SERI Monthly (2020年3月号)に加筆

伊豆ジオめぐり(10)

松崎の大地の物語

誇るべき歴史と人材育成

火山学者 小山真人

松崎という土地
 松崎は、伊豆半島の南西部に位置し、那賀川と岩科川が駿河湾に流れ出る小さな海岸平野に発達した町である(写真1)。その周囲は海底火山時代に噴出した岩石からなる険しい山々に囲まれるが、北東部の長九郎山と南西部の天神原付近のなだらかな地形は、隆上で噴火した火山(長九郎火山と蛇石火山)の溶岩流がつくった。
 陸上火山の溶岩は割れ目が多く水を通しやすいのに対し、その下にある海底火山の岩石は固く変質して水を通しにくいので、その境界付近には豊富な湧水がある。それを利用したのが石部の棚田である(写真2)。
  一方、海底火山が噴出した岩石は激しい浸食を受け、数々の奇岩や美しい地層を露出させている(写真3)。もろくて切り出しやすい火山灰の地層は、古くから「伊豆石」として採掘され、半島内や南関東の各地で建材として利用されてきた。

立地が育んだ経済と文化
 那賀川と岩科川が合流する河口付近には港がつくられ、海上交通の要衝となり、人口や物資の集積点となった。それに加え、温暖・湿潤な気候が良質の早場繭の生産を可能としたため、明治・大正期に県内有数の養蚕・製糸業の拠点となり、町には豪商が店を連ねた(写真4)。
 こうした旧宅は、「なまこ壁」という漆喰を盛った格子状の立体模様に彩られ、冬の強い西風による火災リスクを低減させている。鏝によって漆喰を盛る職人の中から、鏝絵の芸術家・入江長八(1815-89)が現れた。彼の作品は、記念館・美術館だけでなく、町並みの外観や寺社・旧家の内装などの各所に今も残されている。

写真1 松崎の中心街。市街地の中心を那賀川が流れる。遠景に駿河湾をはさんで南アルプスと富士山

 

写真2 石部の棚田。駿河湾が一望できる松崎町石部の山間にあり、募集による複数オーナー制度を採用

 

写真3 雲見の烏帽子山。松崎町雲見付近の海岸。左にそびえる奇岩が烏帽子山。遠景に富士山

 

写真4 なまこ壁の旧家。漆喰を盛った「なまこ壁」が目立つ松崎の町並み

 

人材育成の拠点
 松崎の特筆すべき特徴は、幕末から明治にかけての人材育成の拠点となったことである。那賀川沿いの名家に生まれた土屋三余(1815-66)は、若くして江戸で勉学して名声を得た後、故郷に戻って「三余塾」を開いた。彼の下には伊豆だけでなく全国から700人を超える門下生が集まり、綺羅星のごとく近代日本の様々な分野を支えるリーダーとなった。
 そのひとり依田佐二平(1846-1924)は、養蚕・製糸業を近代化した一大拠点を松崎町内に創出するとともに、海運業・銀行業のほか、三余塾の遺志をついだ大沢学舎や豆陽学校(旧下田北高校の前身)・岩科学校などの設立にも取り組み、帝国議会の衆議院議員も務めた人物である。
 彼の弟・依田勉三(1853-1925)は、十勝地方の開拓に没頭して当地発展の礎となり、北海道神宮に「帯広の農聖」として祀られている。彼が結成した「晩成社」は北海道初のバターの商品化に成功し、その社名の1字は十勝の名産品「マルセイバターサンド」(六花亭)の「マルに成」の紋章として今も残る(写真5)。土屋三余・依田佐二平・勉三の3人は松崎の三聖人として、彼らの郷里近くの道の駅「花の三聖苑」に資料が展示され、旧家は文化財として保存されている(写真6)。
 彼らに限らず、三余塾の卒業生やその関係者には驚くほどの経歴・業績をもつ人物が多い。たとえば、塾生で遠洋漁業の先駆者・石田房吉と依田一門の妻との間に生まれた石田礼助(1886-1978)は、松崎小学校を卒業後に三井物産の代表取締役や国鉄総裁にまで上り詰めた。

未来への鍵
 松崎町の人口は6500人余りで県内最少、20年後には4000人余りに減少する予測もあり、日本各地の過疎自治体と同じ悩みを抱えている。ここまで書いたように、松崎の風土に育まれた歴史や人物は、伊豆半島の中でも特異な輝きを放っている。それを知れば知るほど、町の現状は信じがたく感じられる。
 もちろん町は経済・観光振興のために数多くのプロジェクトに取り組んでいるが、全体をたばねる思想や拠点が脆弱な印象を受ける。また、何より住民自身がどれほど町の歴史を知り、その価値を理解しているかは疑問の残るところである。
 これらを解決に導く鍵は、松崎自身の歴史の中、つまり三余塾がかつて成した地元人材の育成にあるように思える。大地に育まれた地域社会のすべてを資産として保全し、それらを活用・教育しながら地域の持続可能な発展をめざすジオパークの腕の見せ所と言えないだろうか。


写真5 マルセイバターサンドの包み紙。依田勉三のつくった晩成社の「成」を掲げる。

 

写真6 松崎の三聖(土屋三余、依田佐二平、依田勉三)の記念碑

 

 


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