伊豆新聞連載記事(2009年12月13日)
火山学者 小山真人
前回紹介した『小室村誌』は、1913年(大正二年)という比較的新しい時代に編集されたものとはいえ、他の史料では知りえない記録を多数含んでいて貴重である。
その中に、文化十三年十一月十一日〜十二月四日(1816年12月29日〜1817年1月20日)の間,毎日地震があったが幸いにして人畜家屋には被害がなかったことが、現在の伊東市川奈地区の出来事として語られている。村誌の編集時期から100年近く前の事件であることや、出典史料が示されていないことから、この記事を単純に事実とみなすことはできない。しかし、近い時期の疫病流行や大火が出典史料を挙げて詳しく記述されていることを考えると、必ずしも編集材料がなかった時代とは言いきれない。よって、この記事は、川奈沖で群発地震が1816年末〜1817年初頭にかけて生じたことを示すと考えられる。
さらに時代を下ると、同じ川奈地区の事件として「明治元年日々地震あり。石垣土手の崩壊するもの甚だ多かりき」という記述が現れる。これも群発地震の記録と考えられるが、具体的な月日や出典史料が記されていない。しかし、明治元年は『小室村誌』成立のわずか45年前にあたり、編集時には事件の体験者が多数生存していたと考えられ、実際に同年の他の記事には体験者の談話が採録されている。したがって、明治元年(1868年)の地震記事は体験者の記憶をもとに書かれた可能性が高いだろう。
さらに、この地震には別の記録が2つ存在する。ひとつは、当時「地震博士」として名をはせた東京帝国大学の今村明恒(あきつね)教授らの1930年伊東群発地震(次回で詳述)の調査結果にある古老の談話である。この地方では(1930年の)60年ほど前にも地震が頻発し、今回の地震よりも強かった。約2ヶ月間、毎日多数の地震があって、以後も半年ほどは時々ゆれたとの内容である。古老の名前や住所は記されていないが、川奈でも同様な話を聞いたと記しており、少なくとも2人の古老が同様のことを今村たちに語ったようである。もうひとつは、伊東市立西小学校が所蔵する1930年伊東群発地震の記録(かつて加藤清志先生が本紙で紹介)の中に、伊東の岡地区の古老の談話として、伊東では明治三年四月初めから六月にかけて連日小地震があったとの記述がある。明治元年と三年で若干の食い違いがあるが、いずれにしても明治初年に伊東沖ではっきりとした群発地震があったことは間違いないだろう。
南から見た川奈の港。中ほどに見える岬は汐吹(しおふき)崎、その背後に手石(ていし)島が見える。