伊豆新聞連載記事(2011年12月11日)

伊豆ジオパークへの旅(79)

伊豆ジオパークの目標(36)ジオパークと防災(26)

火山学者 小山真人

 津波に襲われても海岸の地形自体が変わることはめったにないから、津波の物理的痕跡は、意識して残さない限りは地表にほとんど残らないと前回述べた。伊豆半島の周辺海域には大きな地震と津波をたびたび引き起こしてきた震源断層があり、実際に関東地震、東海地震、神奈川県西部地震などによる津波被害が数々の古文書に記されている(本連載第1部第99〜101回参照)。しかし、津波で被害を受けた建物はやがて解体・修復され、森や草地もよみがえった結果、そこが津波の被災地であったことを知る手がかりはほとんど見つけられない。巨大な津波は、まれに海岸付近の地形に大きな変化を与える場合もあるが、伊豆半島での確かな例はまだ知られていない。1854年安政東海地震の津波は沼津市下香貫に池を出現させたが、今は埋め立てられてしまった(本連載第37回)。
 前回述べたように、火山噴火や繰り返す地震は地形そのものを大きく変えることが多いため、風景を読み解くことができれば過去の災害履歴も知ることができる。しかし、津波の場合は、被災から長い時間が経過すると、その事実を風景から読み取ることは、まず不可能となる。つまり、後世の人々は、古老から教わったり書物で勉強したりしない限り、そこが津波の常襲地帯であることに気づくことができない。何らかの工夫をしない限りは、津波被災の経験と教訓は後世に伝わらないのである。
 このことに危惧を感じた人々は、みずから風景にそれを刻む術を考え出した。津波碑(ひ)である。津波碑のほとんどは石造物であり、石塔・石板・石仏などの場合が多いが、祠(ほこら)や神社を新たに置く場合もある。伊豆半島の海岸地域には、こうした数多くの津波碑が残されている。有名なものとしては、伊東市の行蓮寺や仏現寺にある1703年元禄関東地震の津波供養塔、下田市の稲田寺にある1854年安政東海地震の「津なみ塚」などが挙げられよう。行蓮寺や伊東市川奈の海蔵寺の石段には、言い伝えにもとづいて設置された津波到達高の石版表示もある。また、西海岸の例としては西伊豆町安良里(あらり)の多爾夜(たにや)神社の浪切不動尊、伊豆市土肥の波尻観音などが知られ、静岡新聞の連載記事「歴史津波に学ぶ」(本年5月18〜27日)で紹介された。やや特殊な例としては、伊豆市小下田の三島神社がある。この神社は、1498年明応東海地震の津波によって被災した集落が神社より高い場所に移転したため、集落から道を下って参拝する珍しい「下り宮」となったことが、本年9月11日の本紙で紹介された。
 残念ながら、こうした伊豆半島の津波碑を集大成した資料は知られていないため、ジオパーク指針書でもその一部しかジオサイト候補地にリストアップできなかったが、いずれもジオパークの貴重な構成資産となりえるものである。

伊東市宇佐美の行蓮寺にある1703年元禄関東地震の津波供養塔。

 


伊東市を流れる松川のほとりにある1923年大正関東地震の津波到達点の石標。現代の津波碑である。

 

 

 

 


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