伊豆新聞連載記事(2010年1月17日)
火山学者 小山真人
1989年(平成元年)7月13日に伊東沖で生じた海底噴火の噴煙は、幸いにして18時44分頃のものを最後として目撃されなくなった。つまり、海面上に噴火が目撃されたのは、噴火開始からわずか10分足らずであった。7月11日から翌日にかけて記録されたものと同じ大きな火山性微動が、13日の噴火にともなって再び観測されたが、同じ日の19時過ぎに終息した。その後も同様の微動が時々発生したが、7月21日を最後に観測されなくなった。
7月9日の測量では何も認められなかった水深95メートルの海底に、7月13日になって高さ25メートルほどの小丘が誕生していることを、噴火の直前にその上を通過した海上保安庁の調査船「拓洋」が確認している。噴火の後、この小丘の頂部に直径200メートル、深さ40メートルほどの火口が確認された。これが、現在もはっきりと海底地形に残る手石海丘(ていしかいきゅう)火山である。
7月13日の噴火直後に、伊東市内の海岸に白黒まだらの軽石が多数流れ着いた。化学分析の結果、その白色部分は、海底にあった古い地層中の火山灰などが再加熱されたものとわかったが、それを取り巻く黒い部分は、他の伊豆東部火山群が噴出した岩石と同じ化学的特徴をもつものであった。つまり、岩石学的な面からも、手石海丘火山が伊豆東部火山群の一員と確認されたのである。
伊東沖海底噴火が、専門家ばかりでなく地元の社会に与えた衝撃は相当なものであった。静岡新聞社取材班は、噴火に関わったさまざまな立場の人へ精力的な取材を続け、その結果を噴火後の1989年10月から翌年6月にかけて静岡新聞の長期連載記事としてまとめている。この特集記事は後に「地球のシグナル」(静岡新聞社刊)という立派な本にまとめられ、今でも図書館などで閲覧可能である。それはさながら、突然の火山の目覚めに翻弄されながらも、生活と安全を守るために必死で対応した人々の群像である。
この噴火は、私のその後の研究人生にも大きな影響を与えた。1989年頃は、ちょうど私がそれまでの地質学主体の自分の研究テーマを、火山学主体のものへと移行させている時期にあった。1983年の三宅島、1986年の伊豆大島の噴火を直接現場で体験し、つよく印象づけられていた私は、とどめの伊豆東部火山群の噴火を機に、火山の噴火史や防災の研究にのめりこむようになった。
1991年に静岡新聞社から刊行された「地球のシグナル」。関係者への綿密な取材にもとづく伊東沖海底噴火の貴重なドキュメントである。