伊豆新聞連載記事(2011年12月18日)
火山学者 小山真人
津波碑というものは、物的な証拠が残りにくい津波の脅威を石造物などの目に触れやすい形で記録し、その事実を後世に伝えるものであると前回述べた。一方で、津波によって被災した建造物や物体を、そのまま保存して子孫へのメッセージとする考え方も成り立つ。この方が、石造物に書かれた文章よりも視覚的・効果的に津波の脅威を伝えることが可能である。
地震・火山災害では、こうした被災遺構を保存して後世に伝える努力が広くおこなわれている。伊豆半島での地震遺構の例を前々回に紹介したが、さらに全国に目を向ければ、阪神・淡路大震災の液状化によって崩れた神戸港の桟橋を保存した「神戸港震災メモリアルパーク」や、同震災の地震断層とその真上に建つ民家を保存した「野島断層保存館」が有名である。また、噴火遺構の例としては、雲仙普賢岳の火砕流で焼かれた小学校の校舎や土石流で埋まった家を保存した例、有珠山の火山泥流で被災したアパートや火山弾に撃ちぬかれた幼稚園を保存した例などを挙げることができる。これらの噴火遺構は、いずれも今や島原半島ジオパークと洞爺湖有珠山ジオパークの目玉として世界中から観光客を集めている。伊豆周辺の例も挙げると、三宅島では1983年噴火の溶岩流で埋まった小学校の校舎や2000年噴火の泥流で埋まった鳥居を保存している。また、人災の部類に入るが、災害遺構が世界遺産になった例として広島の原爆ドームがある。
豊富な地震・噴火遺構の実例に比べ、どうしたわけか津波遺構の例はほとんど知られていない。もちろん津波碑は伊豆だけでなく日本中に数多くあるし、津波で打ち上げられた岩(津波石)が保存された例も多い。インドネシアには2004年スマトラ沖地震の津波で乗り上げた船などを保存した例があると聞く。しかし、東日本大震災以前の日本で、津波で被災した建造物が保存されたという話をほとんど聞かないのである。
津波の被災経験が後世にうまく伝えられなかった結果、子孫に大きな犠牲を生じることになった事例が、すでに知られている。1707年宝永地震の直後の大阪で、余震や火災におびえて運河上の船に避難した人々が、襲来した津波によって多数溺死した。ところが、ある史料によれば、この貴重な経験と教訓は、「遺族が心を痛める」という理由であまり語られなかったために、百余年を経た頃にはすっかり忘れ去られていたそうである。そして、1854年安政地震の直後に船上へと避難した多くの人々が、ふたたび津波の犠牲となったのである。さすがに、この二度の過ちを反省した大阪の人々は、そのことを石碑にしっかりと刻みつけて後世に伝えている。雲仙普賢岳の土石流で埋まった民家を保存した公園。島原半島ジオパーク。
1983年三宅島噴火の溶岩流に埋まった小学校の校舎を保存した公園。