伊豆新聞連載記事(2011年12月4日)

伊豆ジオパークへの旅(78)

伊豆ジオパークの目標(35)ジオパークと防災(25)

火山学者 小山真人

 本連載の第51〜74回では「防災」、つまり災害を未然に防いだり、その影響を最小限にするための理論や方法について語ってきた。しかし、災害が起きた後のことにも少し触れておきたいと思う。
 火山が噴火した場合には、それまで何もなかった場所に火口や溶岩台地ができたり、溶岩流が川をせき止めて湖ができたり、あるいは海だった場所に新しい陸地ができたりして地形が大きく変化するから、それらを元に戻すことは困難である。都市や社会のありかたを新しい地形に適応させていくしかないし、実際に古来より伊豆の人々は火山がつくった地形や産物をうまく利用し、それを生活の糧として災害を乗り越えてきた(本連載第1部第132〜135回参照)。
 では、地震や津波の場合はどうだろうか? 地震にともなって広い範囲の土地が隆起・沈降することがある。たとえば、伊豆の東海岸には隆起した海岸地形が見られ(第1部第113回)、さらにそうした隆起が何度もくり返されてできたのが須崎半島や初島である。また、内陸で起きる地震は、地盤をずらして地震断層を出現させることがあり、それがくり返せば大きな地形の段差や谷となる(第1部第102〜108回)。こうした地形は、やはり「復旧」することが困難のため、後世の人々は火山地形と同様に、それらをうまく活用してきた。
 ただし、地震1回分の土地の変化は微小である場合が多いため、それらの復旧は比較的容易であり、実際に段差やずれを元通りに戻した例は多い。さらに、津波の場合は、建物が大きな被害を受けても地形自体が変わるということはめったにないから、意識して残さない限りは、津波の物理的痕跡は地表にほとんど残らないことが普通である。
 意識して残した伊豆半島の地震痕跡として有名なのは、函南町の「丹那断層」と「火雷(からい)神社」、ならびに伊豆の国市の「地震動の擦痕(さっこん)」である。函南町の2つは、1930年11月26日に起きた北伊豆地震の地震断層によってずれた石積みや石段を保存したものである(第1部第104回、本連載第26回)。火雷神社では、地震の揺れで崩れた鳥居も保存されている。また、「地震動の擦痕」は、やはり北伊豆地震の際に生じた激烈な震動の傷跡が、魚雷の表面に記録されたものである(本連載第21回)。「丹那断層」と「地震動の擦痕」は国指定の天然記念物にもなっている。こうした地震痕跡は、放っておけば修復されて完全に失われてしまうはずのものであったが、災害を記録して後世に伝えたいという先人たちの思いが結実して保存された。その結果、今では世界有数の災害遺構となり、ジオパークの見学スポットであるジオサイト候補地にも名を連ねているのである。

函南町の火雷神社。1930年北伊豆地震の遺構が保存されている。

 

伊豆の国市江間にある「地震動の擦痕」

 

 

 


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