「死都日本」シンポジウム
―破局噴火のリスクと日本社会―

講演要旨集


 目 次

シンポジウムによせて          石黒 耀  1
巨大火砕流想定小説、石黒耀著「死都日本」と科学者たち
                    岡田 弘  3
超巨大噴火と自然認識          伊藤和明  5
火山学者からみた「死都日本」の意義と魅力
                    小山真人  6
カルデラ噴火の地学的意味        荒牧重雄  9
南九州の大規模火砕流の多様性      宇井忠英  11
霧島火山の噴火史とハザードマップ    井村隆介  13
火山観測から見た霧島火山群と加久藤カルデラ
                    鍵山恒臣  18
日向灘の大地震と九州地方の地震・火山活動の関連性
                    山岡耕春  20
大規模火砕流の後に何が起こるか−ピナツボ火山の事例から
                    井上公夫  22
縄文の灰神楽−鬼界アカホヤ噴火で何が起こったか−
                    成尾英仁  27
大規模カルデラ噴火のリスクと予測可能性 高橋正樹  31
現代都市への破局噴火リスクの評価    早川由紀夫 35
低頻度大規模災害リスクをどう伝えるか  吉川肇子  37
低頻度大規模災害に国はどう対応するか  渋谷和久  39
気象庁はどう対応するか         山里 平  43
1万年をイメージできる感性を地域に養うために
 =「宮崎を造った火山の話」は、小説内だけの幻か
 = 地域メディアの役割を考える

                    中川和之  45
破局噴火と火山防災教育         林 信太郎 48
火山災害をどう伝えるか:"科学文学"の提唱
                    鎌田浩毅  50
スプリンターカリブはモルタル化した火砕流上を走るか
                    千葉達朗  53


シンポジウムによせて

石黒 耀(小説家)

 「死都日本」の作者です。門外漢が書いた本に多くの専門家が興味を持って下さり、このように立派なシンポジウムを開いて下さったことに感謝しています。「死都日本」は1998年から書き始めた話で、「地震は怖いけど、火山はそうでもないよね」という配偶者の言葉に驚いたことがきっかけでした。時代は丁度、雲仙普賢岳噴火と兵庫県南部地震の後で、死者数の差から同じような考えを持つ人が多かったのは事実です。それでも私が驚いたのは、配偶者は半端でない巨大噴火の痕跡を知っていたからです。
 20年近く前になりますが、私達は宮崎県中部の清武という町に住んでいました。春はレンゲ、秋はヒガンバナが咲き乱れる美しい田園でしたが、そこで古くから切り出されていたのが「清武石」という石材です。この町では、古い家の基礎や石垣には、大概この石が使われていました。これが遥か離れた鹿児島県姶良火山の巨大火砕流噴火で出来た溶結凝灰岩だと知って驚愕したのが、今思えば「死都日本」の原点だったように思います。
 この石の成因は、気をつけて地元紙を読めば数年に1度は言及されていて、町民に訊けば、「そう言えば、そんな話を聞いたような…」と返事が返って来る程度に有名でした。当然、配偶者も知っていたのですが、それ以上の感慨はなかったようです。
 御存知のように姶良火山は活火山で、理科年表の「日本の活火山」にも「姶良カルデラ」として記載されています。破局的な巨大噴火を起こすメカニズムは解明されていませんから、明日いきなり大噴火しても不思議はない危険な火山なのですが、大部分が海面下にあるせいか地図にも記載されておらず、地元民の話題に上ることは少ないようです。火口縁の姶良町に住む人に尋ねるチャンスがあったのですが、「一応、学校では習うんですが、特に危険な場所に住んでると意識してる人はいないと思いますよ」と笑われてしまいました。姶良火山の破局的噴火ほどの超巨大災害となると、笑って諦めるしかないというのも一つの現実なのでしょう。
 ところで申し遅れましたが、私は生物観察を趣味にしております。職業も生物(ヒトという名前の動物ですが)を調べる仕事です。この40年間に北海道から沖縄まで殆どの県を回って動植物を観察してきましたが、そんなことを続けるうちに、ある思いを強く抱くようになりました。それは「長い目で見ると、地学条件に合った生物しか繁栄できない」という考えです。この地学条件というのは、天体から地形、地質にまで至る広い意味ですが、逆に言えば、合わない地学条件に必死で対応した結果が進化なのでしょう。
 さて、そういう目で社会を観察しますと、はたして日本人の進む道は適応進化の一形なのでしょうか? それとも地学条件を無視した開発で、自らの生活環境を危機に晒す暴走なのでしょうか?
 現在、日本の進路は混迷しています。「迷った時には基本に返れ」という鉄則がありますが、東海地震という巨大地学事件が迫った現在、日本人とはどういう地学条件の元に繁殖した生物種なのかということを、根底から問い直してみる時期にきたのではないでしょうか?
 このシンポジウムが、そういうことを考える一助となることを祈ります。
                       2003年5月10日


巨大火砕流想定小説、石黒耀著「死都日本」と科学者たち

岡田 弘(北海道大学理学研究科)

1. はじめに
 火山学が誕生して約百年、有珠山と三宅島の2000年噴火を20世紀の最後の年に迎えた。この前後に日本の火山学者たちに大きな衝撃を与えた文芸作品が二つあった。映画「ダンテズピーク」と小説「死都日本」である。
 ダンデズピークでは私自身、世界の火山災害のレビューが展開する大型スクリーンに我を忘れたようにのめり込み、眼と耳と肌と脳と心で疑似体験した。また出張の機会に、東京の本屋を漁りまわり、ようやく探し出した「死都日本」を宿で読み始めたばかりに、ほぼ徹夜となり翌日の会議は夢のうちだった。噴火と社会対応のたたみかけるような強烈な展開、その吸引力に、読むのを途中で止めることなどできなかった思いがある。
 今回、死都日本の著者である石黒耀氏を招き、科学者や防災行政の当事者、市民などが集り「死都日本シンポジウム」を開催することになったのは、新しいタイプの科学文化創設というべき意義深いものと私は考えている。

2. なぜ科学者のあり方が注目されるのか
 ダンテズピークでも死都日本でも、火山学者たちが主人公や主要人物として登場する。かって、新田次郎氏は火山危機において活躍した鹿角義介、三松正夫、木澤たかし氏ら実在の人間像をモチーフにそれぞれ「桜島」、「昭和新山」、「火山群」などの小説を執筆した。新田次郎氏は気象庁に在職していたこともあり内情に詳しく、「大変な立場に置かれた特殊な環境下の人物像」を見事に描写している。本人は、類似の題材を多く手がけていることからみて、自然災害と人間という普遍的・先進的な根源的な課題を認識していたはずであろう。
 米国セントヘレンズ山の1980年の大噴火、およびフィリピンピナツボ山の1991年の巨大噴火では、いずれも長期間にわたって眠っていた火山が当初の予想以上の規模で噴火活動を展開していった。にもかかわらず、火山学者たちは手際よく規制区域を広げ、ピナツボ山の場合にはアジア有数の米国のクラーク空軍基地を巨大噴火直前に短時間で本土へ撤退させてしまうなど、目覚しい活躍をした。
 インドネシアのチョロ山、キイベシ山、クルート山や、パプアニューギニアのラバウル火山等でも、科学者たちの行動や助言が火砕流災害の直撃を避けるために多いに役立った。20世紀の最後の四半世紀になって、観測や研究が事前からなされており、更に非常緊急事態における避難警戒対策がスムースに取り組める場合には、著しい噴火予知と減災の効果が生まれていることが明らかになっている。しかし一方では、ネバドデルルイス火山の例など、助かることができたはずなのに救えなかった悲劇もあった。
 この様な背景の中で、新しいタイプの小説や映画などの文芸作品が登場してきた。ダンテズピークの監督であるロジャー・ハミルトン氏は、大学で地理学や地質学を学んだ方で、セントヘレンズ山噴火以降の世界の噴火や科学者達の活躍を良く知っていた。また映画を作るにあたっては、3人のトップクラスの火山学者が本格的な支援協力を行なった。
 また、石黒耀氏も先進的な火山学および火山危機情報を入手できる立場におられた様で、火山学者の大半が知らないいきさつさえ散見される。さすがに、伊豆大島・雲仙岳・奥尻・阪神淡路・有珠山・三宅島など、自然災害が多い過密国家における最近の困難な社会対応を批判的に見てきただけに、総理大臣から予知連絡会、秘密対策組織などの国家機能からはじまり、現地の研究者やマスメディア・住民まで、かってないスケールでのダイナミックな動きが、事象の急速な進展に対応しながら丁寧に書き込まれている。
 ダンテズピークでは、降灰・泥流・火砕サージなど、どれが実写か分からないほど素晴らしい映像が注目されたが、困難な社会対応や人物像描写などは余りにもあっさりと扱われており物足りなさが残った。そこを無理して溶岩流上を車で脱出したり、ボートが酸性湖で溶けるなど、非現実的に繋いだのは失敗だった。赤い溶岩流にこだわったのは、ハワイの溶岩流噴火に馴染み過ぎた国民を考慮し過ぎたためだったかもしれない。

3. 「恐れず、侮らず」人間を含めた地球システムへ 
 死都日本で扱った巨大火砕流噴火は、いわゆる「低確率大災害現象」である。21世紀は戦争も災害もない時代となって欲しかった。テロと戦争、経済不況と失業に始る混沌と不安の幕開けになった。しかし、ほとんどの課題は人間達が自分で解決できるものばかりだ。残りは、エネルギー的に巨大すぎる自然災害と、じわじわと地球システムを破壊している地球環境の課題であろう。
 地球は創生以来数回の大変動を経験し、そのたびに新たな生命が生まれ育ってきた。この様な地球規模の大変動に比べれば、死都日本で扱われた火砕流噴火は、狭い日本での数万年に一度の現象に過ぎない。噴火規模が二ケタほど小さな、しかし日本の近年の歴史噴火における最大のイベントは、17世紀の北海道である。数千年の眠りから覚めた駒ケ岳(1640年、VEI=5)、有珠山(1663年、VEI=5)および樽前山(1667年、VEI=5)の連続噴火は、アイヌ文明に深刻な試練を与えた。自然災害を「恐れず、侮らず」人間を含めた地球システムを、人間達がどう創り出し、地球と共生していくのかが課題である。科学・技術だけでなく、文化・芸術面でも新しい世代が育ちいく時代にある。


超巨大噴火と自然認識

伊藤和明(元NHK解説委員)

 大規模カルデラを生ずるような超巨大噴火が日本列島で起きるのは、平均すればたぶん1万年に1回くらいのことであろう。わが国の文明は、さいわいなことに、そのような超巨大噴火の発生がない、つまり発生の合間であったために、恙なく発展してきたということができる。
 しかし1万年という時間は、地球のたどってきた長大な歴史時間の中では、ほんの一瞬にすぎない。地球史の視野に立ってみれば、このようなカタストロフィックな出来事は、ごく当たり前の自然現象なのである。
 現在、日本の各地で風光明媚な景観を繰りひろげ、多くの観光客を招き寄せているカルデラ湖などは、日本列島の生いたちの過程、それも地史的にはごく最近の超巨大噴火によって生成されたものである。となれば、いつか将来、このような超巨大噴火が日本列島を襲う時がくることは疑いない。
 日本人は、少なくとも有史以来、超巨大噴火を体験していないがために、現在つづいている静穏な時代が常態であるように思いこんでいるのではないだろうか。その根底には、自然現象に対する人間側の時間分解能の問題が横たわっているようにも思える。
 一般に、大噴火や大地震に備える防災のあり方は、頻度の低い自然現象に対して、人間の側がどのように対応するかが問われている問題である。まして超巨大噴火のような破局的現象の発生は、人間の次元で見れば希有のことであって、一個人が一生のうちにこうした現象に遭遇する可能性は、きわめて低い。しかし、発生確率の低い現象ほど、ひとたび発生すれば、想像を絶するような災害を人間社会にもたらすことは必定なのである。
 それだけに、破局的な自然現象を想定した危機管理体制を、常時からどう組み立てておくかが問われている。要は、人間側の自然認識の問題に尽きるともいえよう。
 私たちは地質時代の一断面に生きているにすぎない、という認識を新たにしたいものである。


火山学者からみた「死都日本」の意義と魅力

小山真人(静岡大学教育学部総合科学教室)

1.低頻度巨大災害としての火山噴火
 一般に自然災害は大規模なものになるほど発生頻度が小さくなるため,学問的な事実としては知られていても,現代社会がまだ体験したことのない巨大災害が存在する.このような災害の多くは,火山噴火に関係したものが多い.
 たとえば,7300年前に鹿児島県南方沖の海底火山(鬼界カルデラ)で起きた巨大噴火が,当時の九州で栄えていた縄文文化を壊滅させたことは,考古学上よく知られている(小田,1993;町田,2001;成尾,本シンポジウム講演).他の例としては,2万8000年前に姶良カルデラ(鹿児島湾北部)から噴出した火砕流が現在シラス台地として知られる火砕流台地をつくった噴火や,8万7000年前に阿蘇カルデラから噴出した火砕流が九州の北半分と山口県の一部を焼き尽くした噴火などが有名である.九州の事例が目立つが,このような噴火を繰り返してきたカルデラ火山は,北海道,東北地方,中部地方にも点在する(町田・新井,1992).首都圏近郊の事例としては,5万2000年前に箱根カルデラから噴出し,西は富士川から東は横浜市郊外にまで達した火砕流がある.
 幸いなことに,このような想像を絶する巨大噴火は,日本列島全体で見てもおよそ1万年に1度程度しか起きない低頻度の現象である.7300年前の鬼界カルデラの噴火以来,日本列島に住む人々は,このような巨大噴火の洗礼を免れている.次の巨大噴火がいつどこのカルデラ火山で起きるかは不明である.
 以上のような現状理解は,1960年代以降の研究の進歩によって,いまや火山学者全体の認識となっている.このような事実にもとづいて警鐘を鳴らし,防災対策の必要性を訴えてきた先駆者もいたが(横山,1993など),低頻度現象であることと,対策不可能と思えるほどの広域的大災害が予想されることにより,国・自治体のどちらのレベルにおいても何の対策もとられていないのが現状である.

2.火山小説「死都日本」
 小説「死都日本」(石黒 耀著,講談社刊)は,日本列島全体で1万年に1度程度しか起きないはずの巨大噴火(小説中で言うところの「破局噴火」)が現実に再び九州で起きてしまった時,どのような現象が起き,社会がどう対応するかを精密にシミュレートした近未来小説である.とくに噴火開始後の現象記述は詳細をきわめ,最新の火山学的知識がちりばめられたリアリティーあふれるものである.
 霧島火山に大規模噴火の兆候が観測され始め,それが霧島火山のみならず,その北西側で34万年前に破局噴火を起こした加久藤カルデラのマグマ活動の再開だと気づいた政府は,最悪の場合に備えた準備(K作戦)を極秘裏に始動させる.K作戦は順調に進むかに見えたが,霧島火山で始まった噴火は,誰もが予想しなかった速度で加久藤カルデラの破局噴火を誘発させてしまう.
 この巨大噴火の始まりに気づいた宮崎在住の火山学者の主人公が,発生した大規模火砕流の直撃や影響を避けながら以後の12時間をどう生き延びるかが,この物語の核心部分である.彼は過去の噴火事例,火砕流の流動特性や,火砕流にともなう現象のすべてを熟知していたからこそ,その後生じたあらゆる困難を乗り越え,最終的に日南海岸から船で逃げ延びることができる.彼がもてる知識を動員し,地形図をにらみながら脱出に至る大冒険が見事である.つまり,災害に関する基礎知識があるかないかで人の運命が分かれることをよく表した,非常に教育的な作品でもある.
 かつて私は,「従来の普及書・解説ビデオ等には堅くて地味なものが多すぎる.大きくかつ永続的な効果を得るためには一流の演出が必要である.とくに芸術家・文学者・マスメディアとの共同作業はよい結果を生みだすに違いない」と書いて,従来の教材の演出面での未熟さを嘆いたことがある(小山,2000).「稲むらの火」が現在もなお高く評価されるのは,文学作品としての秀逸さもあるためと考える.「日本沈没」のような啓発色の弱い娯楽作品であっても,当時の若者の進路に多大な影響を与えたこと(今の30〜40 代の地震・火山学者に,この作品がきっかけで進路を選択した者が多い)は注目に値する.しかし,私たち学者が,実際にそのような一流の演出を得る機会は稀である.そのような意味でも「死都日本」には心底驚かされた.望んでも容易には得られない優れた教材が,労せずして入手できたとみるべきである.
 もちろん火山専門家の目から見て,もっとここはこう描いてほしいと思う部分がいくつかある.しかし,全体として大きな間違いはなく,巨大噴火を完膚無きまでに仮想体験できる作品と言ってよい.古事記に書かれている「天の岩戸」や「黄泉の国」の描写が,実は古代日本人の破局噴火体験の伝承であるとする独自の考えが示されている点にも興味をそそられる.何より特筆すべきは,単なるパニック小説にとどまっていない点であり,長期的視野に立てば巨大噴火もやがては国土に豊かな恵みをもたらすこと,そのような視点が災害に立ち向かうための逆転の発想として必要なこと,低頻度大規模自然災害のことを意識した国土利用計画への発想転換などが説かれている.
 以上のような内容から,「死都日本」は火山学者だけでなく防災科学や防災教育に携わるすべての専門家にとって,大変注目すべき作品である.これまで大規模自然災害を扱った作品の多くは,娯楽色が強く,あまり中身のないものであった.とくに科学的設定や描写には荒唐無稽のものがしばしば見られた.「死都日本」は,従来のそのような作品とは明確に一線を画するものである.この作品の刊行を千載一遇の機会として,低頻度巨大災害をどう考え,どのような行動を起こしていけばよいかを真剣に考えるべき時が来たと言えるだろう.

3.「死都日本」に示されたリアリティーと希望
 最後に,このシンポジウム講演者の誰もが指摘するであろう「死都日本」の驚異的なリアリティーを感じさせる部分を,いくつか引用しておきたい.この作品が,いかに火山学の最新の成果をよく勉強して書かれたかがわかる部分でもある.
「火砕流堆積物は白色だったが,その上に空中で充分に酸化して赤く変色したサージ粒子が降り積もったので,血に染まった雪原のようなピンクの陸地である」(179ページ)
「まったく迂闊だった!あれは狭い谷を高速で流れ下る火砕流の前方に形成されたブラスト(突風)だったのである!・・・あれ程のブラストを形成するからには,火砕流の時速は100キロを越えている」(204ページ)
「周囲には直径二メートル程のすり鉢状クレーターも存在する.(二次噴気孔だ!)黒木は確信した.火砕流堆積物が大量の水の上に溜まると,水が熱せられて蒸気となり,堆積層を破って爆噴する.これが二次噴気孔で,大きいものは周囲に砕屑丘を作って,まるで火山の噴気孔(一次噴気孔)のようになる」(259ぺージ)
「このハザードマップは今後の避難計画を決める最も重要な地図だった.例えば,じきに土石流に埋まると予測される黄色の初期土石流災害予想域内の家屋・施設は,灰下ろしなどの無駄な努力に時間と人員を浪費せず,すぐ避難して,むしろ避難先の施設や勤務先の生産施設の灰下ろしに力を注ぐべきだという政府見解が出されることになる」(287ページ)
「火砕流は山脈に激突した際に,流動化しにくい邪魔な火砕物を「のりあげ構造」にして置いてきているから良く流動化しており,進路上にある線路には停滞せず,むしろ流れ下る溝として積極的に利用した可能性が高い」(329ページ)
 さらに,前節でも触れたが,「死都日本」の終章には,破局噴火に対する具体的な災害応急対策・復興計画の提案とともに,現代日本社会の土地利用法に対する根本的な疑問や,破局噴火の結果もたらされる長期的なベネフィットの指摘があり,大災害の末にも必ず希望や救いがあることが示されている.ここが,「死都日本」を単なるパニック小説に終わらせず,より格調の高い作品に仕上げているポイントでもある.そんな終章から象徴的な箇所を引用して,本論の締めとしよう.
「日本国民の皆さん,悲しみを振り払い,顔を上げ,もう一度,美しい日本と,美しい日本人の姿を取り戻してみませんか? 古事記には,イザナミが『毎日千人殺す』と脅すと,イザナギが『それでは千五百人子を産む』と答える場面があります.先祖から受け継いだ勇気と知恵があれば,我々はきっと失った以上のものを産み出すことが出来ます」(505ページ)

文 献
小山真人(2000)地震学や火山学を社会に十分役立たせるために―「防災教育」の再考.地球惑星科学関連学会2000年合同大会予稿集,Ad-007(http://www-jm.eps.s.u-tokyo.ac.jp/2000cd-rom/pdf/ad/ad-007.pdf)
町田 洋(2001)歴史を変えた火山の大噴火.日本人はるかな旅(2)巨大噴火に消えた黒潮の民(NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編),NHK出版,161-184.
町田 洋・新井房夫(1992)火山灰アトラス.東大出版会,276p.
小田静夫(1993)旧石器時代と縄文時代の火山災害.火山灰考古学(新井房夫編),古今書院,207-224.
横山勝三(1993)巨大火砕流のハザードマップ―主に入戸火砕流に基づく考察―.火山災害の規模と特性(荒牧重雄編),文部省科学研究費重点領域研究「自然災害の予測と社会の防災力」研究成果報告書,319-326.


カルデラ噴火の地学的意味

荒牧重雄(東京大学名誉教授)

 カルデラとは,地表にある火山性の円形の窪地で,直径が火口よりもはるかに大きいものを言う.カルデラは単純な噴火では出来ず,何か特別な要素が加わったために凹地形が拡大されたものと定義され,通常直径が約 2 km以上であり,最大のものは50 km 以上に達する.その要素の内で最も多いのが,大規模な火砕噴火である.火砕噴火はマグマが噴火中に粉砕されて火山灰や軽石として空中に放出されるタイプの噴火である.大規模な火砕噴火では,多くの場合火砕流が発生し,火口の周囲から放射状に地表を流走し,広大な面積を覆う.
 火砕流自体の規模は極めて小さいもの(マグマ噴出量が10-6 km3)から極めて大きいもの(同103 km3)まである.ダイナミックレンジが大変大きな地上現象である.発生頻度は火砕流の規模に逆比例する....すなわち,規模の小さな火砕流は頻繁に発生するが,大規模なものは稀にしか発生しない.小規模火砕流の例は1991年の雲仙普賢岳の火砕流である(マグマ噴出量が10-6 〜 10-3 km3).このような小規模な火砕流ではカルデラは生じない.火砕流の規模が10-1 km3 を越えると火口周辺が陥没して小さなカルデラを生じる.噴出量規模が 10 km3 ではカルデラの直径が数 kmとなる.十和田カルデラ,摩周カルデラ,洞爺カルデラなどがその例である.噴出マグマの量が102 km3 では直径 20〜30 kmのカルデラが生じ,屈斜路,阿蘇,姶良カルデラがその例である,地上で知られている最大級のカルデラは直径 50 km くらいあり,マグマの噴出量が103 km3 になると生じる.北米のラガリータ,サンホアン,イェローストーンなどのカルデラがその例である.
 カルデラを形成する大規模火砕噴火の特徴は,地下数 km にあるマグマ溜まりに存在していた大量の珪長質マグマが発泡し,急激な体積の膨張にともなってマグマの一部が地表に噴出するというメカニズムにある.1000 km3 を越えるようなマグマが短時間に噴出するためには,その何倍もの量の液体マグマがその時点で地下のマグマ溜まりに蓄えられていなければならない.そのような量のマグマが地表に噴出せず,地下浅所(上部地殻)で固結したものが「バソリス」と呼ばれる大型花崗岩体である.
 沈み込み帯に沿って形成される島弧・陸弧の中軸部(いわゆる造山帯中軸部に相当)では,上部マントルで発生した玄武岩質マグマが大量に地殻下部に付加されるが,その熱により地殻下部が部分融解して珪長質マグマが発生する.その珪長質マグマは上昇して地殻上部(深さ 10 〜 数 km)に達しマグマ溜まりを形成する.これが大型のカルデラをつくる火砕流噴火のマグマの元であると考えられる.バソリスと呼ばれる巨大岩体は長さ数百km,幅数十kmの広さがあるが,それは一様の単一岩体ではなく,直径数〜30 km くらいの火成岩体の集合であることがわかっている.個々の火成岩体は大型カルデラを生じるマグマ溜まりに相当するものであり,地殻上部にある珪長質マグマの一部は火砕噴火によりカルデラを形成し,周囲に厚い溶結した火砕流堆積物を展開し,残りのマグマはそのまま固結して上部地殻を成長させると理解される.
 大型の火砕噴火とその結果生じる大型のカルデラの生成機構から結論されることは,多くのマグマ溜まりの天井は極めて浅いところにあり,マグマ溜まりの縦横比(アスペクト比)は極めて低い(扁平である)形状を示すことである.これは,噴火せずに地下で固結した珪長質火成岩体の形状が扁平であるという最近の地質学的知見と調和する.
 環太平洋地域のような沈み込み帯の火山活動は,中間的な化学組成(安山岩質)のマグマで特徴づけられるとされてきたが,上に述べたような珪長質マグマの噴出量は決して少なくなく,等量の重みを持つものとして考えられるべきものである.大型火砕噴火によるカルデラ形成活動は,地下におけるバソリス性岩体の形成作用と組にして,大陸縁における大陸性地殻の形成・拡張作用の基本として理解されるべきものである.


南九州の大規模火砕流の多様性

宇井忠英(北海道大学大学院理学研究科)

 『死都日本』の舞台となった南九州は『破局噴火』すなわち『大型のカルデラ形成を伴う大規模火砕流の発生現象』が最近数十万年の間集中している地域である。この地域で最近10万年余りの間に発生した火砕流の中で、幸屋、入戸、阿多火砕流はそれぞれの噴火シナリオに際立った違いがある。

幸屋火砕流
 幸屋火砕流は約6300年前(放射性炭素同位体年代)に南九州から大隈海峡を隔てた鬼界カルデラから噴出した。噴火は陸上の火口から噴煙柱を立ち上げて軽石が降下することで始まった。引き続き比較的小規模な火砕流が繰り返し発生した。噴出口の拡大と共にクライマックスの火砕流噴火となり、火砕流は大隈海峡を渡って九州本土南部や種子島、屋久島に達した。海を渡った火砕流は海抜高度の低い平野部ばかりでなく、丘陵や山岳地域の緩い斜面上を薄く広く覆いつくした。噴火前に存在した火山島は小さな2つの火山島、薩摩竹島と薩摩硫黄島、を残すのみとなった。火砕流に伴う広域テフラ鬼界アカホヤ火山灰は本州東北部以南に広く降下した。鬼界アカホヤ火山灰は遺跡層準を同定する有効な鍵層である。この噴火前後で南九州の縄文土器文化は入れ替わったことが知られている。少なくとも南九州ではこの噴火により全ての生物が絶滅したに違いない。

入戸火砕流
 入戸火砕流は約25,000年前(放射性炭素同位体年代)に鹿児島湾北部の姶良カルデラから噴出した。噴火はカルデラ南東部の陸上の火口から大規模な噴煙柱を立ち上げて軽石が降下することから始まった。引き続き中規模の火砕流噴火が繰り返しされ妻屋火砕流として堆積した。その後カルデラ中央部で火道の大規模な破壊が始まって連続的にクライマックスの入戸火砕流が噴出した。この火砕流はシラス台地の名称で知られる大規模で平坦な火砕流台地を平野部に残し、山間部でも谷底や山間盆地の一部を埋め立てた。一方斜面上には火砕流本体の痕跡は残っていない。こうした分布から入戸火砕流は極めて低い粘性をもった流れであったと判断できる。入戸火砕流に伴う広域テフラである姶良Tn火山灰は日本列島をほぼ完全に覆いつくした。南九州では姶良Tn火山灰の上下で石器文明が入れ替わっていることが知られている。

阿多火砕流
 約11万年前の阿多火砕流の噴火は現在の鹿児島湾中部、水が十分ある場所で始まった。カルデラ近傍には火山灰層を残したが降下軽石層は顕著ではない。引き続き小規模な火砕流が繰り返し発生してカルデラの南東部、大隈半島中南部に堆積した。噴火後半の火砕流は規模が大きく給源カルデラから全方位に繰り返し流れ広がった。斜面を這い上がる場所に選択的に堆積し、駆け下る場所には堆積しにくい『のりあげ構造』を作った。また火砕流が地表を削剥する現象が認められた。岩片集積層がカルデラ西側の薩摩半島側で後期噴出物の基底部に卓越して存在する。このことから噴火当初の噴出口よりも西側で噴火後期に新たな火道が開いたか、西側に向かってカルデラの陥没が始まったと思われる。後半に噴出した火砕流は流動を停止した時点で十分に高温であったため、自重で塑性変形を起こして溶結凝灰岩となった。そのため、外見は溶岩類似の柱状節理のある露頭が各地で認められる。また、溶結の程度は堆積物の厚さが厚いほど顕著なため、入戸火砕流に見られるような平坦な火砕流台地は残されず火砕流台地の表面は緩い起伏がある。広域テフラの存在は確認されているが鬼界アカホヤ火山灰や姶良Tn火山灰のように顕著ではない。
 阿多火砕流の給源カルデラの位置については研究者間で論争がある。指宿地方やその東側の鹿児島湾南部が給源であるという見解もあり、それが『死都日本』のカルデラ分布図には採用されている。しかし、それでは『のりあげ構造』の方位や岩片集積層中の岩石の構成がうまく説明できない。

 火砕流堆積物の露頭を火山地質学の研究手法で調べることにより、『破局噴火』のシナリオを知ることができる。しかし、噴火中の時間の経過に関する情報は精度が悪い。また、露頭という物証を残さない前兆現象を把握することはできない。『死都日本』で描かれた加久藤カルデラ噴火はここで紹介した3つの噴火の中では阿多火砕流に最も近いようだ。


霧島火山の噴火史とハザードマップ

井村隆介(鹿児島大学・理学部)

1.はじめに
 霧島火山は九州南部,鹿児島・宮崎両県の境に位置する第四紀の火山群の総称です.最高峰の韓国岳(からくにだけ:標高1700m)をはじめ,神話で有名な高千穂峰(たかちほのみね)など,20あまりの火山体と火口が北西−南東方向に長い30kmx20kmのほぼ楕円形をした地域に集中してみられ,さながら「火山のショーウインドウ」(「死都日本」80ページ参照)という感じがします.
 ここでは,この霧島火山の生い立ちと,現在考えられている防災対策についてまとめてみようと思います.

2.霧島火山周辺の地質
 霧島火山の基盤をなすものは,四万十(しまんと)累層群と呼ばれる海底にたい積した地層と加久藤火山岩類と呼ばれる200万年くらい前の火山岩です.霧島火山の北側には,加久藤盆地と小林盆地があり,その地形や重力異常の研究から,いずれもカルデラだと推定されています.この両カルデラを作った最後の巨大噴火の噴出物が,加久藤火砕流(約30万年前)と小林火砕流(約60万年前)だと考えられています.

3.霧島火山の噴火史
 霧島火山は,現在地表でみられる新しい火山と,それらにほとんど覆われてしまった古い火山(一部山麓部に露出)とで構成されています.ここでは,前者を新期霧島火山,後者を古期霧島火山とします.前者からはおよそ20数万年前より若い,後者からは120万から数10万年前の放射年代値が得られています.加久藤カルデラから約30万年前に噴出した加久藤火砕流は,およそ両者を分けるものです.
3.1 古期霧島火山の活動
 古期霧島火山の噴出物は,その大部分が新期霧島火山の噴出物に覆われているため,この時期の噴火活動の詳細についてはよくわかっていません.しかし,地熱開発のためのボーリングでは,これらの噴出物が現在の霧島火山の下に厚く認められるので,霧島火山の骨格部分は古期霧島火山の活動によって作られたといってよいでしょう.その活動開始時期は,150万年前くらいまでは,さかのぼることができそうです.
3.2 新期霧島火山の活動
 新期霧島火山の活動によって今日みられる霧島火山が完成しました.ここでは,いくつかの時期に区分して紹介します.
●30万年前から10数万年前の活動
 この時代の霧島火山の活動によって,霧島火山の北西麓〜南西麓にかけて分布する噴出源不明の溶岩や烏帽子岳(えぼしだけ),栗野岳,湯之谷岳,獅子戸岳(ししごだけ),矢岳(やだけ),栗野岳南東の1046.9mの無名の山などの火山体が形成されました.これらの火山体では,浸食が進み,明瞭な火口跡がみられないものもたくさんあります.10万年前ころにはいくらかの活動休止期があったものと考えられます.
●10万年前から2万5000年前の活動
 この時代の火山活動は,霧島火山のほぼ全域に分散して認められ,白鳥山(しらとりやま),えびの岳,龍王岳(りゅうおうだけ),二子石(ふたごいし),大浪池(おおなみいけ),夷守岳(ひなもりだけ),大幡山(おおはたやま)などの火山体が形成されました.この時期に噴出した溶岩流には,溶岩末端崖などの大きな地形は比較的よく残されていますが,溶岩じわ等の微地形は明瞭ではありません.この時代に起こった重要な活動としては,約4万年前に夷守岳で発生した,山体崩壊があげられます.現在の小林市の西半分は,このときにほぼ埋め尽くされたと考えられます.
●2万5000年前から6300年前の活動
 この時期の火山活動によって,丸岡山(まるおかやま),飯盛山(いいもりやま),甑岳(こしきだけ),韓国岳,新燃岳(しんもえだけ),中岳,高千穂峰などの小型の成層火山や白鳥山新期の溶岩流のほか,六観音御池(ろっかんのんみいけ)など,現在みられる主要な山々が形成されました.
●最近6300年間の活動
 最近6300年間の霧島火山の活動の場は,本火山の南東域に集中しており,そこでは高千穂峰の形成後,御池(みいけ)や御鉢(おはち)が作られました.御池は,約4200年前に発生したプリニー式噴火によって生じたマールです.この噴火は知られている霧島火山の爆発的噴火の中では,最も規模が大きいものです.霧島火山の中央域では,新燃岳の爆発的な噴火とともに,不動池(ふどういけ),硫黄山,大幡山(新期)および中岳山頂部の溶岩の噴出がありました.
●歴史時代の活動
 霧島火山には,742年(天平十四年)以降,信憑性の高いものだけでも10を超える噴火活動が記録に残されています.史料に残る噴火のほとんどは御鉢と新燃岳で起こっていますが,1768年(明和五年)には韓国岳北西麓で硫黄山が形成されたと考えられています.788年(延暦七年)と1235年(文暦元年)の御鉢の噴火と新燃岳の1716-17年(享保元-二年)の噴火は,それぞれの火山体の地形を一変させるほどの規模でした.
 1800年代後半から1923年ころまでの御鉢火山は,現在の桜島火山のように頻繁に爆発を起こし,登山客が死傷するなどの被害が多数生じていました.近年,御鉢では山頂火口内に小規模な噴気活動がみられるだけで,表面的には静かな状態が続いていますが,2000年前半や2002年には火口直下で顕著な地震活動が認められました.
 新燃岳の1716-17年の噴火活動は,水蒸気爆発に始まり,マグマ水蒸気爆発からマグマ噴火へと,時間の経過とともに活動様式が変化し,軽石の噴出とともにベースサージ,火砕流,泥流が繰り返し発生したことが噴火堆積物からわかっています.また,記録からは,この噴火によって,東方の広い範囲で粗粒の軽石が降り,火災や農作物への被害があったこと,約850km離れた八丈島でも降灰があったこと,噴火は断続的に1年半くらい続いたこと,などがわかっています.新燃岳では,1959年に水蒸気爆発があったほか,1991年にも顕著な地震活動の後,微噴火がありました.

4.霧島火山の火山防災
4.1 霧島火山のハザードマップ
 霧島火山では,これまでに2枚の火山防災に関する地図が公表されています.一つは,雲仙普賢岳の噴火直後(1991年)に宮崎県の高原町が独自に作成した『霧島火山防災の心得』(図2)で,もう一つは,1992年に国土庁によって示された「火山噴火災害危険区域予測図作成指針」にそって,霧島火山の周辺自治体が1996年につくった『霧島火山防災マップ』(図3)です.巨大噴火に備えたものは,残念ながらありません.
 『霧島火山防災の心得』に示された図は,歴史時代と最近6000年間くらいの過去の噴火履歴を示したもので,危険予測図とは異なりますが,「日ごろの心がまえ」などが明確に書かれていてわかりやすく作られています.『霧島火山防災マップ』では,歴史時代に噴火した,御鉢,新燃岳,硫黄山に加えて大幡池付近での噴火を想定しています.歴史時代の噴火では,噴出物の量が岩石換算体積(DRE)の総量で1×108m3を超えるものはまれで,ほとんどがDREの総量で1×106m3以下の規模のものでした.『霧島火山防災マップ』では,DREの総量で1.6×108m3程度の噴火を大規模(500年に一度発生),DREの総量で4×106m3程度の噴火を中規模(数10年に一度発生)として,それぞれの危険区域を想定しています.

4.2 防災上の注意点
 新燃岳で最近300年間に起こった比較的規模の大きな噴火では,時間の経過とともに,水蒸気爆発,水蒸気マグマ爆発からマグマ噴火と噴火様式が変化したことが明らかにされています.新燃岳の今後の噴火災害の予防・軽減のためには,このような噴火の推移の特徴をよく理解しておく必要があるといえます.
 霧島火山では,平均すると数1000年に一つくらいの割合で,新たな火山体が生じるような噴火活動が行われてきており,今後もそのような活動が起こる可能性があります.また,過去には山体の大規模な崩壊も夷守岳や韓国岳で発生しています.夷守岳,大幡山,高千穂峰,御鉢など,比較的急峻な山容をもつ火山では注意が必要でしょう.
 一方,霧島火山には数多くの噴気変質地帯が存在しており,そこでは水蒸気爆発,地すべり,陥没などが,ごく普通に発生する可能性があります.最近では,1971年に手洗温泉付近の噴気変質地帯で地すべりと水蒸気爆発が発生しているほか,1980年には硫黄谷地区で高温ガスの異常突出によって道路の一部が陥没しました.また,噴気地帯での火傷や温泉入浴中のガス中毒などの事故も発生しています.


火山観測から見た霧島火山群と加久藤カルデラ

鍵山恒臣(東京大学地震研究所)

 霧島とはどんな火山か?考える角度によって捉え方はいろいろあるだろうが,私が霧島を歩いて直感的に重要だと感じるのは,霧島は1つの火山ではなく,たくさんの火山の集合体であるということである.1万年あるいは2万年間という地質学的に短時間と見なせる間に多くの火山が活動している.成長中の火山の上にさらに新しい火山が生まれてくる,さながら増築に増築を重ねた「雑居ビル」のようなものである.しかもそれぞれのマグマは異なっている.この点が,富士山などと大きく異なっている.なぜ違うのか,霧島研究の一番の面白さはここにあり,そのヒントは霧島が置かれているテクトニックな環境にある.霧島周辺は,北西−南東方向にやや張力的な応力場にあり,北東−南西方向に走行をもつ正断層とそれに直交するような横ずれ断層によって区切られている.えびの高原の白鳥山から硫黄山,韓国岳に並ぶ火山列や新燃岳から大幡池,丸岡山に伸びる火山列はこうした断層に沿って生成されている.張力的な応力場によって,マグマの上昇経路が容易に確保できるため,小型の火山が多数作られると考えられている.
 霧島と加久藤カルデラの関係は?このシンポジウムで避けて通れない疑問のひとつであるが,実はよくわかっていない・「えびの地震」などのようにカルデラ内で群発地震が発生し,その後,霧島の火山直下で地震が増加する現象がしばしば起こっているので,霧島火山群のマグマは加久藤カルデラから供給されているという考え方があるが,個々の火山の地下で生成されているという考え方もある.余談ながら,前者の考えは「雲仙と同じではないか」と思う人がいるかもしれないが,実はこちらの方が元祖である.マグマの成因は岩石屋さんにまかせるとして,物理観測ではどこまで言えるだろうか?実はこの問題に関しては,あまり明確な回答は出ていない.その理由の1つは,最近の精密観測が始まって以降,加久藤カルデラでは群発地震が発生していないため,震源の移動が現在の火山学で見たときに何が起きているかを検証できていないことによる.第2の理由は,加久藤カルデラを含む広い領域で十分な調査がおこなわれていないことによる.もっとも手っ取り早い考え方は,地下の構造を調べることであろう.霧島の構造は,火山体構造探査によって比較的よくわかっているが,あまり単純ではない.火山群のうち,中岳,新燃岳より北西側に位置する火山は,御鉢より南東側に位置する火山に比べると,基盤が沈降している.マグマは10kmあたりの深さに広く滞留しており,火口の近くでは3km程度の浅さまで上昇しているようである.また,地震がしばしば群発する割にはなかなか噴火せず,温泉が多い.それに対して南東側の火山は,マグマが深いところにあるようで,温泉もあまりない.北西側に属する火山では,マグマと思われている領域の最上部で地震が群発したり,その他の噴火の前兆現象が発生している.これに対して,加久藤カルデラでは,地震が多く発生する深さ8km付近の比抵抗は高く,マグマや熱水が多く存在していると思えない結果となっている.したがって,電磁気探査からは,カルデラの地下のマグマ存在は否定的であるが,もう少し深い10kmから20kmの深さの構造はまだ十分に明らかにされてはいない.近年,探査機器は大きく進歩しており,調査を行えば,この課題に対する回答は得られるであろう.また,霧島の火山群においてマグマがどのように蓄積されつつあるかは,まだ解明されていない.カルデラの地下におけるマグマ蓄積も同様に未解明の問題である.
 加久藤カルデラは再び噴火するか?このシンポジウムに参加されている方の多くはこうした疑問を抱かれているであろう.しかし,私は,この問題を考えるよりは,火山噴火予知研究はカルデラにどのように取り組むべきかを考えた方が実り多い結果が生まれると思う.カルデラ噴火は,火山学の基本的命題を多く含む重要なテーマである.たとえば,噴火の準備過程1つをとっても,数万年に一度発生するカルデラ噴火は,頻繁に噴火する桜島や20年おきくらいに発生する三宅島や有珠山に比べると,マグマ蓄積などの噴火の準備過程は,同じことが進行しており,単にレートが低いだけと考えてよいであろうか?それとも全く違う準備の仕方があるだろうか?この問題は,現在我々が手がけている数10年という時間スケールで得られた火山噴火予知の知見が3桁も長くしたスケールでも成り立ちうるかということであり,気軽に同じと決め付けるわけにはいかない.たとえば,カルデラ噴火の後経過した時間が異なるいくつかのカルデラについて,地下構造を調査し,すべてのカルデラに共通して成立している特徴を明らかにしていくといった地道なアプローチが必要と考えている.
 また,カルデラが生成される前の原地形がどのようなものであったかも興味深い問題である.カルデラが形成される前は新地として平坦な平原が広がっていたのだろうか?それとも巨大な成層火山があったのだろうか?現在ある火山は,はるか昔からずっと存在していたものではないし,これから未来永劫まで火山として存在するわけでもない.現在は火山と認識していない地域であっても,遠い将来にカルデラ噴火を起こすことを念頭に置いた研究を行うべきであろう.たとえば,加久藤カルデラに程近い人吉盆地や都城盆地,大口盆地が,加久藤カルデラとどのような共通点を持ち,何が異なっているかは,私自身大変興味深く思っている.


日向灘の大地震と九州地方の地震・火山活動の関連性

山岡耕春(名古屋大学環境学研究科 地震火山・防災研究センター)

破局噴火のプロローグ
 20XX年1月6日午後11時37分、日向灘でマグニチュード7.8の地震があった。奇妙なことに翌日から西に90キロメートル離れた霧島で群発地震が発生した。これは「死都日本」(石黒耀著:講談社)の第1章である。これは小説を面白くするためのフィクションに決まっていると思った方も多いだろうが、実は九州では日向灘の地震と九州内陸の地震活動が連動することが多いのである。日向灘で地震が発生したあとに九州内陸の地震が発生しやすいことは宇津(1999)によって指摘されているが、山岡・ほか(2002)では日向灘の地震の前にも九州内陸で地震が発生しやすいことも指摘している。

日向灘の地震と九州内陸の地震との統計的関係
 日向灘ではマグニチュード7程度よりも大きな地震が10〜20年に1回発生している。最近発生した比較的大きな地震としては1913年(M6.8)、1929年(M6.9)、1931年(M7.1)、1941年(M7.2)、1961年(M7.0)、1968年(M7.5)、1984年(M7.1)の地震がある。この様な地震を基準として九州内陸の地震の発生頻度をプロットしたのが図である。横軸の0が日向灘の地震が起きたタイミングで、それを基準として九州内陸の地震を半年ごとのヒストグラムとして表している。日向灘の地震を挟んで前と後に明らかに発生頻度が大きくなっていることがわかる。

西南日本の場合
 海溝沿いの地震の後に内陸の地震活動が増加することは、西南日本でも知られている。よく知られている例は1944年東南海地震の後の1945年三河地震であり、そのあとにも1948年に福井地震が発生している。西南日本では、南海トラフ沿いの地震の前にも内陸地震が活発になると言われている(いわゆる活動期)。しかし、それは南海トラフ沿いの地震直後の活動期の後に内陸の地震が抑制される時期が50年程度続くためであり、そのあとに内陸における通常の活動度に復帰したことを活発になったと称しているだけである。(Hori and Oike, 1999)。これは日向灘の地震の場合とは原因が異なっている。

日向灘の場合
 日向灘の場合には、明らかに日向灘の地震の直前に内陸地震の活動度の増加が見られる。1968年の日向灘の地震(M7.5)に先立っては霧島西北のえびの地震(最大M6.1)の発生があった。1984年の地震(M7.1)の前日には雲仙西方の千々石湾でM5.7の地震が発生した。さらに、1929年の日向灘沖の地震(M6.9、5月22日)に5ヶ月先立ち、熊本県の別府島原地溝帯に地震が発生している。この様に、日向灘の地震に先立って九州内陸で頻繁に地震が起きるのはなぜだろうか。一つの仮説は日向灘の地震に先立ってプレート間でスロースリップが起きている考えである。日向灘には比較的小さなアスペリティーがたくさんあることが知られていて、それらのアスペリティーが破壊する時に日向灘の地震が発生する。アスペリティーのまわりは固着の弱い場所でスロースリップが起きやすい。そこでは大きな地震が近づくと加速度的にスロースリップのすべり速度が大きくなると考えられている。日向灘ではアスペリティーに対してスロースリップをおこす領域の比率が大きいために、比較的大きな地震の前のスロースリップの影響を受けて内陸の応力場が急速に変化し、その結果として内陸で地震が発生すると考えられる。

九州では地震予知が出来る?
 そうだとすると、GPSなどで歪みをモニターしていると、日向灘の地震を予知できるのかもしれない。実用的なレベルには達しないかもしれないが、そろそろ地震が起きそうだというようなことは言える可能性がある。今後の観測に期待したい。


大規模火砕流の後に何が起こるか−ピナツボ火山の事例から

井上公夫(日本工営株式会社 コンサルタント国内事業本部)

1.はじめに
 フィリピンには、タール火山やマヨン火山を始めとして、多くの活火山が存在し、噴火の度に大きな火山被害を被っている。ピナツボ火山は1991年に大規模な噴火を起こしたため、日本政府と国際協力事業団(JICA)はフィリピン政府の要請により、火山防災調査を実施した。ここでは、本調査とその後の対策工事の施工管理で明らかとなった火山噴火(大規模火砕流)に伴う地形変化とその後の土砂災害と対応策について説明する。

2.ピナツボ火山噴火後の土砂災害の概要
 ルソン島中部のピナツボ火山は、世界でも20世紀最大規模の噴火を1991年6月に起こし、近隣諸国にまで大量の火山灰を降下・堆積させた。6月15日の最大噴火時には、山頂部を吹き飛ばし、高温の火砕流が周囲の山麓部に厚く堆積した(全噴出量100億m3,そのうち、火砕流は2/3)。上流部に厚く堆積した降下火山灰や火砕流堆積物は、雨期に泥流(ラハール)となって、下流域に流下・堆積した。このため、1994年末までに死者700人以上、建物被害10万棟以上、避難住民247万人以上という大災害になった。死者が比較的少ないのは、USGSとPHIVOLCSによる噴火予知の成功で、噴火前に地域住民を避難させたからである。噴火直後と比較するとかなり穏やかになってきたが、噴火後12年を経過した現在でもなお、ラハールの氾濫地域は拡大しており、今後数十年間はこのような状態が続くものと思われる。
                 図-1 パシグ川中流からみたピナツボ山

3.ピナツボ火山の地形特性  
 ピナツボ火山は、ルソン島北部からミンドロ島に達する西ルソン弧の火山帯に位置しており、マニラから北西に90kmの距離にある。噴火前の山頂高度は1745mであったが、今回の噴火で山頂部が吹き飛び、山頂部は900m低くなった。そして、直径3kmのカルデラ(底の標高850m)が形成され、最高標高も南縁で1527mと低くなった。
 Newhall & Punongbayan(1996)は、火砕流やラハールの堆積状況や放射性炭素による堆積物の形成年代の測定結果から、5万年前からの新期ピナツボ火山の噴火時期を4時期に大きく分けている。ピナツボ火山は、過去に何回もの噴火(成長と陥没,溶岩ドームとカルデラの形成)を繰り返し、その度に大量の降下火砕物を噴出させるとともに、大規模な火砕流を周辺地域に流下・堆積させた。山頂部には標高1500m前後の溶岩ドームが多く存在する。   
 1991年の噴火以前の山頂部は、前回(500年前)の噴火後に形成された溶岩ドームであり、標高1745mにも達する釣り鐘状の山頂部となっていた(ピナツボとは原住民アエタの言葉で『成長する山』を意味する)。残念ながら、500年前の噴火記録は残っていない。
 噴火の度に、大規模な火砕流が周辺の谷地形の中を何回も流下し、谷地形を埋積して平坦な火砕流堆積面が形成された。これらの火砕流堆積物はほとんど溶結しておらず侵食に対して弱いため、豪雨時にラハールとなって下流の平野部に流下した。ラハールは土砂運搬力がなくなると堆積し、いくつもの広大な扇状地を形成した。その後、火山活動が休止し上流からの土砂流出が減少すると、周囲の河川は再び下刻するようになり、扇状地は広大な段丘面になった。旧クラーク基地の載る平坦面は、2700年前の噴火で形成された。

4.ピナツボ火山東部地域の地形変化
 ピナツボ火山東部火砕流堆積域(EPPFF,East Pinatubo Pyroclastic Flow Field)は、高温の火砕流堆積物が最大層厚200mで14.0億m3も堆積したため、その後の水蒸気爆発(二次爆発)と河川争奪によって、サコビア川とパッシグ川の流域界がめまぐるしく変化した。
・ 1年目(1991年)−流出土砂量2.5億m3
 今回の大噴火によって、EPPFFの河谷は200mも埋積されて平坦になり、従来の水系網は消されてしまった。火砕流堆積物は非常に高温であるため、当初地表面に降った降雨は蒸発して流水とはならなかった。周辺の山腹から流入した雨水は、地下水となって河床で湧出し、高温の火砕流堆積物に接触すると、水蒸気爆発(二次爆発・二次火砕流)を起こし、下流にラハールが流下した。EPPFFの表面には規模の異なる水蒸気爆発の跡が無数に存在し、以前とは異なる水系網を徐々に形成していった。下流のサコビア川やアバカン川では何回もラハールが発生し、都市地域に大きな被害が発生した。1年目のラハールは、細かい降下火山灰が比較的多かったため、山頂から50km下流までの広範囲に流下・氾濫した。
 サコビア川とアバカン川では、山頂から12km下流の地点(アバカンギャップ)で、過去の噴火により何回も河川争奪を起こしている。今回の噴火前には、落差20〜30mの風隙(Wind gap)となっており、アバカン川はほとんど水が流れず、30〜50mの幅広い谷地形となっていた。噴火前のアバカン川の川沿いには、サパンバトの集落やアンヘレスの市街地が続いていた。しかし、ラハールが風隙を乗り越え、アバカン川を何回も流下したため、上記の集落や市街地は大きな被害を受け、多くの人家や橋が流された。
11月以降の乾季になると、ラハールの発生はほとんどなくなったため、比国公共道路事業省(DPWH)では日本政府の援助も受けて大規模な災害復旧工事を開始した。 
・ 2年目(1992年)−流出土砂量1.2億m3
 前述の砂防ダムが完成してまもなくの4月4日(1週間程強い雨が降り続いていた)に、アバカンギャップの1km上流のサコビア川で大規模な二次爆発が発生した。この時には、まだ近くに工事関係者がいたが、ほとんど音が聞こえないうちに1.0〜1.5kmの噴煙柱が上がり、東側斜面に降灰した。この二次爆発を起因として大規模なホットラハールが発生し、完成したばかりの砂防ダム(6基)をほぼ完全に埋積し、5m程河床を上昇させた。しかし、これらの砂防ダムの効果により、大きな被害は発生しなかった。その後、アバカンギャップで河川争奪が起こってサコビア川方向にすべてのラハールが流れるようになった。その後、サコビア川上流部で二次爆発が何度も発生してラハールが発生した。ラハールは国道3号線を越えてバンバン川右岸側の2000haの地区に氾濫し、多くの人家が被災した。DPWHでは、乾季になるとにサコビア川に高さ5m,長さ6kmの堤防を建設した。

                図-2 ピナツボ火山周辺の噴火災害図(PHIVOLCS,1991)   

・ 3年目(1993年)−流出土砂量1.2億m3
 3年目の雨季になっても、サコビア川上流部で二次爆発が起こり、ラハールが何回も発生した。特に、10月4,5日の台風の襲来によって、大規模な二次爆発とラハールが発生した。ヘリ観察によれば、大規模な二次爆発によって、サコビア川上流部が河川争奪され、パッシグ川方向に流れるようになり、パッシグ川下流で大きな被害が発生した。DPWHでは、砂防ダムや堤防の補修工事を行い、私たちJICA調査団の調査も11月から開始された。
・ 4年目(1994年)−流出土砂量1.37億m3
 4年目にはサコビア川流域のラハールはほとんどなくなったが、パッシグ川では6月頃から大規模な二次爆発が何回も発生した。このため、二次火砕流がパッシグ川の河谷を50m〜100mもの深さで埋めてしまい、流域変更して左支川の方向に流下するようになった。豪雨の度ごとに高温のラハール(Steaming Laharと呼ばれた)が湯気を上げながら流下した。
 1994年8月末には、パシグ川の河床が最も上昇し、広範囲に土砂が堆積した。元のパッシグ川本川を流下した二次火砕流は右支川を堰止め、大きな天然ダムを形成した。この天然ダムは9月22日の台風襲来により決壊し、ラハールはパッシグ川下流30kmの範囲まで広範囲(大学のあるバコロールまで)に堆積し、多大の被害を与えた。
 二次火砕流の堆積物が水蒸気爆発を起こす三次爆発の地区もあった。それだけ、3年半経過しても、一次火砕流だけでなく二次火砕流堆積物も非常に高温であった。
・ 5年目(1995年)−流出土砂量0.45億m3
・ 6年目(1996年)−流出土砂量0.33億m3
・ 7年目(1997年)−流出土砂量0.31億m3
・ 8年目(1998年)以降
 1998-89年には2-3個の中規模台風が襲来したが、降雨量は少なく、大規模なラハールは発生しなかった。砂防施設やバンバン橋の建設など、日本の援助工事は順調に進んだ。
 2000年の雨季には、2個の台風襲来により、20年確率以上の豪雨があったため、それまでに完成していた砂防施設はほとんど埋積してしまった。しかし、ラハール堆積物(750万m3)は砂防施設付近にとどまり、被害はほとんど発生しなかった(砂防施設の効果)。
 この時期の火砕流堆積物はほとんど常温となり、二次爆発を起こすことはなくなったが、今後も降雨の状況によりラハールとなって、氾濫堆積する可能性が高い。
 
5.Pinatubo火山の火口湖の水位上昇と決壊
 噴火直後の火口底の標高は845mであったが、次第に水位は上昇し、2000年の湖面水位は950mと100〜110m上昇し、2億m3の湖水がカルデラ内に溜まっていると考えられた。カルデラ壁で一番低いのは、ブカオ川(北西)方向のマラノットノッチ(鞍部)である。水位が上昇し、湖水が溢れるとすれば、マラノット川からブカオ川方向へラハールが流下する危険性がある。
 PIVOLCSの観測によれば、98年5月7日に鞍部の余裕は45mであったが、99年4月に27m,2000年3月に18m,6月に16m,11月には10mとなり、1雨季毎に10m以上上昇している。このままの水位の上昇が続けば、1-2年後には鞍部を越流し、下流域のブカオ市などに大きな被害の発生が危惧された。

             図−3 山頂火口の湛水状況(1995,2000)

 ブカオ川の河床縦断面図によれば、ピナツボ火山の山頂は1750mであったが、91年6月の噴火後、カルデラ底が845mとなるほど、山頂部が吹き飛んだ。噴火以前からブカオ川の上流のマラノット川は、山頂まで伸びていた。
 噴火後もこの部分がマラノットノッチとして残り、標高960m前後の鞍部となっていた。したがって、この鞍部より下流にもマラノット川の河道が残っており、火口湖の水が溢れても急激に火口の水位が下がる可能性は、比較的少ないと判断された。
 2002年7月の台風襲来により、9日間で740mmという豪雨があり、火口湖は決壊した。その結果水位が23m下がり、6500万m3の湖水が溢れ、1.6億m3のラハールが発生したと推定されている。しかし、ピナツボの北東部は1991年の噴火で火砕流が厚く堆積し、その後復興されていなかったため、大きな被害は報告されていない。

             図−4 決壊後の山頂火口(2002.9)
                        
6.長期的な土砂流出の傾向
 以上、ピナツボ火山噴火後12年間の地形変化と土砂災害、及びその後の復旧対策について説明した。大極的にみれば、ピナツボ火山東部流域の土砂移動量は減少していき、次第に安定化していくものと考えられる。
 Pierson・他(1992)は、インドネシアのガルングン火山や米国のセントヘレンズ火山での経験をもとに,1991年に噴火したピナツボ火山について、噴火後のラハール流出に関する将来予測を行っている。それによれば、未固結の火砕流堆積物(67億m3)のうち、噴火後10年間で流出する土砂量は38%(25億m3)程度で、その大部分が下流の扇状地に堆積するとした。廣瀬・井上(1999)は、JICA調査の結果として、EPPFFの地形変化はPierson・他(1992)の侵食速度よりも速く、EPPFFに堆積した火砕流堆積物(14億m3)のうち、噴火後7年間で半半分以上の53%(7.4億m3)が流下したことを明らかにした。図−4に各年の土砂流出量をプロットすると、Pierson・他(1992)の推定幅の中に納まっている。

             図−4 噴火後の土砂流出量(Pierson・他, 廣瀬・井上,1999)

7.むすび                 
 日本にも、カルデラ湖や火砕流台地,ラハールの氾濫原を持つ火山は多く存在するが、このような規模の噴火を想定したハザードマップは作られていない。ピナツボ火山のような規模の噴火が発生した場合の対応策(警戒・避難・住民移転)を考えておくべきであろう。
 本報告をまとめるに当たっては、米国地質調査所(USGS)やフィリピン火山地震研究所(PHIVOLCS)の調査担当者から多くの参考文献を頂くとともに、貴重な観測資料を借用して解析させて頂いた。このような貴重な調査の機会を与えて頂いたフィリピン政府や日本政府、国際協力事業団の関係各位に御礼申し上げます。

引用・参考考文献
小宮 学(1992):ピナツボ火山の噴火、気象年鑑1992年版,160-164.
原 義文(1992):ピナツボ山噴火後の土砂流出、新砂防,44巻6号,332-335.
Pierson,T.C.,Janda,R.J.,Umval,J.V., and Daag,A.S.(1992):Immediate and longterm hazards from lahars and excess sedimentation in rivers draining Mt.Pinatubo, Philippines. U.S.G.S. Water-
Resouces Investigation Report, 92-4039,p.37.
井上公夫・大野広之・渡辺正幸・大石道夫・広瀬典昭・井上美公(1994):ピナツボ火山噴火後の地形変化と防災計画調査、新砂防,47巻2号,52-60.砂防学会発表要旨,平成6,7,8,10年度参照.
Ono,H.(1995): Sabo Works: Challenge and Response.JICA, 128p.
Newhall,C.G., and Punongbayan,R.S.,(1996):FIRE and MUD, Eruption and Lahars of Mount Pinatubo, Philippines. PHIVOLCS, University of Washington Press, 1126p.
日本工営M・M建設技術研究所(1996):フィリピン共和国ピナツボ火山東部河川流域洪水および泥流制御計画調査報告書、国際協力事業団
広瀬昭典・井上公夫(1999):ピナツボ火山噴火後の地形変化と土砂災害、地形,20巻4号,431-448.
広瀬典昭・井上公夫・井上美公・大畑英夫(2003):ピナツボ火山噴火後の10年間の地形変化と土砂災害、こうえいフォーラム,11号,1-13.
ディック・トンプソン(2000),山越幸江訳(2003):火山に魅せられた男たち,―噴火予知に命がけで挑む科学者の物語―,地人書館


縄文の灰神楽 −鬼界アカホヤ噴火で何が起こったか−

成尾英仁(鹿児島県立武岡台高等学校)

1 はじめに
 南九州では地表近くに赤橙色を帯びた“アカホヤ”と呼ばれる薄い火山噴出物(テフラ)が堆積しているが,これは鹿児島県薩摩半島の南方約30kmの海底に存在する鬼界カルデラから噴出したものである.噴火の時期は約7,000年前(縄文時代早期)で,南九州では独自の発達した土器文化が展開し,さらに中北部九州まで範囲を拡大していた頃である.南九州では噴火後この文化は一時的に停滞・断絶し,自然環境の回復を待って北部九州から再流入している.
 本講演では,この鬼界アカホヤ噴火に伴って大地震が発生したこと,火砕流により地層が横転するなど多様な地質現象が生じたこと,噴火の影響で新しい文化が停滞・断続したことを紹介する.

2 鬼界アカホヤ噴火の堆積物
 鹿児島県薩摩半島南部と大隅半島南部,種子島・屋久島地方で観察されるアカホヤ層は,下部からプリニー式噴火による幸屋降下軽石,火砕流噴火による幸屋火砕流堆積物,それに伴った鬼界アカホヤ火山灰の順に堆積している(町田・新井1978).
 降下軽石は鬼界カルデラから北東方向に噴出し,大隅半島南部では約50cmの厚さがある.これをよく発泡した軽石の混じった火砕流堆積物が直接覆っている.厚さは数十cmとごく薄いが,鬼界カルデラから約100km離れた地点まで分布しており,厚さに比べ広く分布するタイプの火砕流である(宇井1973).鬼界アカホヤ火山灰は火砕流堆積物に連続しているが,これは火砕流に伴って上昇した噴煙柱などから降り注いだもので,日本列島の西半分を覆っている(町田・新井1978).これらの堆積物の間には浸食された痕跡や風化面・腐植土などは見られず,一連の噴火によるものと考えられる.

3 噴火途中で発生した大地震
 薩摩半島中南部と大隅半島中部,種子島・屋久島地方では,砂や礫が脈状になって地層中に入り込んでいる現象が観察され,しかもそれらはアカホヤ層まで達している(成尾・小林2002).
 地震の時には震度5以上の揺れで砂や礫が噴き出す“液状化現象”が起こることがあるが,地層中に見られる砂脈や礫脈はその痕跡であり(寒川1999),鬼界アカホヤ噴火の際に大地震が発生したことが明らかになった.
 詳細に観察すると,薩摩半島中南部と大隅半島中部では一部に礫脈を伴う砂脈が発達し,種子島・屋久島地方では礫脈が発達することがわかってきた.
3-1 砂脈
 砂脈は薩摩半島中南部と大隅半島中部の広い範囲で認められ,それらはいずれも姶良カルデラ起源の入戸火砕流堆積物がつくる台地(シラス台地)上に発達し,一露頭では数m〜十数mごとに存在する.砂脈の幅は最大50cm程度,高さは最大十数mに達する.砂脈は入戸火砕流堆積物の二次堆積物層から派生しており,下部には拳大以下の軽石や礫を多量に含み,上部には組粒砂・細粒砂が詰まっている.
 砂脈を詳細に観察すると,・上部に崩落したローム破片が混入し鬼界アカホヤ火山灰に覆われるもの(タイプ・)と,・上部まで砂が詰まり鬼界アカホヤ火山灰中に噴き出もの(タイプ・)の二つに区分される.砂脈はほぼ垂直に上昇するが,ときには斜めに上昇するものや枝分かれするものも存在する.
3-2 礫脈
 種子島・屋久島地方では約10万年前までに形成された数段の段丘が発達し,それらの面には段丘礫層が薄く堆積し,礫脈は通常この礫層から派生する.礫脈は種子島のほぼ全域,屋久島の東半分に認められ,砂脈同様,一つの露頭では数m〜十数mごとに存在する.礫脈の幅は最大50cm程度,高さは最大4m程度である.噴き出した礫の中には長径50cmに達するものがある.礫脈は直線状のみならず枝分かれや合流するものもある.また,薩摩半島中部にあるシラス台地上でも数ヶ所で噴礫脈が認められ,最大30cmに達する礫が約2mの高さ上昇する.
3-3 引き続いた2回の大地震
 種子島・屋久島地方では礫脈はアカホヤ層直下に達している.詳細に観察すると火砕流堆積物に覆われており,それを貫くことはない.また,屋久島やその西隣にある口永良部島では,地震によると考えられる地割れの中に降下軽石や火砕流堆積物の一部が入り込む例がある.これらの事実から地震の発生は火砕流噴火の直前であったと推定される.このことは,薩摩半島中南部や大隅半島中部で鬼界アカホヤ火山灰に覆われたタイプ・の砂脈が存在すること,すなわち,砂脈の形成と火山灰の降下の間には若干の時間間隙があったことと符合する.
 薩摩半島中南部や大隅半島中部では,鬼界アカホヤ火山灰層内で横方向に広がるタイプ・の砂脈が多数存在し,地震の発生が火砕流噴出以降であったこと,すなわち火砕流に伴う火山灰の堆積途中であったことを明確に示している.
 地震に伴う液状化現象では噴砂が長時間続く例が知られているが,主要な噴砂は30分程度で終了している(吉見1991).もし,鬼界アカホヤ噴火に伴う地震が火砕流噴火前の一回であったとすると,火砕流が海を越え約100km離れた地点に達するまで液状化が継続していたことになる.しかし,露頭での観察からは二つの現象の発生時間に差があり,噴火に伴い地震が2回発生したと考えられる.

4 火砕流による地層の横転
 薩摩・大隅両半島の南部では,地層が部分的にめくれ数10°傾く現象が認められる.大隅半島南部にある大中原遺跡ではその顕著な例が多数検出されたが,ここではアカホヤ層をはぎ取った平面に,直径1〜3mで円形ないしは楕円形をした地層の変形が数mごとに点在していた(成尾,1999).これらを垂直方向に切断すると,地層が数10°傾いている様子が観察され,典型的な例では降下軽石層以下の深さ2mまでの地層が横転し,それらが火砕流堆積物・火山灰に覆われていた.しかも,これらの地層横転の方向を測定すると,そのほとんどが南から北であった.また,横倒しになった炭化木も検出されたが,それは降下軽石の上に横たわり,火砕流堆積物内部で炭化し,鬼界アカホヤ火山灰に覆われていた.
 薩摩・大隅両半島の南部では,地層の横転と火砕流堆積物中の炭化木の分布は重なっていることから,各地で観察される地層の横転は,火砕流の流走により樹木が横転したことで,樹根と一緒に地層がめくれ上がり形成されたと考えられる.その際,火砕流直前の地震で地表面が激しく揺すられ,より倒れやすくなっていた可能性も考えられる.
 杉山(2002)は植物珪酸体の消長にもとづく鬼界アカホヤ噴火前後の植生変化を調べ,薩摩・大隅両半島の南部では噴火前にはシイ属,クスノキ科を中心とした照葉樹林が卓越するが,噴火後にはススキ属主体の草本類が卓越するようになることを明らかにした.この範囲は火砕流堆積物に直接覆われた地域であり,地層横転や炭化木の存在も考慮すると,火砕流による大規模な植生破壊が生じたと推定される.一方,薩摩・大隅両半島の中部以北では,アカホヤ前後で植生の変化は認められず,地点によっては照葉樹が増加する傾向も指摘され,これらの地域では大規模な植生破壊は生じなかったとしている.ただ,長岡ほか(1991)は宮崎平野でアカホヤの二次堆積物中に多量の植物遺体が存在することを指摘しており,松下(2002)はこれらの地域では植生破壊がモザイク状に生じた可能性を述べている.

5 停滞・断絶した南九州の縄文文化
 最近の南九州における考古遺跡の発掘により,縄文時代草創期(約1万年前)から縄文時代早期には,列島に先駆けた文化が存在したことがわかってきた(新東1997).この先進的文化は鬼界アカホヤ噴火の前には九州全域に展開し,新しい轟式土器文化が誕生しつつあった.
 考古遺跡の消長をみると,火砕流に襲われた地域では鬼界アカホヤ噴火以降少なくとも数百年以上にわたって遺跡が出現せず,人類活動にも火砕流の影響があったことは確実である.
 火砕流の到達範囲のすぐ外側では,同一系統の遺跡が継続し文化は断絶しなかったという考え(_畑2002)と,アカホヤ層上下の土器は全く別系統のものであり,文化は完全に断絶したという考え(新東1997)とがある.ただ,_畑(2002)も鬼界アカホヤ噴火直後には,植物性食糧の加工具である石皿や磨石が極端に減少することから,これらの地域の人類活動は大きなダメージを受けたとしている.
 これまでの遺跡の発掘成果によると,停滞はするものの南九州北部より北側では鬼界アカホヤ噴火後も文化が継続しており,火砕流に襲われた南九州中・南部に自然が回復するのを待って,それらの地域から徐々に南下していったと考えられ,火砕流に襲われた地域全体に人類が広がり定着するのは,約5,000年前の曽畑式文化の時代からとされる(_畑2002).

6 おわりに
 約7,000年前に鬼界カルデラで起こった噴火は,この1万年内で最も大規模なものであった.最近の調査により噴火の最中に地震が発生したこと,火砕流の流走に伴い多様な地質現象が生じたことなどが明らかになってきた.
 しかし,鬼界アカホヤ噴火についてはまだ多くの課題が残されている.今回の報告に関連したものとしては,地震に伴い津波が発生したのか,地震のマグニチュードはどれくらいであったのか,広範囲で噴礫をもたらした地震はカルデラ形成と関係するのか,など多くの解決すべき点がある.また,火砕流の到達範囲外での人類に与えた影響に関しては,はたして火砕サージが襲ったのか,そうであれば範囲はどこまでであったのか,具体的にどのような影響を与えたのかなどがある.
 これらを解決するためには地質学や考古学のみならず,古植生学や動物学など多分野からの研究が必要である.

文 献
_畑光博(2002)第四紀研究,41,317-330
町田 洋・新井房夫(1978)第四紀研究,17,143-163
松下まり子(2002)第四紀研究,41,301-310
長岡信治・前杢英明・松島義章(1991)第四紀研究,30,59-78
成尾英仁(1999)鹿児島県立博物館研究報告,18,79-88
成尾英仁・小林哲夫(2002)第四紀研究,41,287-299
新東晃一(1997)「縄文と弥生」(第11回「大学と科学」公開シンポジウム組織委員 会編),40-53
寒川 旭(1999)地学雑誌,108,391-398
杉山真一(2002)第四紀研究,41,311-316
宇井忠英(1973)火山,18,153-168
吉見吉昭(1991)砂地盤の液状化(技法堂出版)


大規模カルデラ噴火のリスクと予測可能性

高橋正樹(日本大学文理学部地球システム科学科)

大規模カルデラ噴火のリスク
 日本列島には中・南九州と東北地方十和田以北から北海道にかけて,15万年前以降に活動した大規模珪長質カルデラ火山が分布している.中・南九州では,鬼界,阿多,姶良,阿蘇,そして東北・北海道では,十和田,洞爺,支笏,屈斜路,摩周など である.これらのうち,1回の噴出物の量が100km3を越える超巨大噴火を行ったことのあるカルデラ火山としては,鬼界,阿多,姶良,阿蘇,洞爺,支笏,屈斜路があげられる.こうした超巨大噴火では,カルデラ近傍の地域が大規模な火砕流で破壊され 厚い火砕流堆積物で埋積されるばかりではなく,日本列島のきわめて広範な領域が火山灰で覆われることになる.町田 洋らによれば,例えば,6千3百年前の鬼界カルデラの噴火では,近畿地方でも厚さ20cmに及ぶ火山灰が堆積している.2万5千年前の姶 良カルデラの噴火では,関東地方でも10cm以上の火山灰が堆積している.さらに規模 の大きな約8万年前の阿蘇カルデラの噴火では,驚くべきことに北海道の東部でも15cmあまりの火山灰が堆積しているのである.6千3百年前の鬼界カルデラの噴火では,縄文遺跡の調査から,噴火によってそれまで九州で栄えていた九州貝殻文系土器 文化や塞ノ神式土器文化あるいは九州から西日本で繁栄していた押型文系土器文化が 絶滅し,替わって朝鮮半島から曽畑式土器文化が,また東日本から貝殻条痕文系土器 文化が流入していることが明らかにされている.このことは,九州や西日本の土器文化を担っていた人々が絶滅し,かわって,朝鮮半島と東日本から新たな土器文化を携えた人々が移り住んできたことを意味している.こうした規模の噴火が現在の日本列島で生じた場合,その被害にはほとんど想像を絶するものがある.火砕流による直接の被害や犠牲者がでることはもとより,全国的規模でのライフラインの破壊,食料生産の停止,経済活動への壊滅的打撃など,単なる自然災害というよりは,日本列島に核爆弾が数発落とされ,国土が直接の戦場と化した場合に近いことになるであろう. この場合,文字通り日本国の存亡を掛けた危機管理対策が必要となる.このあたりの事情は「死都日本」に描かれている通りである.確かに巨大噴火はきわめて稀な出来事である.しかし,稀だからといって無視しておいてよいというものでもない.こうした破局的噴火災害による被害の見積もりやそれに対する対応策は,国家的レベルで 考えておく必要があるし,またそうすることが火山国日本の行政や政治の責務でもあるだろう.

大規模噴火の予測可能性
 こうした大規模カルデラ火山の超巨大噴火は,はたして予測可能なのだろうか.文明社会を開始して以来,地球上の人類はこうした超巨大噴火を経験したことがない. したがって,どのような前兆現象が超巨大噴火のさきがけであるのかについての知識はもちあわせていない.しかし,いつどこで超巨大噴火が生ずるのかまったく検討もつかないということでもない.超巨大噴火は特定の火山地域から繰り返し生ずることが普通だからである.日本列島でいえば,すでに述べたように,最近50万年間に超巨大噴火を繰り返している大規模カルデラ火山は,中・南九州および北海道西部・東部に限られている.したがって,これらの地域以外で超巨大噴火が生ずる可能性はきわめて低いといえる.超巨大噴火を引き起こすためには,地下浅所に巨大な珪長質マグマ溜りの存在が必要である.地震波探査などによって直接的にこうしたマグマ溜りの 存在を確認できればよいが,そうでなくとも間接的に超巨大噴火の可能性を予測する方法がないわけではない.
 まずは超巨大噴火後の経過時間の長さである.超巨大噴火の噴火間隔は数万年にお よぶ.したがって,前回の超巨大噴火からの経過時間が長ければ長いほど,噴火が生 ずる確率は高くなる.「悪い奴ほどよく眠る」というわけである.次に後カルデラ火山丘の配置である.一般に火山の火口配列はその場所の地殻応力場に支配され,地下の開口割れ目の形状を反映して直線的となる.しかし,地下浅所に巨大なマグマ溜りがあると,その影響を受けて直線性の悪い分布や環状の分布を示すようになる.さら に,後カルデラ丘を形成する火山岩の化学組成も重要である.玄武岩や苦鉄質安山岩が噴出している場合には,地下浅所に巨大な珪長質マグマ溜りは存在しないことにな る.こうした基準で超巨大噴火を起こす可能性のある大規模カルデラ火山をチェックしてみよう.
(1) 鬼界カルデラ地域:鬼界カルデラにおける最新の超巨大噴火は6千3百年前の幸屋火砕流・アカホヤ火山灰の噴出である.この時には170km3以上の火砕物が噴出した.ひとつ前の超巨大噴火は約10万年前に生じ,約150km3の火砕物が噴出している. 超巨大噴火の噴火間隙が約9万年程度とすると,次の噴火までは,まだかなりの時間があることになる.しかし,薩摩硫黄島以外にも,海底カルデラ内には,流紋岩質の溶岩ドームと思われる複数の後カルデラ丘が直線性の悪い配列を示しており,依然としてかなりの量の珪長質マグマが地下に存在している可能性は高い.
(2) 阿多カルデラ地域:約10万年前の超巨大噴火では,300km3を超える阿多火砕流などの火砕物が噴出している.約24万年前には100km3を超える阿多鳥浜火砕流が噴 出しており,噴火間隙は10数万年ほどになる.とすれば,そろそろ次の超巨大噴火の 射程圏内に入っていると考えてもおかしくはない.後カルデラ火山としては池田湖カ ルデラがある.池田湖カルデラは5千7百年前に5km3におよぶ火砕流などの火砕物を噴出する大型噴火をしており,溶岩ドームやマールなどの火口配列もやや直線性が悪くしかも珪長質である.すぐ南に位置する開聞岳は4千年前以降に形成された苦鉄質火山岩からなる小型成層火山なので,そこまでは地下の珪長質マグマ溜りはおよんでいないと考えられるが,池田火山は新たな超巨大噴火の先駆的活動の可能性もあり,要注意のカルデラ火山地域である.
(3) 姶良カルデラ火山地域:約2万5千年前の超巨大噴火では,大隅降下軽石・妻屋火砕流・入戸火砕流・AT火山灰など,あわせて450km3を超える大量の火砕物を噴出 した.5〜7万年前には,岩戸火砕流などの10数km3におよぶ火砕物を噴出する大規模噴火を行っており,また9万年前にはやはり10km3に達する火砕物噴火が生じている. 噴火間隙が2〜4万年とすると,そろそろ次の巨大噴火が生じてもおかしくないが, 2万3千年前以降安山岩〜デイサイト質の桜島火山が噴火を続けており,その可能性は少ないかもしれない.ただし,数km3〜10数km3程度の大規模噴火を行う可能性は否定できない.
(4) 加久藤・小林カルデラ地域:「死都日本」の舞台となった火山地域である. 52万年前に大量の火砕物を噴出して小林カルデラが形成された後,約33万年前に加久 藤火砕流を初めとする100km3以上の火砕物が噴出して加久藤カルデラが形成された. 超巨大噴火の噴火間隙が20万年程度であるとすると,すでに生じていてもおかしくないはずだが,33万年前以降15万年前まで古期霧島火山群が,その後10数万年の活動休止期をおいて,主として安山岩質の霧島火山群の活動が継続しており現在に至っている.霧島火山群の火口分布はやや直線性に乏しく,しかも広範囲にわたっている.歴 史時代の噴火は,御鉢,新燃,硫黄山と約10kmの距離もわたって分布した火口から相次いで起きている.各火山のマグマ溜りが独立した小規模なものであるときは超巨大噴火の可能性は少ないといえるが,もし連続したものであるとすると,かなりの規模 のマグマ溜りが存在する可能性は否定しきれない.その場合には「死都日本」にあるように要注意の火山域となる.地下のマグマ溜りの拡がりに関する探査が必要であろ う.
(5) 阿蘇カルデラ地域:阿蘇カルデラ最新期の超巨大噴火は約8万年前の阿蘇4火砕流の流出であり,約600km3を超える膨大な量の火砕物を噴出している.ひとつ前の超巨大噴火は,約13万年前の阿蘇3火砕流の流出で,150km3を超える火砕物の噴出が あった.5万年程度の噴火間隙を考えると,そろそろ超巨大噴火が起きてもおかしく ないはずだが,8万年前以降は中央火口丘の活動が続いており,しかも最近6千年間 は,ほぼ直線的な配列を示す火口群から主に玄武岩〜苦鉄質安山岩の噴出が行われていて,地下浅所に巨大な珪長質マグマ溜りの存在する可能性は少ないものと思われ る.
(6) 洞爺カルデラ地域:洞爺カルデラでは,10〜12万年前に放出量が170km3を越 える洞爺火砕流および降下火砕物の噴出があった.その後,4〜5万年前に中島中央火口丘の噴出があり,さらに2万〜1万5千年前に,カルデラ南縁から玄武岩〜安山岩質の小型成層火山である有珠火山の形成が始まり,5千年前には山体崩壊して活動を停 止した.有珠火山の最新の活動は17世紀になってから始まり,7回のやや規模の大き な噴火を繰り返して今日に至っている.噴出しているマグマはデイサイト〜流紋岩質 であり,火口配列はやや直線性がよい.前回の超巨大噴火からかなりの時間が経過していることを考えると,17世紀以来の噴火が新たな超巨大噴火の先駆けである可能性も否定しきれないので,地下浅所のおけるマグマの拡がりについて探査しておく必要 があるかもしれない.
(7) 支笏カルデラ地域:支笏カルデラでは約4万年前に総体積が200km3を越える支 笏火砕流および降下火砕物の噴出があった.2万年前以降,カルデラ北縁で恵庭火山が,カルデラ南縁で不風死火山および9千年前以降は樽前火山が活動を続けており, 何れも安山岩を主体とする中型〜小型の成層火山である.2万年間にわたって安山岩の活動が続いており,地下に巨大な珪長質マグマ溜りが存在する可能性は小さいもの と思われる.
(8) 屈斜路カルデラ地域:最後の超巨大噴火が3万〜3万4千年前(噴出量100km3以 上)に生じており,その前が10万〜13万年前(噴出量150km3以上)である.7万〜9万年前に10km3を越える大型噴火を行っているので,3万〜4万年に1回の割合で大規模噴火が生じていることになる.噴火間隔からいうと,そろそろ大規模噴火が起きてもおかしくない.1万2千年前以降,後カルデラ火山丘であるアトサヌプリ火山が活動を続けているが,火山体の分布は環状に近く,しかも流紋岩質である.以上のことから, 屈斜路カルデラ地域は要注意の火山地域といえる.地下のマグマ溜りの拡がりに関する探査が必要であろう.
 このように,噴火後の経過時間や後カルデラ火山丘の性質からみると,超巨大噴火が生ずるポテンシャルは,屈斜路カルデラ地域で最も高く,次いで阿多カルデラ地 域,最も小さいのは阿蘇および支笏カルデラ地域ということになろう.鬼界や姶良カルデラ地域も可能性は小さいかもしれない.ダークホースは「死都日本」の舞台となった加久藤・小林カルデラ地域や洞爺カルデラ地域である.しかし,火山噴火については不明の点が依然としてあまりにも多い.可能性が小さいと考えた地域からある日突然超巨大噴火が生ずるということを,あながち否定することができないのもまた現実である.


現代都市への破局噴火リスクの評価

早川由紀夫(群馬大学教育学部)

 九州・屋久島の近くの鬼界カルデラで7300年前に起こったアカホヤ噴火は,南九州の縄文文化に立ち直れないほどの深刻な打撃を与えた.地層の中から出土する縄文土器の形式が,アカホヤ火山灰の上下で激変する.土器形式の違いは文化の違いすなわちひとの集団の違いを意味する.アカホヤ噴火によって南九州の文化は滅び,噴火後しばらくしてから別の文化をもった縄文人がその地に入植したのだ.これはまさに破局噴火である.
 アカホヤ噴火のマグニチュード(噴出量の常用対数;以下M)は8.1だが,M7.0を超える噴火を破局噴火と呼んで,過去にさかのぼって数えてみよう.日本では,過去12万年間に10回そのような噴火が起こった.世界に目を向けると,過去1万年間に8回起こった.
 日本における最近の破局噴火は上に述べた7300年前のアカホヤ噴火である.このことは,日本に文字文化が移入されて以降の最近1500年間,このような破局噴火がひとつも起こらなかったことを意味する.私たちの祖先は,現代日本に生きる私たちに破局噴火の記憶を申し送りしていない.
 世界における最近の破局噴火は,1815年にインドネシアで起こったタンボラ火山の噴火(M7.1)である.この噴火のあとしばらく,ヨーロッパの記録に乾いた霧とかすんだ太陽(dim sun)の記述が多くみられる.その翌年の1816年は,夏がなかった年(the year without a summer)としてよく知られている.1816年夏のイングランドの気温は平年より1.5度低かった.この年,シェリー(Mary Shelly) が "Frankenstein" を書き,バイロン(George Byron)が "Darkness" という詩をつくった.噴火現場のインドネシアでは,何万もの人が餓死したという.
 10世紀に起こった白頭山の噴火(M7.4)は渤海国の滅亡との関係が,3600年前にエーゲ海で起こったサントリニ火山の噴火(M6.8)はミノア文明の衰退との関係が,しばしば議論される.
 極端な人口集中の場である現代都市に住む人々にとって,破局噴火の危険はいかほどであろうか.これを数量的に把握するため,同じ噴火がいま起こったときに失われる人命の概数をその噴火の破壊力と呼び,破壊力を噴火の発生年代で割ったものを危険度と呼んで以下に考察しよう.
 たとえば,8万7000年前に阿蘇カルデラから発生して鹿児島県を除く九州全県と山口県を高温の熱風で飲み込んだ阿蘇4火砕流の噴火(M8.4)の破壊力は1100万であり,危険度は126である.2万8000年前に姶良カルデラから発生して鹿児島県・宮崎県・熊本県に広いシラス台地をつくった入戸火砕流の噴火(M8.3)の破壊力は300万であり,危険度は107である.危険度は,破壊力で示される死者数を1年あたりにならしたものと考えてよい.
 破局噴火の発生頻度は日本全体で1万年に1回程度,全世界でも1000年に1回程度と低いが,近くに都市をもつ火山でそれが発生すると数十万から数百万の人命が瞬時に失われる.火砕流に飲み込まれた地域の住民がひとり残らず犠牲になる点が,地域住民のふつう数%以下だけが犠牲になる地震動災害と大きく異なる.
 危険度によって示される1年あたりの死者数は(地震動災害による死者数とくらべて)けっして小さくないから,これから発生する大規模火砕流を恐れることを杞憂にすぎないと考えたり,その危険を評価したり監視することに投資するのは無意味だと考えるのは当たらない.
 過去に起こった大規模火砕流の堆積物は火山麓に広い平坦面をつくって人々に生活の基盤を提供した.そうしてつくられた土地の上に建設された現代都市の生活者にとって,その火山の恵みは当たり前すぎて日々の生活では忘れがちだろう.しかしひとたび火山に異常が発生したら,自分たちの生活基盤がそもそも火山と不可分の関係にあったことを思い出さなければならない.

   表 現在の都市をかつて襲った火砕流噴火の例


低頻度大規模災害リスクをどう伝えるか

吉川肇子(慶應義塾大学商学部)

1.避難しない人々
 自然災害に対する人々の考え方や行動を調べた研究の成果は、身近に起こりうる災害に対して、人々がきわめて鈍感であることを明らかにしている。災害が起こると警告されてもそれに備えることはきわめて少ない。こうした傾向は心理学的には非現実的な楽観主義と呼ばれる。
 この傾向は災害が実際に起こった時も同様である。人々は災害時には当局からの指示にしばしば従わず、避難を行わない。このことが起こる理由として、自分の持ち物や財産を気にすること、現実にはほとんど起こらない略奪を気にすること、公共の避難所に対する悪印象、避難のための手がかり(目印など)が見つけられない、知らせが届かない人々が一定数いる、などがあげられる。
 災害に出くわして逃げまどう人々の姿をわれわれはしばしば映画で目にする。この記憶があるからか、災害というと「パニックが起こる」と思われていることが多い。しかし、現実にはパニックが起こることはきわめてまれである。よりありそうな現実は、先に述べたように、災害に備えることもないし、出くわしてもなかなか避難しない人々の姿である。
 もちろん、パニックが全く起こらないというわけでない。パニックが起こる条件として、以下の3つがそろうことが指摘されている。
 ・身近に迫った重大な危険があると感じること
 ・早く脱出しなければ使えなくなってしまう限られた数の脱出ルートがある
  と感じること。
 ・状況についての情報がないこと。
 このような条件が3つともそろうことはそれほどないだろうから、パニックが起こることを前提とするよりも、起こらないことを前提として災害に対する計画を立てた方が現実的である。
 一方で3つの条件がそろう可能性が予測できる災害の場合には、どれか1つでも条件が整わないようにあらかじめ計画しておくということが重要になる。たとえば、脱出ルートが数少ない場合には他のルートを確保する、情報が途絶しないような仕組みを考える、などである。

2.リスク・コミュニケーションの課題
 1988年にリスク・コミュニケーションのワークショップにおいて、自然災害の領域で解決すべき課題として以下のものがあげられている。
 ・人々の災害に対する意識を高める効果的な方法とはなにか
 ・人々の災害への備えを高める効果的な方法とはなにか
 ・動揺する警報システム(warning system)の立案
 ・もっと信頼してもらえる警報をどのようにして作るか
 ・避難をしてもらうためにはどのような内容やデザインの警報がよいか
 ・避難にしたがってもらうためのもっともよい方法とはなにか
 ・緊急計画立案に人々を巻き込む効果的な方法とはなにか
 ・情報を差し控える時はどういうときか、またその差し控えることはなぜ重要なのか
 ・災害中に関係機関の調整をはかるもっともよい方法は何か
 すでにこのワークショップから15年たっているが、一部では研究は進捗しているけれども、どの課題に対してもまだ解答らしい解答は得られていない。
 低頻度の災害については、ことに困難である。一般には災害経験のある被災者の方が災害に対する備えや避難率が高いことが知られているが、100年に1回というような人の一生に1回あるかないかという災害は、楽観的に見積もられる。このように個人的な経験を持つことのできない頻度の低い災害に対して備えるためには、間接的な経験と、住民を巻き込んだ災害計画と教育との組み合わせが有効であると指摘されている。

3.練習しないことはできない
 教育に関係するが、訓練は重要である。このことは、心理学的にはドライブ理論として知られている。災害に限らず、緊急の状態では人々は一定程度興奮する。この興奮状態では、普段もっともやりなれた行動(ドミナント行動)が起こる。もし、防災訓練などによって、災害時の行動をよく練習してあれば、災害が起こって驚いたり、気が動転したりしたとしても、十分練習された適切な行動を起こすことができる。

4.ひとりの心理学者として「死都日本」を読むと
 1)組織間の調整はうまくいかないことの方がありそうである。なぜなら、災害の規模が大きいほどたくさんの関係者が出てくるし、もちろんその中には事前に想定されなかった集団も登場するからである。
 2)こうしたたくさんの人々が関わる中では、責任が曖昧になったり(社会的手抜き)、意思決定に失敗したり(集団浅慮)などが起こることの方がありそうである。また、過去に多く見られる例としては、災害中に全体の内のどこかのサブユニットが安全の保証をして、そのことが結果的に実現しないため、後に信頼を低下させることが起こっている。
 3)中央集権的なシステムが効果的に機能している。実現すればすばらしいが実現には困難があると思われる。前述の通り、練習してないとできないが、関係者すべてをあらかじめ巻き込んでそれを行うことは容易ではないように思われる。


低頻度大規模災害に国はどう対応するか

渋谷 和久(内閣府防災担当企画官)

1 これまでの防災行政
 我が国は地震、火山噴火、風水害等、多くの災害に見舞われる「災害大国」である。世界の0.25%の国土面積にして、M6以上の地震回数は世界の21%、活火山数も世界の7%にのぼる。(防災白書)
 海溝型の巨大地震は、相模トラフ沿い(関東大震災)で概ね200年に1度、駿河、南海トラフ沿い(東海、東南海、南海地震)で概ね100〜150年に1度の間隔で発生し、その都度大きな被害をもたらしている。
 富士山は宝永の噴火(1707)以降、約300年噴火していないが、それまで何度も噴火を繰り返してきている。いまだに災害が継続し全島民避難が続いている三宅島も、定期的に噴火を繰り返してきていたが、2000年の噴火は記憶に残る過去の噴火とは異なり、カルデラ形成を伴う概ね3000年に1度とも言えるものであったという。我々が現に相手にしている災害ですらも、そういうオーダーのものなのである。
 一方、防災行政の基本的枠組みを規定する「災害対策基本法」(1961年)は、1959年の伊勢湾台風を契機に制定されたもので、戦後の防災行政は、毎年のように頻発する風水害対策に追われるところから始まったといってよい。基本法は、災害対策の第一次的な責任は市町村にあるとし、災害が広域化するに応じて、都道府県や国の関与の度合いが大きくなるという考え方を基本としている。
 基本法は、災害対策を「災害予防」「災害応急対策」「災害復旧」から成るものとしているが、「災害予防」としては、治水対策に代表されるような国土保全事業が大きなウエイトを占めてきた。
 「災害応急対策」の重要性が大きくクローズアップされたのは、1995年の阪神・淡路大震災である。6千人を超す多くの方が犠牲となったこの震災での教訓を踏まえ、災害発生直後の国の対応が、より機動的なものとなるよう、数々の見直しがなされた。
 具体的には、大規模な災害が発生すると、内閣府をはじめとして各省庁の局長級職員が直ちに内閣総理大臣官邸に参集して、関係機関からの情報、防衛庁、警察庁等のヘリコプターから送られてくる被災地の映像や、地震被害早期評価システム(EES)による被害の推計などにより、被害情報を把握、分析し、速やかに総理大臣に報告して基本的な対処方針を決定することとされた。広域的な災害の場合、そこで決定された方針に従い、都道府県等と連絡を取り合いながら、警察庁、消防庁、海上保安庁等による広域的な応援や自衛隊による災害応急対策活動が実施されることになる。
 なお、火山災害については、1973年に活動火山対策特別措置法(活火山法)が制定されている。活火山法は、噴火その他の火山現象により著しい被害を受け、又は受けるおそれがある地域について、避難施設や防災営農施設を整備し、降灰除去事業等を実施することによって、火山周辺地域の住民等の安全と生活等の安定を図ることを目的とした法律である。この法律に基づき実施される地方公共団体の事業については、国が補助金を交付するなど特別な措置が講じられる。

2 低頻度大規模災害 
 様々なリスクに対する企業の対応をまず考えてみよう。影響度の小さいリスク(泥棒の侵入、貸し倒れ等)に対しては、個々の企業の経常費用(ガードマンを雇う)ないし引当金としてその費用を内部化する。影響度が大きいリスク(工場火災等)でも、発生確率がある程度見込まれるものは、保険等により、市場を通じてそのリスクを移転させることができる。近年クローズアップされているのは、同時多発テロ事件以来、発生確率は低いが、影響度が非常に大きいリスクに対する対応である。欧米企業では、これに対しては戦略的な経営問題として対処することとし、まずリスクを評価、ビジネスへの影響度を分析し、これを踏まえて、被害軽減のための事前の対策(ミティゲーション)と緊急時にどの機能を優先的に維持・復旧させるかという問題に対する全社的な計画を策定する。個々の事業所、工場単位の対応ではなく、全社を視野に入れた「全体最適」を目指した戦略を打ちたてようとするものである。
 筆者は、災害対策も同様であると考える。社会全体として影響度の小さいハザードへの備え(普通の台風程度では家が飛ばされないようにする)は、各人の費用で行うことが基本である。社会的影響が大きく、発生確率もある程度見込まれるハザードに対しては、これまでも、国土保全事業を行ってそれに備えてきた。問題は低頻度大規模災害である。国土保全事業で対処できる範囲を超えた災害に際しては、市町村による警戒避難等の応急対応が基本とされてきた。切迫性が指摘されている東海地震についても、警戒宣言発令を前提として、その後の警戒避難を十分に行うことが対策の柱となっていた。
 しかし、そもそも東海地震級の大規模災害では、災害発生後1週間たっても190万もの人が避難生活を余儀なくされると想定され、生活物資や緊急医療等について、現在想定している応急対策ではとても十分とは言えないおそれがある。応急対策について、国や広域的な問題としてきちんと事前の準備をしていくことが必要である。また、それ以前に、阪神・淡路大震災の犠牲者の多くが家屋等倒壊による瞬時の圧死だったことに思いを致せば、住宅の耐震補強等、事前の被害軽減策(ミティゲーション)がいかに重要であるかがわかる。災害が発生する前に、国全体、社会全体という広域的な観点から、戦略的に実施しておくべきことがあまりにも多い。政府の中央防災会議は、そういう問題意識から、東海地震について、予防から復旧・復興まで含め、「全体最適」を目指す戦略的な防災計画「東海地震対策大綱」の策定を行っているところである。   
 国から市町村、公共機関まで、すべて防災計画を持っている。あらゆる災害を対象とし、予防から復旧までまんべんなく、総合的に書かれておる。しかし、そうした計画は縦にも横にもバラバラであったのではないか。「予防」なら予防で自己完結的である。また、各機関が実施する対策も独立的である。地域全体として、国として、何を目指し、そのために当面、重点的に何をし、中長期的に、「予防」から「復興」まで含めてどういう成果をあげようとするのかという「戦略」がまったく見えていなかったのではないだろうか。
 行政改革の中で、「ニューパブリックマネジメント」(NPM)という言葉を最近よく耳にする。筆者の理解では、NPMとは、
・ 総合性から戦略性へ
・ 手続重視から目標・成果重視へ
・ 部分最適から全体最適へ
という視点で仕事を進めていくことである。防災対策、特に大規模な災害に対してあてはめてみると、下記のようになろうか。
・ まんべんなく書かれているが実効性の乏しい総合的計画に安住せず、リスクをきちんと評価・分析した上で、優先的になすべきことを打ち出す。
・ 形式的な防災訓練を繰り返すことはやめ、あらかじめ目標を設定し、その実現に向け、災害対応能力を常に向上させる。
・ 捜索救助、医療搬送、双方とも重要であり、それぞれ全力を尽くす、ということになりがちであるが、例えばヘリコプターなど、限られた資源をどう配分するかという問題には、全体的な判断が求められる。

3 「死都日本」が示唆するもの
 火山小説「死都日本」で筆者が印象深かったのは、事前に、総理大臣の的確なリーダーシップのもと、「K作戦」という「戦略」を練り、優先順位をつけて着々と手をうってきたこと、「K作戦」の目標を実現することを、日常的な管理主義に優先させたこと、そして、最後に、何よりも、「災害と共生する国土づくり」という壮大なビジョンを掲げ、ミクロな災害対策は捨てて、マクロな対策を選択したこと、である。
 破局的な災害に対して、現行の災害対策基本法が想定する対応は無力かもしれない。しかし、復旧・復興のわずかな可能性を見出し、その可能性を現実のものとするために戦略を構築するという姿勢は、今後の防災対策を考える上で、大いにヒントを与えてくれるものとなった。
 私たちは、防災とは、「1人でも多くの命を救うこと」だと教わってきた。それは正しい。しかし、破局的な災害では、災害直後だけではなく、泥流の発生や気候変動等により相当長期間にわたって「命」が危険にさらされることになる。発災直後の「命を救う」ことだけだと考えていると全体の戦略を見失ってしまう。
 戦後の災害は国土保全等の予防対策の重要性を教えてくれた。阪神・淡路大震災は、応急対応の重要性を教えてくれた。そして、破局的災害を描いたこのフィクションは、復旧・復興まで視野に入れて戦略を構築することの重要性を教えてくれたのではないかと思っている。 


気象庁はどう対応するか

山里 平(気象庁地震火山部火山課)

 「死都日本」にあるような大規模カルデラ噴火が発生若しくはその発生が予想される場合,気象庁はどう対応するか.これに答えるのは決して簡単なことではない.これまで気象庁は多くの火山噴火や火山災害に対して対応を迫られ,また対処してきた.その対応手法は時代とともに変化してきたが,本小説にあるような大規模噴火は我々の想像を絶する噴火であり,これまでの我々の経験がそのまま適用できるものではない.しかし,気象庁は,このような噴火災害に対しても対応しなければならないのも事実である.以下に著者の私見を述べる.

1.大規模噴火の予知
 「死都日本」のような大規模噴火の前兆現象が把握できるか(前兆現象と判断できるか)どうかは置くとして,もしそのような現象が観測されたらどうするか.
 気象庁は,自治体等防災機関や国民に対して火山活動を解説する責務がある.気象庁は,火山噴火予知連絡会の委員等火山学者の意見をできる限り集約してそれをもとに意見を述べることになろう.避難を呼びかける必要があれば,緊急火山情報を発表して警戒を呼びかけることになる.火山活動の規模が大きければ大きいほど頻繁に多量の良質の情報を社会に発信することが必要である.そして,来るべき噴火をより確実に予測するため,気象庁のみならず,火山噴火予知に係る大学や研究機関等が一致協力して全力で,観測体制を強化することになろう.その中で,気象庁は24時間体制で火山活動を監視する義務を持つ唯一の機関であり,またそのための機能を持っている.霧島火山の場合,福岡管区気象台の火山監視・情報センターと鹿児島地方気象台が24時間体制で監視している.いざことが起きればこれらの組織の強化が行われるとともに,火山機動観測班等によって観測強化が行われ,関係機関のデータも集約し,火山監視・情報センターで監視することになる.火山監視・情報センターに集約されたデータは福岡以外の火山監視・情報センターにおいてもモニターが可能であり,本庁や各管区気象台も支援を行える.火山噴火予知連絡会もまた集約したデータをもとに噴火をより確実に予測するための努力を続けることになろう.また,これまでの火山災害でもそうであったように,東京において危機管理を行う組織や現地の対策本部に職員を派遣し,常駐させることもあろう.
 災害を想定した情報の伝達体制は最も大きな問題となると考えられる.情報伝達の最前線となる地元の気象台の役割は重要となるが,気象庁本庁や他の防災機関も含めた有機的な情報共有ネットワークをいかに構築できるかも重要である.

2.大規模噴火の監視
 大規模噴火が発生した場合に,それをどのように監視するかは大きな課題である.三宅島の噴火に際しても想定を越える噴火規模に対してそれを正確に把握することは困難を伴った.全島避難−全島停電といった事態での監視の継続も大きな課題であった.噴火規模が大きいほど近傍でそれを把握することは難しい.リモートセンシング技術による火山監視手法は近年多くの成果を上げつつあるが,大規模噴火に際しては,衛星等上空からの火山観測手法はなくてはならない手法となろう.気象庁も気象衛星や気象レーダー等を用いたリモートセンシング技術を用いて火山監視を行うであろうが,海外も含めた関係機関との情報共有により正確な噴火規模等の把握は大きな課題となるであろう.また,全国的に展開されている地震計や空振計のネットワークを有機的に結合させたシステムも有効かもしれない.また,気象庁に対しては,火山学的な観測監視だけでなく,当然ながら気象に対しても的確な情報発表が要求される.大規模噴火の二次災害である泥流に対する気象警報をはじめとする気象情報だけでなく,気候への影響についても説明を求められることになろう.


1万年をイメージできる感性を地域に養うために
 =「宮崎を造った火山の話」は、小説内だけの幻か
 =地域メディアの役割を考える

中川和之(時事通信社)

 「宮崎を造った火山の話」。それは、死都日本の主人公の黒木伸夫が、過去にあった破局的噴火について、地元の宮崎日報に連載した企画だ。記者・岩切年昭が入社して初めて任されて担当した仕事であり(p85)、「宮崎人による宮崎県民のための宮崎本」(p44)となって出版されている。この連載記事によって、地元で破局的な噴火が過去にあったことを宮崎県民は知っていたため、他県の住民に比べて避難のタイミングが早かったことなども本書には書かれている(p185)。また、首相の菅原和則も、自分の役目を見失わないようにこの本を何度も読み直している本である(p46)。入社数年の岩切記者にこの企画を指示し、任せた宮崎日報のデスクは、多くの宮崎県民を、日本を、いや、世界中を救った功労者だとも言える。
 これは、マスメディアが平時に何ができるかを考えさせられる材料である。災害とは、自然の側も、人間の側もローカルな条件の影響を受ける現象だが、地域に密着した災害に関する情報が普段から伝えられる機会は、せいぜい自治体からの情報提供程度にとどまっているのではないか。災害や防災を担当して取材する部署が日頃からあるのは、東京の気象庁担当、文科省・推本担当、内閣部防災担当ぐらいである。防災官庁も、専門家・研究者も、在京の科学記者や社会部記者を相手にすることが多い。実際の(想定)現場となる各地方で、それぞれの地域の特殊性に応じた災害・防災を、日頃から地域に密着して取材できる場はあまりない。それは、そこにネタがないと考えられているからであろうが、それはせっかくのネタの宝庫を眼前にしながらもったいないと思うのである。かつて地震と言えば静岡や、せいぜい首都圏のことと考える人が多かったのは、マスコミからの情報がそこにとどまっていたからではないだろうか。
 読者にとってのニュースとは、意外性や新鮮さだけでなく、身近さもポイントになる。「宮崎を造った火山の話」という連載企画が、宮崎日報で成立したのは、身近さと意外性が、近年の科学的な研究に裏付けされていると言うことだからではないか。日常生活ではイメージしにくい数千年の変化を、身近な風景や伝承から読み解くことで、読者は納得して荒唐無稽にも思える黒木のストーリーを受け止めていたのであろう。そのベースがあったことで、早期に起こりつつある事態を納得し、避難行動にもつながったのだ。石黒氏は、当初、この連載企画の内容について、かなり書き込んだそうだが、全体のストーリー展開上、大幅に割愛したとのことで残念である。
 地域の自然史について、最新のトピックスを織り交ぜた地元ならではの記事が、地域のオピニオンリーダーの自負もある地方紙などのローカルメディアに掲載されることの重要性が、死都日本から学ぶべき点だと考える。地元の住民が足元の地形の成り立ちを知り、災害を起こすこともある自然と向き合うきっかけを作るという地元メディアならではの役割を、岩切記者を含む宮崎日報社が果たしていたことに注目し、全国各地の地方紙の出版物などを調べてみることにした。
 六甲山の麓に育った私は、不勉強ながらあの山が地震で高くなったことを、兵庫県南部地震が起こるまで意識していなかった。山陽新幹線の六甲山トンネル工事で断層の破砕帯からの出水で難航したとか、新神戸駅は断層をまたぐのでずれを防ぐ設計になっているとかいう話を、聞いたことを地震の後になって思い出したが、以前は山を見上げて災害のことを考えるとすれば、天井川を作った水害のことだった。
 地元メディアは、地震前に何かの役割を果たしていたのだろうか。神戸新聞出版センターは、1988年に「六甲山の地理−その自然と暮らし」という本を、阪神大水害50周年事業実行委員会の監修で発行している。そこには、「(山の)高さを変えたのは断層運動」(p11)、「平均上昇速度は1000年あたり25センチ」(p22)、「全山断層の塊のような断層山地」(p27)などと、六甲の活断層についてかなり詳しく説明されている。この本が広く地元の人に読まれていれば、認識も変わったのかもしれない。
 一方、地震発生の2カ月前の94年11月、兵庫県東部の猪名川町付近で群発地震が発生した。この際に、神戸新聞の社会部内で取材班を結成して特集をしようという話も出ていたが、群発地震の終息と他の忙しさもあって実現しなかったと、地震当日の当直デスクから直後に聞いた(大震災を生き抜く、p162、1995時事通信社)。この企画が実現していれば、周辺の地震活動についても当然取材することになり、この地域の地震ポテンシャルが決して低くなく、六甲山も断層活動で高くなったという事も書かれることになったであろう。
 そのことで、直ちに6000人余の死者が救われたはずなどと言えるわけがないのは自明ではある。ただ、六甲山が断層の山だという事実が、その地に住むものの心構えとして伝わっていれば、あの激しい揺れに襲われながらも、何が起きたのかを推測できる人を増やすことができたはずで、それが被災後の立ち上がりの違いにもつながった可能性はあるのではないかと、当直デスクの話を聞いた後からずっと考えていた。直近の群発地震の企画と、数千年前の巨大噴火と神話の話では、次元が異なるかもしれないが、いずれの企画も紙面的には成立しうるもので、地域の自然災害文化を育むものである。
 全国の地方紙について、どのような企画があるか、記事から調べるのは膨大なため、連載的な企画ならば「宮崎を造った火山の話」同様に出版物になっていることを想定し、新聞協会のホームページ(http://www.pressnet.or.jp/)から、リンクされている同協会加盟の新聞社(全国紙を除く76紙)のサイトと、「ふるさと発見 新聞社の本」(http://kk.kyodo.co.jp/furusato/)のページから、その地域の火山、地震、地質などを取り上げていると思われる書籍をリストアップしてみた。HP上の情報にはばらつきが多く、実際の出版物を取り寄せるなどしたのはごく一部であることを、お断りしておく。火山や地震など災害、防災に直接関わるもの以外の選択に当たっては、観光ガイド的な本や写真集であっても、その土地の成り立ちを地学的な視点からも書き込んであると思われる紹介がある本は残した。「その地の数千年、数万年をイメージできる材料が含まれているか」ということである。
 タイトルや内容紹介から分析してみると、各紙とも地元の自然、動物や野鳥、花、植物、環境をまとめた出版物は多かった。山の観光ガイドやハイキングマップ、写真集なども各紙とも主要なコンテンツの一つとしていることも分かり、地元の自然は十分、企画の対象になっている。また、阪神大震災を始めとして、近年に災害が発生した地域では特集的な出版もみられる。
 「ふるさと発見」にリストされた全3475冊で、火山、地震、地質、災害、震災という言葉が著書名、内容紹介欄に含まれる本は38冊あった。各社のサイトから調べた本を含めて65冊のうち、直近の災害本を除く43冊を署名、版元、著者名でリストした。専門家の手による出版が多いが、県内の活断層を専門家と一緒に歩いて記者がルポした連載企画という、新聞ならではの出版もあった。
 今後、「宮崎を造った火山の話」のような取材企画、出版企画が、各地から出てくることを期待したい。その結果、地域のことを理解している住民を増やしたり、自治体の力を強くするだけでなく、地元の専門家とそれを伝える記者も育ってくるはずである。各地で「○○を造った地震・火山・洪水の話」という科学読み物が、地元紙の連載企画をベースに出版されれば、ぜひ各地のものをそろえたいと考えるのは、私だけであろうか。
 今回は、マスメディアの役割に焦点を当てたため、地方紙編集の本を選んだが、我が地域の「○○を造った地震・火山・洪水の話」本をぜひ紹介いただきたい。これを機に、ローカルを主体に各地の足元理解の役に立つ本のリストを作り、Web上ででも紹介したい。

【独断と偏見で選んだ各地の足元を理解、納得する手助けをするであろう各地方紙の本】
北海道新聞 「火山一代-昭和新山と三松正夫」=三松三朗、「さっぽろ文庫77 地形と地質」=札幌市教育委員会編
秋田魁新報社 「泥火山」=高橋喜平著
岩手日報社 「岩手山焼走り熔岩流」=写真・文 高橋喜平
上毛新聞社 「利根川東遷」=澤口宏著
千葉日報社 「検証・房総の地震」=楡井久監修
かなしん出版 「箱根火山探訪」=袴田和夫著
新潟日報事業社 「大地のロマンを求めて」=地学団体研究会新潟支部編、「新潟は安全かー地震」=茅原一也監修
北日本新聞社 「目で見る黒部川扇状地物語」=黒部川扇状地研究所編
東京新聞出版局 「東海地震がわかる本」=名古屋大学災害対策室
静岡新聞社 「富士は生きている」=静岡新聞社編、「今だから知りたい東海地震」=土隆一編、「東海地震の予知と防災」=土隆一編、「実録・安政大地震」=門村浩ほか、「富士山自然大図鑑」=静岡新聞社編
山梨日日新聞社 「山梨の奇岩と奇石」=石田高著・石田啓写真
信濃毎日新聞社 「信州の活断層を歩く」=信濃毎日新聞社編集局編、「信州の里山を歩く 中南信編」「信州の里山を歩く 東北信編」=里山を歩く編集委員会編、「長野県地学図鑑 補訂版」=監修田中邦雄、「長野県の自然とくらし」=信州地理研究会編、「フォッサ・マグナ」=平林照雄著
岐阜新聞社 「岐阜県災害史」=岐阜新聞社編
神戸新聞総合出版センター 「山崎断層」、「兵庫県南部大地震と山崎断層」=寺脇弘光著、「ひょうごの地形・地質・自然景観」=兵庫県監修/田中眞吾・中島和一編、「兵庫県地震災害史」=寺脇弘光著、「丹波の自然」=丹波自然友の会編、「播磨の地理(自然編)」=田中眞吾編著、「六甲山の地理−その自然と暮らし」=田中慎吾編著
山陽新聞社 「蒜山-自然と人と」=山陽新聞社編、「大山−その自然と歴史」=山陽新聞社編、「岡山のカルスト」 光岡てつま・写真
中国新聞社 「大山探訪 自然へ愛をこめて」=中国新聞社編
四国新聞、愛媛新聞、徳島新聞、高知新聞、「四国まるごと自慢」=四国4新聞社合同企画
高知新聞社 「南海地震にそなえる」=高知新聞社編
西日本新聞社 「九州の山を行く」=西日本新聞社編
熊本日日新聞情報文化センター 「阿蘇火山の生い立ち」=渡辺一徳著
南日本新聞開発センター 「神々の降りた杜」=徳森繁著、「備えあれば憂い少なし」NHK鹿児島放送局編
沖縄タイムス 「琉球弧の成立と生物の渡来」=木村政昭編著、「黒潮の国で」=木崎甲子郎著

 この他に、ご存じの本がありましたらお教え下さい。下線は、シンポ時点で入手済みまたは注文中の本です。


破局噴火と火山防災教育

林 信太郎(秋田大学教育文化学部人間環境課程)

 大規模カルデラを生ずるような超巨大噴火はまれにしか起こらない(1万年に一回程度)ことではあるが、「近代国家が破滅する規模の爆発的巨大噴火」(「死都日本」412ページ)である。このように大規模で破壊的な現象がありうるという日本の国土の特性について、主権者である国民には知る権利があるし、また、それを国民に知らせることは火山学者の義務といえよう。
 このような噴火への対策は、主に迅速な避難である。これは小説「死都日本」がリアルに教えてくれるところである。万が一の超巨大噴火の場合、避難の主体となるのは国民である。超巨大噴火でなにが起きるのか知っておくことが、迅速な避難のために役立つことは、「死都日本」の主人公の黒木の冒険を見ればたいへんよくわかる。
 それでは、超巨大噴火に関する知識を国民に広めるためにはどうすれば良いのだろうか?3点について述べていきたい。

<防災用語としての「破局噴火」の重要性>
 「破局噴火」は「死都日本」の中で石黒氏によって創作された言葉である。しかし。いままで存在した超巨大噴火をあらわすどの言葉と比べても防災用語としてふさわしいのではないかと考える。廣井(1997)は防災用語として望ましい条件として「現象の意味と災害の怖さを伝えるためには、住民に生々しいイメージをもってもらえるような用語や表現に変換」することが大事であると述べているが、筆者も同感である。
 従来、破局噴火に相当する言葉として使われてきた言葉は「大規模火砕流噴火」「カルデラ噴火」「流紋岩質洪水噴火」「巨大火砕流噴火」「超巨大噴火」などである。前三者は学術用語としてしばしば使われ、後の二者は防災用語と言う観点も意識した名称である。また、巨大噴火を表す形容詞としては「激変的な」「激発的な」「巨大な」「膨大な」などがある。
 「破局噴火」という言葉はこれらのいずれよりも生々しいイメージを持っているように筆者には思える。「破局」という言葉が日常生活で使われるシーンは、「男女の別れ」「会社の倒産」などである。このように、破局という言葉は、終末、それも悲劇的な終末をイメージさせるのである。国家が存亡の危機に陥る可能性のある噴火様式の生々しさを伝える言葉としてふさわしいと筆者は考える。
 そこで、筆者は「破局噴火」を防災用語として定着させることを提案したい。防災用語としての定義は「近代国家が破滅する規模の爆発的巨大噴火」でのままでも十分である。

<学校教育における破局噴火>
 破局噴火の理解を国民に浸透させるためには小・中学校などの学校教育の場が効率的である。たとえば、現在の小学校理科の指導要領では6年生で「土地は,火山の噴火によって変化すること」を地震との選択で学ぶことになっている。九州や北海道の多くの地域では破局噴火によってできた地形面の上で人々は暮らしているので、小学校理科の教材で破局噴火を取り上げることは指導要領にもかなっている。
 破局噴火を理解する上で、低頻度であることおよび超大規模であることの2点は欠かせない。低頻度現象の理解のためには地球史的な時間スケールについて教育することが必要であるし、大規模であることは「死都日本」の中の26ページ主人公の黒木の講義が参考になる。また、そのほかにもいろいろな手がある。
 また、カルデラの形成メカニズムも児童生徒にはなかなか理解できないところであろう。陥没カルデラについては、現在、チョコレートとココアを使った模擬実験教材を開発中である(詳しくは秋の火山学会で)。実験でできた疑似カルデラを実際のカルデラの大きさと対比すれば関与するマグマの量の膨大さに子供は気がつくはずである。

<火山学者にとっての「死都日本」の価値(ここだけエッセイ)>
 破局噴火が小説に描かれるとは、火山学者にとっては全く予期していなかった出来事だった。しかも、本シンポジウムでおそらく何度も言及されるように「死都日本」は火山学の普及の上で宝の山ともいえる豊穣さを持っている。これを日本の慣用表現で表すと「棚からぼた餅」ということになるが、それでは私たち火山学者の喜びを表現しきれない。裏の畑でダイアモンドの鉱床が見つかったとしたら、このくらい突発的にうれしいのではないかと思う。石黒さん、すばらしい小説をありがとうございます。加久藤カルデラのマグマだまりの底よりもさらに深く感謝いたします。


火山災害をどう伝えるか:“科学文学”の提唱

鎌田浩毅(京都大学大学院人間・環境学研究科)

 火山噴火は、研究者以外めったに見ることのない現象である。人は経験のないことに直面した時、パニックを起こしやすい。無責任な風評が飛びかい、混乱に拍車をかけることがある。地球物理学者の寺田寅彦は、「天災は忘れた頃にやってくる」という名言を残した。火山の場合は、噴火と噴火の間隔が、数百年に及ぶことも珍しくない。例えば、日本の代表的な活火山である御岳山は1979年に噴火したが、8000年ぶりのことであった。火山災害に関して言えば「天災はすっかり忘れ去られてから、さらに長い時間がたった頃にやってくる」と表現するのが妥当である(鎌田, 2003a)。次の噴火に備えて8000年も準備し続けるのは、現実離れしている。従って、災害の再来間隔が長いほど、危機管理は難しくなる。
 火山の啓発活動は、噴火の危機管理に貢献する。火砕流など実物に触れることが不可能な現象に対して、映像などで実体を見ながら疑似体験することが有効である。例えば、雲仙普賢岳の麓にある島原市に開館した火山博物館では、火砕流の中をくぐり抜けるビジュアル体験コーナーが設けられている。もう一つは、小説などの作品で、噴火を疑似体験することである。特に、大規模火砕流など規模の点で現実には体験困難な現象には、フィクションが最も適切な伝達手段である。なるべく実際の火山現象から離れることなく、リアルに体験してもらうために、様々な文章上の仕掛けが必要になる。ここに、“科学文学”の必要性が生ずる。
 石黒耀著『死都日本』は、巨大噴火を初めて本格的に扱ったシミュレーション小説として、希有の秀作である。小松左京著『日本沈没』以来の大型クライシスノベルでもある。特に、火山現象を知悉している人間こそがサバイバルに成功する姿を描いた点で、火山防災の啓発機能を持っている。
 災害軽減のための情報伝達には、文章上の工夫が必要である。私自身、地質調査結果をもとに論文を書こうとした時に、何回も文章に詰まったことがある。火山の地形や地層を説明しようと思うのだが、うまく書けない。いったん地質学を離れ、文章の専門家はどう工夫しているのかと思い、「文章読本」と名付けられた本を何冊か繙いたことがある。
 谷崎潤一郎を初めとし、古来多くの作家が文章読本を書いている。古今の名文をかかげ、文章技法を解説するものが多い。この中では、三島由紀夫と丸谷才一の文章読本が秀逸だが、彼らは古今の名文を挙げ、どこがうまいかを解説し、まず名文を読めと説く。残念ながら、世の中の名文は小説や詩歌や文学者のものが多く、科学者用の名文集というものはない。
 加藤(2001)は、東京新聞へ寄稿した文章論(鎌田, 2001)に対して、以下のコメントを寄せた。「火山の地形や地層の記述などというものは、文学者でも文章に詰まってしまうものなのです。逆にいえば、文章にゆきづまってしまう物事を文章化するという行為こそ、すぐれた文学的な仕事であるといえます」
 これは、俳句の写生について書かれたエッセイの一節である。プロの文学者が、地形や地層を記述した文例はまずない。だからこそ火山研究者は、分かりやすく記述するための文章を、自分たちで考え出す必要がある。日常生活から離れている現象を、読者に身近に説明する方法を編み出さなければならない。そのためには、科学的正確さと、伝達への配慮を合わせもった文体が必要である。これは“科学文学”の創出といってもよい作業である。
 科学の論文は、研究者個人の苦労や感慨などを払拭した、無機的な文章と思われがちだ。しかし、途方もなく困難な調査や、尋常ならざる細心の注意を払って行われた実験が、何気ない記述から読み取れることがある。研究に賭ける科学者の情熱が伝わってくる。そのような文章を読んだとき、これだけでも著者を賞賛したくなる。伝える内容は科学であっても、ドラマが感じられる。こういう論文は、文句なく名文である(鎌田, 2002)。“科学文学”の第一歩である。
 文章の中で、漢字をどれくらい使うかということは、意外に重要である。中国文学者の高島俊男氏は、自らの規範に従って使う漢字を制限して読みやすくする工夫をした(「漢字と日本人」文春新書)。ただし、むやみやたらとひらがなにしてしまったら、かえって読みにくくなる。漢語特有の表意文字を使うことで、即座に意味が分かることも多い。明治時代に多用されたように、ルビをもっと活用することも考えられてもよい。例えば、『死都日本』では、ルビを用いてふりがな以外の情報を与えるという工夫が、随所でなされている。要は、科学を扱う文章でも結果としてイメージしやすいかどうかが勝負である。このためには、科学から遠い人に読んでもらって、試行錯誤をしながら効果的なスタイルを創ってゆく必要がある。
 私自身も昨年、噴火に関する新書版の啓発書(鎌田, 2002)を出してから、表現法に関して色々な助言を受けた。書評などを通じて思わぬ反響を得て、一般社会の火山への関心が大きいことを再認識した。また、新書を一冊でも書いてみると、火山の啓発運動が片手間でできることでは決してないことも、よく分かった。複雑な火山現象と災害対策の本質を押さえて、情報を分かりやすく的確に伝えることは、それだけで学問として十分に成立しうる。
 『死都日本』を読んだ多くの火山専門家が驚いたことは、著者が火山現象の細部にわたり、正確な理解に基づいた的確な表現をしていることであった。ここに見られる表現力は、一般市民に火山災害について的確に伝えるためのテクニックとして、今後火山研究者が取り入れるべき良い実例となるであろう。
 昨年度私は、小学校・中学校・高校での連携授業において、大規模火砕流噴火の話を何回か行った(鎌田, 2003b)。地学教育が崩壊しかけているにもかかわらず、教育現場から地学に関する要請は多い。小中高と授業をしてみると、いずれも生徒の反応は、大学生よりもはるかに良い。噴火にまつわる体験談には、目を輝かして聴いている。小学生がいちばん反応が良く、学年が進むに連れて鈍くなるという悲しい現実は、知的好奇心をはぐくむ教育が機能していないことを如実に物語っている。ふだん聞いたこともない珍しい世界の話は、子供たちが自然に対して興味をもち始める良い契機を与える。
 “科学文学”には“科学児童文学”としての新たなジャンルも必要である。例えば、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』は、噴火の予知から利用まで扱った壮大な児童文学である。また、1937-1946年に使われた小学校の国語教科書では、「稲むらの火」という防災題材が扱われていたことがある(清水, 1996; 早川, 1997)。津波の来襲にいち早く気づいた村の庄屋が、高台にある自分の田の刈り取った稲穂に火をつけ、村人を駆け上がらせて救った、という美談である。小泉八雲の英文を児童用に書き換えたもので、内容・表現ともに優れた防災教材となっている。このような試みが、研究者によってもっと積極的になされる必要がある。
 大規模な火山噴火のような非日常的な現象を、文章・映像などのメディアで伝える方法論は、殆ど研究されていない。『死都日本』に扱われたような大規模火砕流のもたらす災害を一般市民に伝えるのは、容易なことではない。低頻度であるがゆえに、先例がないからである。火山の噴火というプロットは、手に汗を握るストーリーの展開のために有効である。『死都日本』がそうであったように、面白い小説はいったん読み始めるととまらなくなってしまう魅力をもつ。“科学文学”の一手段としての小説は、一般市民にとって最も身近な方法である。
 “科学文学”と“科学児童文学”は、文学のジャンルとして成立しうるし、成立させることに、火山研究者は力を貸すべきである。自然災害の多い日本では、様々な手段を用いて、市民全体の科学リテラシーを上げておくことが重要である。問題は、社会に向けて学問を還元するサービス精神を、研究者が持っているかどうかである。最近、研究成果の社会への還流が、大学や研究所の任務の一つと見なされるようになってきた。説明責任(アカウンタビリティー)が求められる時代となった今、研究者は専門家に対してだけでなく、世間に向けて分かりやすく伝える技術を持つ必要がある。“科学文学”に火山学者が関心をもつことは、一見迂遠なようでいて、いざという時の噴火危機管理に役立つ。

文 献:
鎌田浩毅(2001)科学者の文章読本。東京新聞2001年2月27日 夕刊科学面
鎌田浩毅(2002)『火山はすごい-日本列島の自然学』PHP 新書No.208, 241pp.
鎌田浩毅(2003a)イタリアの火山とワイン. 科学, vol.73, p.141-142.
鎌田浩毅(2003b)出前授業はおもしろい. 科学, vol.73, p.512-514.
加藤孝男(2001)「俳林逍揺」第4回ふたたび写生について。http://www5b.biglobe.ne.jp/~katotaka/essay.htm
清水 勲(1996)防災教育と「稲むらの火」. 歴史地震, vol.12, p.215-221.
早川由紀夫(1997) 「稲むらの火」全文(出色の防災教材) 。http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/bosai/inamura.html


スプリンター・カリブはモルタル化した火砕流上を走るか

千葉達朗(アジア航測)

1.はじめに
 『死都日本』の中で、黒木と岩切の乗ったスプリンター・カリブは実にたくましい。火砕サージに巻き込まれて多少ひっくり返っても、水平に戻せば走り出し、火砕流だって降下火砕物だってどんどん走って、最後にはJRのトンネルを走って、ついには生還する。
 このシーンがどれだけ現実的なのか、火山学的にあり得る現象なのかは、読者の最大関心事のひとつであろう。ここでは、特に火砕流の表面のモルタル化(小説の中ではアスファルト化)現象に焦点をあてて、検討を試みる。

2.スプリンター・カリブ
 トヨタの初の自家用車タイプのフルタイム4WD。現在流行のRVカーの先駆的モデルで、初代は1982年に登場、小説の中で黒木が乗るのは94年型で1988年登場の2代目にあたる。その後、1995年から3代目が出たが2002年に販売中止となっている。
 ジープなどの普通の4WD車に比べて車高が低く側面が傾斜しているので、低重心で斜面を横に走るのは得意。最低地上高を切り替えるハイトコントロール機構やセンターデフロック機構も備えており、悪路踏破性能はなかなかのもの。

3.想定走行ルートの地形について
 火砕流の上をカリブが走行する部分には、それぞれの地点ごとに堆積物の厚さや温度、降下火砕物の粒径や厚さに関する記述がたくさんある。十分に科学的な記述である。
 ここでは、それらの記述を地形図に転記し、小説中の分布図も参考にして、火砕流堆積後の詳細な地形モデルを想定し、斜面傾斜などからカリブの踏破可能性の検討を行いたい。

4.火砕流のモルタル化現象
 雲仙岳1990-95年噴火や三宅島2000年噴火では、大量の細粒火山灰が生産され、山地斜面に堆積し、その後の降雨による土石流発生の大きな原因となった。これらの細粒火山灰堆積地点では、しばしば表面に堅い殻のようなものが観察され、モルタル化現象と呼ばれる。山地斜面でモルタル化が発生すると、浸透能が著しく低下して表面流が増加、土石流が発生しやすくなると考えられる。
 しかし、一般に堆積直後の観察は危険を伴うことと、時間がたつと溶脱して失われてしまうために、モルタルの生成メカニズムなどの詳しいことは不明な点が多い。
 ここでは、雲仙岳噴火の事例を紹介する。1992年12月27日に観察された堆積から1週間後の火砕流は、まだ灰白色で気体を多く含み、踏み込むと20cmほど沈むような状況であった。ところが、翌28日の大雨後の29日の状況は一変した。表面が茶褐色に変色して、厚い殻に覆われ、どこでも自由に歩き回ることができた(写真-1)。降水と堆積物が反応して堅い殻を形成したと思われた。そこで、濡れていない内部の火砕流堆積物に水を加える実験を試みたところ、発熱反応が起こり、固形物が生成された(写真-2)。
 おそらく、火山灰中に含まれる硫酸ミストとカルシウムと水が反応して石膏が生成したためと思われる。茶褐色の色の原因は別の化学反応によると思われる。この殻は、雨の度に厚さを増すようであった。このような殻が十分に厚くなれば、カリブを支えることは可能であろう。