SERI Monthly (2019年10月号)に加筆

伊豆ジオめぐり(6)

狩野川の大地の物語

地形が生んだ宿命と治水

火山学者 小山真人

狩野川のふしぎ
 凹凸に富んだ山々が並び立つ伊豆半島の中で、唯一の大河と言えるのが狩野(かの)川である。天城山系に源を発する本谷(ほんたに)川が湯ヶ島付近で狩野川と名前を変え、その後も大見川などの支流を合流させながら、ゆったりと田方(たがた)平野を流れた後に駿河湾に注ぐ(図1)。
 注目すべきは、その流れる方向である。北から南へと流れる大河の多い東海地方の中で、狩野川は逆の南から北へと向かう。三方を海に面する伊豆半島なのに、なぜか近くの海岸へと向かわず、わざわざ海のない北方を目指し、最後にUターンして沼津港付近で駿河湾に注ぐ流路は奇妙である。
 狩野川が北に流れるのは、その流域の3方が天城山や達磨(だるま)山などの険しい山稜に囲まれ、北方のみに地形的な障害がないからである。この山稜は、150万〜20万年ほど前に天城火山や達磨火山などの大型の火山群の噴出物(主として溶岩流)が積み重なって作られた。そのため、狩野川は北に出口を求めるしかなくなったのである。

出口を閉ざされる狩野川
 その狩野川の北への出口も今や危機に瀕している。狩野川の出口を閉ざそうとしているのは、なんと富士山である。
かつての狩野川は、おそらく田方平野の真ん中をゆったりと三島駅近くまで流れ、そこから向きを西に転じて駿河湾に注いでいたと思われる。ところが、現在の狩野川は田方平野の西端付近にわざわざ寄って、いかにも窮屈そうに静浦山地の裾を流れている(図2)。
 狩野川を静浦山地の裾へと追いやったのは、富士山から流れた溶岩や土石流である。富士山は、およそ10万年前から噴火を始め、陸上火山としては日本最大の山体を徐々に成長させるとともに、大量の溶岩や土石流を麓に押し流して裾野を成長させてきた。三島は、その裾野の末端の扇状地の上に発展した町であり、三島駅付近の地表には富士山の溶岩や土石流を見ることができる。
 富士山の雪解け水が湧き出す有名な柿田川は、この三島扇状地の末端近くにある(写真1)。およそ1万年前に富士山から流れた溶岩(三島溶岩)の割れ目や透き間を伝ってきた地下水が大量に湧き出し、そのまま川となって狩野川に合流しているのだ。

図1 狩野川流域の地形
 南方上空から見た狩野川流域の立体地形図。「スーパー地形」で作成。

 

図2 狩野川下流の地形
 狩野川下流域の詳細な地形図。「スーパー地形」で作成。

 

写真1 柿田川と三島扇状地
 南方上空から見た柿田川と三島扇状地。柿田川は三島扇状地の南端近くから湧き出している。

 

狩野川の宿命と治水
 三島扇状地の発達によって出口を狭められた狩野川は、当然のことながらその排水能力に限界がある。一方で、上流の天城山は日本有数の降水地帯であり、結果として狩野川流域は古来より洪水に悩まされてきた。1958年狩野川台風もそのひとつであり、その名前は狩野川流域に1000名以上の犠牲者を出した洪水災害によって付けられたものである。
 しかしながら、人間は狩野川の宿命克服に挑んできた。蛇行していた流路をまっすぐに付け替えて排水能力を高める一方で、より根本的な解決を目指す工事にも着手した。川のバイパスとも言える放水路の建設である(図2、写真2〜3)。狩野川放水路(1965年完成)は、伊豆長岡付近から駿河湾に抜ける別の水路を新たに建設したものであり、増水時にゲートを開いて狩野川の水を分岐させて下流の洪水を防ぐ。
 伊豆の国市の夏を彩る大仁(おおひと)の花火大会の直前に、毎年おごそかに開催されている「かわかんじょう」という祭がある(写真4)。独特の掛け声とともに松明を灯した筏を流すことにより、狩野川の水害の犠牲者を弔い、地区の安全を願う行事として伝えられている。
 時おり水害を起こす一方で、狩野川がその豊富な水量で流域を潤し、人々の生活を支えてきたことも忘れてはならない。狩野川流域の独特な地形によってもたらされた様々な恵みと災害、そしてそれらに向き合って発展してきた地域社会の様々な景観・歴史・伝統、そのすべてが伊豆半島ジオパークの貴重な資産なのである。

写真2 狩野川と狩野川放水路
 手前から右奥へと流れるのが狩野川。そこから分岐する狩野川放水路は、左奥のトンネルに入り駿河湾に至る。

 

写真3 狩野川放水路のトンネル入口。遠景に出口の駿河湾が見える。

 

写真4 「かわかんじょう」
 水害の慰霊と川の安全を願う祭(撮影:伊豆半島ジオパーク推進協議会)。

 

 


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