伊豆新聞連載記事(2011年2月20日)
火山学者 小山真人
前回述べた静浦・内浦ジオサイトと同種の海底火山の噴出物は、沼津市の牛臥(うしぶせ)山のふもとの海岸でも観察できるが、ここで見られるものの多くは海底を流れた溶岩流や土石流である。西のふもとにある大朝神社には、日蓮が津波被害に苦しむ住民のために祈祷をおこなったという伝説がつたえられている。実際に沼津の海岸地域は、歴史上くりかえされた東海・南海地震(本連載第1部第100回)の津波にたびたび襲われてきた場所である。1854年安政東海地震にともなった津波は、下香貫付近の内陸に浸入して池をつくったことが当時の絵図に描かれている。この池は明治なかばまで残っていた。こうした歴史に学び、この地域には防潮堤、避難路、避難施設、水門などのさまざまな津波対策施設が建設されている。沼津港の奥部とその背後の市街地を守る巨大な津波水門「びゅうお」もその一つである。この水門には展望台が備えられ、狩野川下流部や静浦山地の地形景観を楽しめる。こうした見どころの豊富なこの地域を、千本浜・牛臥山ジオサイトとして一括した。なお、この地域の背後にある香貫山には展望台が設けられ、この地域のみならず沼津市周辺の景観の絶好のビューポイントとなっているため、香貫山ジオサイトとして扱う。
沼津市街地やその背後にある静浦山地、達磨山、天城山などのすばらしい地形景観は、沼津市の北に広がる愛鷹山の高台の各所からも望むことができるため、この地域を愛鷹山南麓ジオサイトとした。南や南東に向かって裾を引くこの高台は、愛鷹火山が浸食されてできた火山麓扇状地の一部にあたる。このサイト東端の黄瀬川ぞいの川窪という場所(沼津市南小林)は、安政東海地震の際に陥没が起きた場所であり、先に述べた下香貫の津波池と同じ作者の絵図が現存している。また、サイト南端の熊堂(くまんどう)にある大泉寺(たいせんじ)は、1703年元禄(げんろく)関東地震の後に起きた富士山の鳴動(おそらくは富士山の噴火未遂事件)が記録された場所である。なお、この時には噴火しなくて済んだ富士山は、約4年後に起きた1707年宝永東海地震の直後に大噴火(宝永噴火)を起こすこととなった(同77回)。
駿河湾をはさんで沼津市街地の対岸にある西浦ジオサイトの見どころは、北に向かってなだらかに裾を引く台地の群れと、それらの間を刻む細長い入り江である。これらの台地は、その南側にかつてそびえていた陸上大型火山・達磨(だるま)火山(同36回)の裾野の一部が浸食され残ったものである。こうした地形の特徴は、天気の良い日に静浦や内浦方面から遠望したほうが納得しやすいだろう。
上空から見た沼津市街と静浦山地。うねる大きな河川は狩野川。河口に沼津港が見える。
牛臥山の西麓の海岸に見られる流紋岩の岩塊。