SERI Monthly (2019年8-9月合併号)に加筆

伊豆ジオめぐり(5)

下田の大地の物語

海と陸とが出会う場所

火山学者 小山真人

下田港と須崎半島
 下田は伊豆半島の南端のやや東にある港町であり、江戸と西日本を結ぶ海路上の風街港として栄えた古い歴史がある。下田港の岸壁にあるペリー提督の銅像が物語るように、幕末には西洋諸国との開国交渉の舞台ともなった。険しい山々が海岸近くまで連なる伊豆半島の中で、ここが良港として成立し得た理由は何だろうか。
 下田港の地形をよく見ると、その東側を守るように須崎半島が突き出て、外洋の荒波から港と市街地を守っている(写真1)。さらに、入江の最奥部には稲生沢川が流れ込み、川が運んだ土砂によって海岸平野がつくられた。稲生沢川を北にさかのぼって峠を越えれば、東海道への陸路のアクセスも得られる。
つまり、波静かな入江、港町と田畑が立地できる平地、稲生沢川による水の利、陸路でのアクセスなどの好条件がそろったため、港町・下田が成立したのであろう。

須崎半島をつくった大地の隆起
 では、下田港のもっとも重要な成立条件である須崎半島は、なぜそこにあるのだろうか。それを考えるヒントはその地形にある。須崎半島の地形は、凹凸の激しい伊豆半島の山地と比べて異様なほど平らなことがわかる(写真1、2)。このような地形を「海岸段丘」と呼ぶ。海岸段丘は、かつての浅瀬や海岸平野が隆起してできた台地である。
 現地に行けば、その隆起の証拠をあちこちで見ることができる。須崎半島南端にある恵比須島は、その周囲を千畳敷と呼ばれる平らな磯が取り巻いている(写真2)。千畳敷は、かつて波に削られていた浅瀬が隆起してできた地形である。
恵比須島の灯台が建つ小さな台地も、さらに古い時代の浅瀬が隆起してできた。こうした高さの異なる台地は、須崎半島全体に何段もある。かつて海底にあった伊豆を本州に衝突・隆起させたプレート運動が、その後も半島の東海岸を時おり隆起させているのである。

写真1 下田市街と下田港。対岸に須崎半島

 

写真2 須崎半島(奥)の南端にある恵比須島(手前)

 

美しい海底火山の地層
恵比須島をめぐる歩道ぞいの崖に見られる美しい縞々の地層は、伊豆全体がまだ海底だった時代に、火山の噴火で降り積もった火山灰である(写真3)。こうした海底火山の地層は、恵比須島だけでなく、須崎半島全体を含む下田周辺の各地で見られる。
水仙の群落で名高い須崎半島東端の爪木崎にも、みごとな海底火山の造形がある。俵磯の柱状節理である(写真4)。地層と地層の間に分け入ったマグマが冷え固まった際に、その収縮によって規則正しい割れ目が刻まれた。
こうした美しい地層や岩石は「伊豆石」と呼ばれ、古くからあちこちで採石され、建材として利用されてきた。下田市内のペリーロード付近を歩くと、伊豆石でつくられた家や蔵を今でも見ることができる(写真5)。

波と風が生んだ芸術
そうした美しい地層・岩石の崖に最後の彩りを添えたのが、伊豆半島に打ち寄せる波や風の力である。
波の力の代表作が、下田市の南端付近の海岸にある龍宮窟である(写真6)。打ち寄せる荒波が、古い亀裂に沿って地層を徐々にうがち、洞窟状に掘り進めた。こうしてできた洞窟は海食洞と呼ばれ、伊豆半島のあちこちにある。本連載の第3回で紹介した堂ヶ島海岸の天窓洞もそのひとつである。
天窓洞もそうであったように、海食洞の天井の一部が崩落し、天窓が開くことがある。龍宮窟もそのひとつであり、天窓がとくに大きく広がったため、内陸側から人が入れるようになった。
風の力の芸術は、龍宮窟の北隣りにある「サンドスキー場」である(写真7)。強い海風によって砂が運ばれ、海岸の崖に吹きだまって美しい急斜面をつくっている。
海底火山の噴火で積もった地層、海岸の隆起による地形、そして現代の波と風がつくる芸術、まさに下田の大地は海と陸とが出会ってつくられた場所なのだ。

写真3  恵比須島の凝灰質砂岩

 

写真4 爪木崎近くの俵磯にある柱状節理

 

写真5 伊豆石づくりの建物が目立つペリーロード

 

写真6 海へと続く洞窟が幻想的な龍宮窟

 

写真7 サンドスキー場

 

 

 


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