SERI Monthly (2019年12月号)に加筆

伊豆ジオめぐり(8)

丹那の大地の物語

活断層と向き合った人間社会

火山学者 小山真人

トンネル工事が招いた湧水と渇水
 三島と熱海を結ぶ新幹線と東海道本線に全長約8kmの長いトンネルがある。丹那トンネルである(図1、写真1〜2)。在来線の旧丹那トンネルが完成する以前は、現在の御殿場線が東海道本線であった。しかし、当時の蒸気機関車の性能では急勾配区間の通過に時間を要したため、日本の東西を結ぶ動脈の重大なボトルネックとなっていた。その解決を図るために丹那トンネルが掘られたのである。
 しかし、旧丹那トンネルの掘削工事は難航した。西の函南側から掘り進めたトンネルが丹那盆地の真下に到達したころから、おびただしい湧水が発生し、それにともなう落盤事故もたびたび起きて、殉職者が増え始めた。
 湧水の元になっていたのは、丹那盆地を南北に通過する活断層・丹那断層沿いに発達した破砕帯であった。仕方なくトンネル本坑に並行した水抜き坑をいくつか掘り、水を逃してから本坑を掘り進める作業を進めた。 
 ところが、大量の湧水が水抜き坑を通ってトンネル外に流出した結果、地上に異変が生じ始めた。丹那盆地周辺を流れる川の渇水である。それまでの丹那盆地は、豊富な湧水を利用した稲作とワサビ栽培で生計を立てていた土地だった。渇水は深刻化し、作物は壊滅状態となった。

 


図1 丹那トンネル周辺の地形
新旧2つの丹那トンネルは、丹那盆地の地下170mを通過する。「スーパー地形」を使用


写真1 丹那断層に沿う谷地形。遠景に富士山


写真2 丹那盆地
かつては稲作とワサビ栽培、現在は酪農がさかんな丹那盆地とその周辺

 

北伊豆地震の衝撃
 1918年に着工されたトンネル工事が12年経っても湧水によって難航していたころ、さらに衝撃的な事件が起きた。1930年11月26日の北伊豆地震の発生である。この地震は、丹那断層を震源として発生した大地震(マグニチュード7.3)であり、震源付近で震度7、静岡・神奈川両県で250人余りの犠牲者を出した大災害であった。トンネル工事による地下水の状態変化と地震との因果関係が疑われ、当時の学者は否定的見解を述べたが、本当のところは今もわかっていない。
 丹那断層沿いの横ずれは場所によって2mを超え、水抜き坑の先端部にも岩盤の食い違いが生じた。断層のずれは丹那盆地の北から修善寺の東に至る地表の各所にも現れた。丹那盆地とその周辺に出現した横ずれは、国指定の天然記念物指定を受けたりしながら、現在も大切に保存されている(写真3〜4)。

活断層研究の進展と丹那牛乳の誕生
 地震にともなう丹那断層の横ずれは学界の注目を浴び、地震後すぐに大勢の研究者が調査に入った。中でも東京大学の久野久(くの ひさし)は、丹那断層に沿う川のずれに注目し、3本の川が断層によってそれぞれ1kmも同じ方向にずれていることを見出した。つまり、丹那断層が過去何度も地震を起こしながら、いつも同じ方向にずれてきたことを発見した画期的な研究であった。
 その後、1980年代になっても丹那断層は、世界の活断層研究をリードし続けた。断層の地下を重機で掘り下げて調べる研究によって、過去8000年間に断層が9度動いたことが判明し、その間隔が平均1000年に1度であることがわかった(写真5)。つまり、1930年に動いたばかりの丹那断層は、向こう数百年は活動しないであろう「安全断層」と考えられる。
 残念なことに、トンネル工事が引き起こした丹那盆地周辺の渇水は、永続的なものになってしまった。その責任を認めた当時の鉄道省は巨額の見舞金を地元に払い、その資金をもとに地元農家は酪農への転換を余儀なくされた。その結果誕生したのが、現在の丹那牛乳に代表される当地の酪農産業である(写真6)。
 以上説明したように、丹那の大地には自然と人とが向き合った壮大な物語がある。こうした歴史とその物証のすべてが、世界に誇る伊豆半島ジオパークの貴重な資産となっている。


写真3 丹那断層公園に保存された1930年北伊豆地震時の断層のずれ
石垣や配石などが同じ方向に食い違う。A-A'などは元々つながっていたことを意味する



写真4 断層公園の地下観察館
丹那断層の地下構造が観察できるほか、隣接した園地には石垣や水路のずれが保存されている


写真5 丹那断層の発掘調査
1984年の発掘調査で現れた丹那断層の地下断面。地層のずれがわかる


写真6 丹那牛乳
丹那盆地周辺の酪農産業でつくられた良質な乳製品。県内各地に出荷されている

 

 


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