いた.上津島が神津島の旧名であることは,この伊豆国報告に出てくる「阿波神」と「物忌奈乃命」を祭る2つの神社が現在も神津島にあることから,ほぼ間違いない.
 大島のN3.0に含まれるものと類似した流紋岩質の白色火山灰が,伊豆半島,利島,新島,式根島,三宅島で観察でき(杉原,1984),静岡市付近でも泥炭層中に1mm程度の薄層として発見された(矢田,1994)(図1).このような白色火山灰の分布は,上述した史料中の838年降灰の分布と矛盾しない.さらに,伊豆半島の丹那盆地で発見された白色火山灰が承和八年(841)の伊豆国地震にあたると考えられている丹那断層の変位で切断されていること(丹那断層発掘調査研究グループ,1983)から考えて,この白色火山灰が838年の神津島噴火によってもたらされたと考えるのが自然である.神津島の最上位を占める天上山噴火堆積物中の炭化木から1230±80,1260±80,1560±120,1950±110 y.B.P.の4つの14C年代が得られたことから,この白色火山灰は天上山テフラにあたるとされている(一色,1982).また,N3.0のスリバチ火口起源のスパター中の炭化木から,1130±90 y.B.P.の14C年代が得られている(一色,1984a).Stuiver and Pearson (1993)によれば,790〜870年の14C年代はほとんど変動がなく,1200〜1220 y.B.P.である.
 一方,当時の朝廷編纂の正史のひとつ『日本三代実録』によれば,仁和二年(886)五月に安房国の沖合に黒雲が上がって降灰による動植物の被害があり,その2日後に京都で東南から鳴響が聞こえた.しかし,安房国以外からの降灰・鳴響の報告は届いていない.朝廷編纂による正史は『日本三代実録』をもって絶えたため,仁和三年八月以降の公撰の正史は存在せず,これ以後の平安時代の天変地異記録は私選国史や公卿の日記に残された断片的なものだけとなり,情報量は激減する.仁和三年(887)十一月,私選国史である『扶桑略記』と『日本紀略』によれば,伊豆国が「新生島」の図を朝廷に献上したとある.その図中には,火を放つ山として「銀岳」が描かれていた.この報告を上述の886年の安房国降灰と結びつけて「新生島」を新島,「銀岳」を向山と解釈し,層序学的に最上位にある新島向山テフラ中の炭化木の14C年代(1120±75 y.B.P.)も考慮して,886年に新島向山が噴火したという考えが現在の通説となっている(一色,1987).なお,Stuiver and Pearson (1993)によれば,880〜900年は,14C年代が1190 y.B.P.から1120 y.B.P.へ大きく変化していた時代である.
 この通説に対し,私たちは886年の安房国降灰を必ずしも新島向山噴火と考える必要はなく,N2.0あるいは新島阿土山の噴火にあたる可能性も十分あると考える.その理由は以下の通りである.
(1)上記史料中の伊豆国報告には,伊豆国が「新生島」の図を献上したとあるのみで,噴火年についての記載はない.また,「新生島」を新島の旧名と考える確かな文献史学的証拠は知られていない.
(2)新島におけるテフラ/レス層序は,上位より向山テフラ/レス2cm/阿土山テフラ/レス1cm/神津島天上山テフラ(赤崎峰富士見峠)である(吉田 浩,私信).つまり,838年の神津島天上山噴火の後,まもなく阿土山噴火(火砕サージおよび溶岩ドーム),少しおいて向山噴火(同上)がおきた.史料との対比を考える際には,阿土山噴火も考慮に入れなければならない.
(3)838年と886年の間には,伊豆七島でおきた疑いのあるいくつかの天変地異事件の記録が,朝廷編纂の正史に残っている.それらは,斉衡三年(856)八月の安房国降灰事件(『日本文徳天皇実録』),天安元年(857)七月に京都で東南から鳴響が聞こえた事件(同上史料),貞観四年(862)三月と元慶四年(880)二月に京都で東から鳴響が聞こえた事件(いずれも『日本三代実録』)である.887年以後1112年までの間は,伊豆七島に関連するとみられる天変地異記録は知られていない.ただし,上述したように887年以降の史料情報量は激減するから,記録が欠落している可能性も十分ある.
(4)N2.0のレスクロノメトリー年代は869年であるから,9世紀の史料との対比を考える上で考慮から外せない.N3.0は北東に分布軸をもたないのに対し,N2.0は北東に分布軸をもっているから(図3),安房国に降灰することが可能と思われる.
 結局,現時点ではN2.0,新島阿土山,新島向山の噴火が,それぞれどの事件に対応するのか(あるいは対応しないのか)を確定するには情報が不足している.神津島天上山テフラと新島向山テフラの岩石学的性質はほぼ同じであり,それによる両者の区別は困難である(杉原,1984).

N3.2〜S2.0
 838年以前の噴火史料はごく限られている.朝廷編纂の正史『日本後紀』の逸文として,天長九年(832)に「伊古奈比メ神」が深い谷を埋め,高岩を砕き,平地を作ったという伊豆国からの報告が知られている(この逸文は,13世紀に成立した『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』に引用されている).大森(1918)はこの記述を神津島の噴火に関連するものと考えた.しかし,「伊古奈比メ神」は現在の伊豆半島下田にある白浜神社の祭神であるため,この記載が神津島の事件だという証拠はなく,事件の正確な年月日も定かでない.また,この記事内容では噴火と断言できず,単なる土砂災害かもしれない.
 『伊豆国三嶋神社神主家系図』には,慶雲元年(704年)に大島が焼けたとの記述がある.また,同史料には大化五年(649)に伊豆国の大海中の興嶋が焼出したとの記述もみられる(興嶋がどの島をさすかは不明).しかし,この史料は慶長十年(1605)頃成立と考えられる後世のものであるから(静岡県,1989),その内容を鵜呑みにできない.
 朝廷編纂の正史『日本書紀』には,天武天皇十三年(684)十月に飛鳥で東から鼓のような鳴響が聞こえたとあり,その音に関して「伊豆嶋の西北の二面が自然に増え,また一つの島となった,鼓の音は神が島を作る音だ」という伝聞記事が載せられている.また,天武天皇九年(680)にも,飛鳥で東から鳴響が聞こえたとある.大森(1915)は,この両記事を伊豆大島の噴火によるものと考えた.また,Nakamura (1964)は,伊豆嶋の西北の二面を増やしたのは,S2.0の岩なだれかもしれないと考えた.しかしながら,「伊豆嶋」がどこの島をさすかは,(文献史学的に)まだわかっていない.
 一色(1984a)によれば,S2またはS1の上部を占めるレス中から平安時代初頭と考えられる陶磁器や土器が見つかったという.また,S2.0については,カルデラ北縁の側噴火スパター直下の炭化木から1460±85 y.B.P.,岩なだれ堆積物中の木片から1500±160,1350±100,1330±90 y.B.P.という14C年代がそれぞれ得られている(一色,1984a).これらの値に対応する暦年はそれぞれ590,670,680年頃である(Stuiver and Pearson, 1993).一方,S2.0のレスクロノメトリー年代は550年である.

VI.議論

浸食不整合の成因
 N1.0とS1.0のそれぞれの上面に顕著な浸食不整合が発達する場合が多いことをすでに述べた.Nakamura (1960, 1964)は,この2つの不整合を境界として湯場層(Y1〜Y6),野増層(N1〜N4),差木地層(S1〜S2)を区分したが,不整合は必ずしも長い時間間隙を意味しないとも考えていた.Y6.0/N1.0間およびN4.8/S1.0間のレス層厚が他と比べてとくに厚くないこと(表1)は,中村の考えを支持する.
 S1.0は固結のよいカタが主体をしめ,N1.0最上部にもカタが発達する.これらのカタが不透水層となって山体斜面のガリー形成をうながしたことが,顕著な不整合の形成をもたらしたのだろう.また,N1.0の噴出量はとびぬけて大きく,この噴火による厚いテフラが島全体をおおい,浸食に対する不安定さが増したことも,N1.0上面の不整合発達をうながしただろう.地点62のY6.0/N1.0間にみられる厚いラハール堆積物(前述)は,この考えを支持する.

伊豆大島における噴火の類型
 第3節の各テフラの記載や図3〜5から,伊豆大島のカルデラ外斜面にテフラを地層として残す中〜大規模噴火には,次の3つの類型があることがわかる(表2).
1)降下スコリアおよび降下火山灰の両方をともなう噴火:Y1.0,Y2.0,Y3.0,Y4.0,Y5.0,Y6.0,N1.0,N2.0,N4.0,S1.0,S1.5,S2.0の12噴火.
2)降下スコリアだけをともなう噴火:Y1986,Y5.2,N3.2,N4.2,N4.4,N4.6,N4.8の7噴火.
3)降下火山灰だけをともなう噴火:Y0.8,Y3.8,Y4.2,Y5.6,N3.0の5噴火.
 一般に,類型1の噴火の噴出量は大きく,噴火マグニチュードM(早川,1993)が4.0以上のものが多いが,S1.5(M3.2)やY3.0(M3.7)など小さいものもある.また,一般に類型2および3の噴火のMは3.6以下であるが,N4.4のMは4.0と大きい.いずれの類型の噴火においてもカルデラ外での側噴火がおきることがある.
 カルデラ内における溶岩流出は,Y1.0,Y2.0,Y3.0,Y4.0の4噴火のみで確認されている.しかし,Y4.2以前の各噴火におけるカルデラ内溶岩流出の有無については,その後カルデラ内を埋積した堆積物のために確認することが困難である.
 第2節で述べたように,Nakamura (1964)は,Y1〜S2の12メンバーの噴火すべての基底近くに降下スコリア(基底スコリア)放出事件があり,その後火山灰期が訪れるという噴火サイクルを提唱した.しかし,類型2〜3の噴火の存在によって,中村の噴火サイクルには例外があることがわかった.また,個々の類型1噴火中の降下スコリアの層位に注目すると,Y1.0,Y2.0,Y3.0,Y4.0,Y6.0,N4.0,S1.0,S1.5,S2.0の各噴火においては,基底近くに規模の大きい1枚の降下スコリアがある.しかしながら,Y6.0やN4.0は中位にも厚い降下スコリアがある.N1.0中には数多くの降下スコリアがあるが,基底付近に集中しない.Nakamura (1964)の噴火サイクルが厳密に成り立っている噴火は,Y1.0,Y2.0,Y3.0,Y4.0,S1.0,S1.5,S2.0の7噴火のみである.

噴火位置の変遷
 図3に噴火位置の変遷を示した.カルデラ内火口の推定位置については,テフラの等層厚線楕円のひとつの焦点付近が火口となるように描いた.Y1986からN2.0までの各噴火のカルデラ内火口は,すべて現在の三原山火口のあるカルデラ南部にある.これに対し,N3.0以前の火口は必ずしもカルデラ南部になく,N3.0,N4.2,N4.6,S1.0,S1.5,S2.0の各噴火はカルデラ中部から北部に火口位置が推定される.側噴火の位置については,島の北西もしくは南東斜面の場合が多いが,N4.8とS2.0ではカルデラの北東〜東側で側噴火が起きた点が注目される.

噴出量階段図
 Nakamura (1964)は,伊豆大島火山の各噴火の年代と噴出量から時間―積算噴出量図(噴出量階段図)を描いた.しかしながら,カルデラ内に埋没している溶岩流の量(Y4.2以前については溶岩流の存在そのもの)を知ることは困難である.Nakamura (1964)は,カルデラ内を埋積した溶岩量の推定をおこなったが,総計として得た大きな溶岩量をY3〜S2の各噴火に機械的に等分配しており,Y3以前の各噴火の噴出量を正確に求めたとは言いがたい.さらに,割れ目噴火においては,地下にマグマ貫入が生じる.地表近くでのマグマ貫入事件は,マグマ溜り内のマグマが消費されるという点で噴火と同等であるから,火山学的に意味のある噴出量階段図を描くためにはマグマ貫入量も考慮に入れなければならない(小山・吉田,1994).実際にハワイのキラウエア火山では,精密な観測データにもとづいて貫入量も考慮した階段図が描かれている(たとえば,Dvorak and Dzurisin, 1993).しかしながら,機器観測データのない歴史時代の噴火におけるマグマ貫入事件(とくに,1986年B火口割れ目噴火のようにカルデラ内で生じたもの)の有無や規模の推定は困難である.
 以上の問題点をふまえ,本論ではカルデラ外に地層として残るテフラの等層厚線図(図3)から計算されるテフラ噴出量のみの階段図を描いた(図7).Nakamura (1964)も類似した試みをしているが,中村の計算した噴出量にレス分が含まれていることは,第2節で指摘した通りである.
 図7には側噴火によるスコリア丘や溶岩流の噴出量を加えていない.なぜなら,側噴火はたまたま地表にマグマが達した貫入事件であり,側噴火をともなわない貫入事件もあり得ると考えるからである.マグマが偶然地表に達した場合だけ,その分を各噴火の噴出量総計に加えると,データの統一性がうしなわれる恐れがある.ただし,Y5.2とN4.8の側噴火のMはそれぞれ3.1と3.4であり,他の側噴火と比べてきわめて大きく,噴火位置も他のカルデラ内火口から著しく隔たっていない(図3から考えて,Y5.2側噴火割れ目の南西端がカルデラ内にまで伸びていた可能性は十分ある).よって,Y5.2とN4.8の側噴火については,本質的にはカルデラ内噴火の範疇に入ると考え,その噴出量を図7に加えた(ただし,その量は小さいので,除いたとしても階段図の形にほとんど変化はない).
 このようにして描いた図7は,カルデラ内を起源とする規模の大きい噴火のテフラ噴出量だけを積算したものと考えてよく,カルデラ底を埋積した溶岩量や,貫入事件で消費されたマグマ量をふくんでいない.それにもかかわらず,図7からは,以下に述べる噴出率の時間的一様性や,類型1の噴火に対する噴出量予測性を読みとることができる.このような規則性がたまたま偶然にあらわれたとは考えにくいから,図7のテフラ噴出量階段図は,各噴火(+貫入事件)に絡んだマグマ総量のある程度の目安となっていると考えて議論を進める.
 図7からは,まず平均噴出率の一様性とその変化を読みとることができる.S2.0〜N1.0およびN1.0〜現在の期間の平均テフラ噴出率はほぼ一定であり,それぞれ92kg/s,25kg/sである.この平均噴出率は,N1.0という大規模な噴火を境として変化したように見える.
 このような噴出量階段図の傾きの不連続変化の原因として,地下深部からのマグマ供給率の変化,あるいはマグマ供給系の構造の変化が考えられている(小山・吉田,1994).川辺(1991)によれば,S2.0は地下深部からK2Oに富む未分化なマグマが供給された時期にあたるが,N1.0を境としたマグマ組成上の変化は知られていない.よって,N1.0頃の平均噴出率の変化は,化学成分の変化にあらわれない長期的なマグマ供給率の変化,あるいはマグマ供給系の構造変化が原因と考えられる.
 噴火の類型の視点から図7を見ると,N1.0の前後共に類型1に分類される噴火の終了点がほぼ直線上にのっている,つまり類型1の噴火については噴出量予測型(小山・吉田,1994)になっていることに気づく.類型2および3の噴火開始・終了点の大部分は,この噴出量予測直線から下方に外れる.このことは,すでに小山・吉田(1994)が指摘したように,伊豆大島の中〜大規模噴火が噴出量予測性をもつ類型1の噴火と,その予測性をもたない類型2または3の噴火に分類できることを示している.類型の異なる噴火になぜ予測性の差が生じるのかは,今はわからない.

1986年噴火の歴史的意義と将来予測
 本論文の冒頭に述べた問題,伊豆大島噴火史上における1986年噴火の意義を考える.溶岩流や側噴火をふくめた総噴出量を考えた場合の1986年噴火(Y1986)のMは3.8であるが,他の噴火と同条件で比べるために,表2と図7にはカルデラ内に起源をもつ1986年テフラ(ほとんどがB火口スコリア)の噴出量(M2.9)だけを示した.
 上述したように,Y1986は類型2の噴火である.Y1986と同じ降下スコリアのみの噴火は,N4.8以降N5.2まで6回生じ,それらのMは3.1〜4.0の範囲内にある.このうちのN4.8,N4.4,N3.2,Y5.2には,Y1986と同様カルデラ外の割れ目噴火がともなっている.以上のことから,Y1986は,噴出量がやや小さいことのほかには,これまで6回繰り返されてきた類型2の噴火ととくに異なる点はなく,特殊な噴火と考える理由はない.
 将来の噴火を考えよう.これまで6回起きた類型2の噴火後,ふたたび類型2や3の噴火が起きることはあっても,やがては例外なく類型1の噴火が生じて噴出量予測性が回復してきた(図7).今回もそうなると考えるのが自然である.時間予測性がないために次の噴火がいつ生じるかを決めることはできないが,現時点からそう遠くない将来にもし類型1の噴火が生じた場合,図7から考えてそのテフラ噴出量は2×10の11乗 kg(M4.3)クラスとなることはほぼ間違いない.
 小山・吉田(1994)によれば,噴出量予測性は噴火終了条件がいつも同じである場合に現出する.この意味で,現時点の状態は類型1の噴火終了状態とは異なる条件が満たされていると考えられる.現時点の火山体やマグマの物理・化学状態をよくモニターし,将来類型1の噴火が生じた後の状態と比較すれば,伊豆大島火山においてなぜ3つの類型の噴火が生じるかの手がかりが得られるかもしれない.

小田原地震のテクトニクス的前兆としての伊豆大島噴火
 伊豆大島火山でおきる規模の大きな噴火は,伊豆大島の北西方にあるフィリピン海プレート内断裂(西相模湾断裂)を震源断層としてほぼ70年間隔で発生する小田原地震のテクトニクス的前兆のひとつと考えられている(石橋,1988,1994).石橋によれば,小田原地震は1633年,1703年,1782年,1853年,1923年の5回が知られ,1684年噴火(Y2.0)が1703年地震,1777年噴火(Y1.0)が1782年地震,1912〜14年噴火が1923年地震の前兆と考えられている.石橋の考えにもとづけば,今回明らかになったY0.8噴火は,これまで対応関係が不明であった1853年嘉永小田原地震の前兆噴火とみなすことができる.

VII.まとめ

 主としてテフラ/レス層序の野外調査にもとづいて伊豆大島火山のカルデラ形成以降現在までの噴火史を検討し,1986年噴火の歴史学的意義や将来の噴火を考察した.
 1.伊豆大島のテフラ間にはさまれる褐色ロームは,その厚さがカルデラ中心(あるいは特定火口)からの距離と方向によらず一定であることから,レスであると考えられる.レスを噴火休止期間の指標として噴火事件の数を数え,あらたなテフラ層序を組み立てることができた.噴火休止期間の長さは,長いもので200年,短いもので10年程度である.
 2.伊豆大島のカルデラ外側斜面にテフラを地層として残す中〜大規模噴火として,明瞭な噴火休止期間に隔てられた24回の噴火を識別した.これらの噴火は,1)降下スコリアおよび降下火山灰の両方をともなう噴火,2)降下スコリアだけをともなう噴火,3)降下火山灰だけをともなう噴火,という3つの類型に分類できる.類型1の噴火には噴火マグニチュード4.0(噴出量10の11乗 kg)以上の大規模なものが多い.1986年噴火は,類型2の噴火のひとつであり,とりたてて特殊な噴火とみなす理由はない.Nakamura (1964)の提唱した噴火サイクルを厳密に満たす噴火は,24噴火のうちの7噴火にすぎない.
 3.現在みられる伊豆大島のカルデラは,S2.0時に発生した山体崩壊によって形成された馬蹄形崩壊谷と考えられ,陥没カルデラ説を支持する証拠は得られなかった.
 4.N3.0テフラ中にはさまれる外来の白色火山灰は,838年の神津島天上山噴火によってもたらされたと考えられる.886年の安房国降灰記録は,新島向山の噴火であるとは限らず,N2.0あるいは新島阿土山の噴火を記録した可能性もつよい.
 5.カルデラ内を起源とする中〜大規模テフラの噴出量階段図を描くことによって,以下のことがわかった.
(1)階段図の傾きつまり平均噴出率は,N1.0噴火前が92kg/s,N1.0噴火後が25kg/sとほぼ一定であり,N1.0噴火を境として小さくなった.
(2)N1.0噴火の前後とも,類型1の噴火には噴出量予測性がある.
(3)将来やがては類型1の噴火が発生して,噴出量予測性が回復するだろう.その際のテフラ噴出量は,2×10の11乗 kg(噴火マグニチュード4.3)またはそれ以上となるだろう.

謝 辞
 私たちが本研究を意図したもともとのきっかけは,伊豆大島1986年噴火中および直後の中村一明さんとの議論にあります.本論文を中村さんの霊前に捧げます.石橋克彦さんとかわした伊豆大島噴火と小田原地震の関係についての議論は,その後のY0.8火山灰の再発見のきっかけとなりました.吉田 浩さんには新島に分布するテフラとレスの情報をいただきました.Silvia Olivieriさんには伊豆大島内の露頭情報をいただきました.増田奈緒子さんには噴火史料の収集と整理を手伝っていただきました.井村隆介さんと川辺禎久さんにいただいた丁寧なコメントは,論文の改善にたいへん役立ちました.以上の方々に深く感謝いたします.なお,本研究に文部省科学研究費補助金(課題番号07780403)を使用しました.


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