伊豆新聞連載記事(2009年4月12日)
火山学者 小山真人
前回述べた大室山の火山灰C層が降りつもった頃、大室山の西のふもとから最初の溶岩流(溶岩流I)がわき出した。この溶岩流の量は1300万トンほどであり、北と南の二筋に分かれ、それぞれ伊東市十足(とおたり)方面と池(いけ)方面に流れ下った。この頃、池付近の地形は現在とまったく異なっていて、その西の鹿路庭(ろくろば)峠付近から始まる深い峡谷があった。溶岩流はこの谷に流れこみ、その途中をせき止めてしまった。その結果、谷底を流れていた川が出口を失い、おそらく一碧湖(いっぺきこ)2つ分くらいの面積の湖がつくられた。この湖が、現在の「池」の名の元となったのである。この湖は、まわりの山から流入した土砂によって徐々に埋め立てられ、明治初年には当初の3分の1ほどの大きさにまで縮小していた。明治二年になって、この湖の出口に排水トンネルを掘り、干拓して作られたのが現在の池の盆地である。
噴火が続き、次の火山灰D層が降りつもる頃になると、今度は大室山の北東と南のふもとの2ヶ所(前々回述べた岩室山と森山)から、溶岩流Iを30倍ほど上回る4億トン近くもの溶岩(溶岩流IIと溶岩流III)があふれ、北・東・南東の3方向へと流れ始めた。北に向かった溶岩流は一碧湖の西岸をかすめ、城山(しろやま)の南東で伊東大川に流れ込んだ後、さらに北に1キロメートルほど流れて伊東市鎌田(かまだ)の近くまで達した.この溶岩流の一部が少しだけ一碧湖内に流れこみ、十二連島(じゅうにれんとう)と呼ばれる島の連なりをつくった。また、一碧湖の南東隣りにある沼池火口の中にも流れこんで、火口の南半分を埋めてしまった。さらに、この溶岩流によって十足付近の谷がせき止められたため、そこにも湖ができた。この湖はその後自然に埋め立てられ、現在の十足の盆地となっている。
大室山から東に向かった溶岩流は、伊豆ぐらんぱる公園の北側から谷間を東に下り、伊豆急行富戸(ふと)駅付近を通過した後に海に達し、海岸に溶岩扇状地をつくった。この扇状地の上につくられた町が、現在の富戸の温泉街である。南東に向かった溶岩流はもっとも量が多く、伊東市払(はらい)と八幡野(やわたの)の間で海に流れ込み、かなりの面積の海が埋め立てられた。この結果つくられたのが、現在の城ヶ崎(じょうがさき)海岸である。
大室山の山頂から見た池の盆地。盆地の左(東側)に見える町の下に、大室山の溶岩流がある。