伊豆新聞連載記事(2009年6月21日)

伊豆の大地の物語(95)

伊豆東部火山群の時代(55)岩ノ山-伊雄山火山列

火山学者 小山真人

 前回述べた2つの溶岩ドーム、矢筈山(やはずやま)と孔ノ山(あなのやま)は、浸食による凹凸の激しい天城山の北東斜面に噴出したため、それぞれの山体の周囲にかつての谷をせき止めた跡とみられる凹地がいくつか残っている。とくに、両山体の南西隣に位置する凹地が目立って大きい。
 しかし、孔ノ山と前々回で述べた岩ノ山(いわのやま)との間には、そうしたでき方では説明がつかない孤立した凹地が3つあり、北西側からそれぞれ岩ノ窪(いわのくぼ)、富士見窪、孔ノ窪(あなのくぼ)と呼ばれている。これらの凹地は、小規模な水蒸気爆発を起こした火口とみられている。もっとも大きな孔ノ窪(直径200メートル)からは1枚の溶岩流が流れ下り、すぐ北東の遠笠山道路に達している。
 一方、反対方向に目を転じると、矢筈山の南東3キロメートルに伊雄山(いおやま)(標高459メートル)がある。伊雄山は、伊東市の赤沢別荘地の背後にある小高い丘であるが、実は大室山などと同じく、粘りけの少ない溶岩のしぶきが火口の周囲に降りつもってできたスコリア丘(きゅう)である。本連載の第76回でも述べたように、伊雄山からは2億トンもの溶岩が流出して東側の相模湾に流れこみ、現在の浮山(うきやま)温泉郷のある広い台地がつくられた。
 その後の土地改変によって今ではわかりにくくなってしまったが、まだ赤沢別荘地や浮山温泉郷が無かった頃の昭和37年の航空写真を見ると、伊雄山から流れ出た溶岩流の地形が見事に残っている。溶岩流が伊雄山の東のふもとから二筋に別れて流れ下り、それぞれが相模湾に達した後に海を埋め立てて広がり、やがて合体してひとつの溶岩台地を形成していった様子が手にとるようにわかる。
 以上述べた火山や火口は、前回述べた岩ノ山とともに、北西-南東方向の見事な火山列をつくっている。北西から岩ノ山-岩ノ窪-富士見窪-孔ノ窪-孔ノ山-矢筈山-伊雄山の順であり、端から端までの距離は約6キロメートルである。この火山列は、すでに本連載でいくつか例を述べてきたように、同じ噴火割れ目の上に同時に噴火してできたとみられている。噴火年代は、前回の岩ノ山の説明で述べた通り、約2700年前である。

伊東市赤沢の沖から見た伊雄山(いおやま)。

 

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