SERI Monthly (2019年11月号)に加筆

伊豆ジオめぐり(7)

沼津の大地の物語

津波被害を乗り越えた町

火山学者 小山真人

沼津という土地
 静岡県東部を代表する2つの大きな町である沼津と三島は、同じ狩野川下流域の低地にあるように見えるが、両者の土地の成り立ちは異なる。三嶋大社の門前町として発展した三島は、富士山から流れた溶岩流や土石流がつくる扇状地に立地する。一方で、沼津は狩野川河口付近の海岸平野に立地し、豊かな海の恵みを受けて発展した港町である(写真1)。こうした土地の素性を反映し、三島駅付近の標高は40mあるのに対し、沼津駅付近の標高は10mに満たない。
 海岸平野の低地という沼津の大地の素性は、海からの豊穣な恵みを約束される一方で、洪水・高潮・津波のリスクの高さをあわせ持つ。とくに津波に関して、注目すべき様々な物証や記録・伝承が残っているので紹介しよう。

津波と向き合った歴史
 狩野川河口のすぐ南東に牛臥(うしぶせ)山という標高70mほどの小山がある(写真2)。この山は平野の中に孤立しているが、伊豆半島内に見られるものと同じ古い海底火山時代の岩石を海岸の崖で見ることができる(写真3)。山の北東麓にある大朝神社には、かつて日蓮(にちれん)が津波被害に苦しむ住民のために津波除(よ)けの祈祷を行ったという伝説が残っている(写真4)。また、狩野川河口部右岸にある下河原の妙海寺にも同様の話が伝えられている。
 日蓮は13世紀を生きた人物であり、その頃の南海トラフ東部で起きた大地震によるとみられる地割れ跡が静岡市内、湖西市内で見つかっている。しかし、それに対応する信頼すべき文字記録はまだ見つかっていない。津波除け伝説が本当であれば津波の被災直後と思われるから、地震の発生年を絞り込むための鍵となるだろう。


写真1 狩野川河口と沼津市街
 上空から見た狩野川河口と沼津市街。牛臥山と「津波池」「びゅうお」の位置も示す。

 


写真2 牛臥山(手前)と沼津市街

 


写真3 牛臥山の岩石
牛臥山の海岸の崖に見られる岩石。かつての海底火山の一部である。

 


写真4 大朝神社
 日蓮が津波除けの祈祷を行ったと伝えられる大朝神社

 

 時代は下って幕末の1854年、南海トラフ東部で安政東海地震が生じ、津波が沼津の海岸地域を襲った。この津波が狩野川河口部左岸の下香貫付近に残したとみられる池の絵図が、「田地変じて湖水となる」と題して『嘉永七甲寅歳地震之記』(沼津藩士であった山崎継述の著)の中に描かれている。明治20年の国土地理院地図「沼津」には、同じものと見られる2つの池を確認できるが、明治28年に修正された地形図には無く、その間に埋め立てられたと思われる。
 安政東海地震の津波は、幕府との開国交渉のために下田港に停泊していたロシア軍艦ディアナ号も直撃した。ディアナ号は自力航行不能となり、修理のために戸田(へだ)港(現在は沼津市内)に曳航される際に富士市沖で沈没した。救出されたディアナ号の乗員たちは、戸田港で建造された日本初の洋式帆船「ヘダ号」によって無事にロシアに帰国する。その後、引き上げられたディアナ号の錨が、戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館の玄関前に飾られている(写真5)。
 ディアナ号の錨は左右の1対であり、もう片方の錨も後に引き上げられて、現在は富士市の三四軒屋緑道公園に飾られている。ちなみに富士市の田子の浦港の西に最近整備された「ふじのくに田子の浦みなと公園」の中にディアナ号の模型が置かれ、中は資料館(歴史学習施設ディアナ号)となっている(写真6)。

沼津港を守る「びゅうお」
 「びゅうお」は沼津港の入口に設置された大型(高さ30m、幅40m)の可動式水門(2004年完成)である(写真7)。連絡橋は展望回廊として整備され、富士山や駿河湾を展望できる観光名所になっている。「びゅうお」は、その関連設備とともに背後50ヘクタールの範囲にある港湾・商業施設や住居を津波から守るために設置された。水門の扉は大地震を検知すると自動で降下を始め、約5分で完全閉鎖するようになっている。
 「びゅうお」は現代の建造物であるが、先に述べた日蓮以来の数々の史跡・史料とともに、津波と対峙しながら沼津を発展させてきた地域の歴史を物語る。それらはすべて伊豆半島ジオパークの貴重な資産である。


写真5 ディアナ号の錨
安政東海地震の津波で被災したロシアの軍艦ディアナ号の錨

 


写真6 ふじのくに田子の浦みなと公園の「歴史学習施設ディアナ号」

 


写真7 「びゅうお」
 沼津港の入口を津波から守る巨大水門

 

 


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