伊豆新聞連載記事(2009年11月29日)
火山学者 小山真人
1978年以来、断続的に伊豆東方沖で群発地震が続いている。この群発地震の原因が伊豆東部火山群のマグマ活動であることは、1989年7月13日の伊東沖での噴火によって証明された。前回述べたように、マグマに押しのけられた岩盤の歪みが限界に達し、次々と地震が起きるのである。こうした群発地震は、いつまで続くのだろうか?
この切実な疑問を解くためには、歴史をふりかえることが一つの鍵になる。本連載の第41回から98回まで、伊豆東部火山群が残した物証(噴出物)から噴火の歴史をふりかえった。しかし、噴出物をほとんど残さなかった小さな噴火は、そうした調査からもれることがある。ましてや地下のマグマ活動に至っては、地表に何も証拠を残さないことが普通である。つまり、マグマ活動の全体像を知るためには地質学的手法だけでは不十分であり、歴史時代においては古記録を読み解くことも重要となる。人間が書き残した歴史の中に、伊豆で起きたとみられる群発地震やマグマ活動の痕跡を探すのである。すでに噴火記録の候補として、本連載の第115回と116回で832年と1854年の事例を紹介し、どちらも現状では否定されていることを述べた。今回から他の事例をまとめて紹介していこう。
伊豆半島内で起きた群発地震の現存記録として最古のものは、伊豆の地誌として名高い『増訂豆州志稿(ぞうていずしゅうしこう)』にあり、「慶長元年五月二日(1596年5月28日)に地震があり、月を越えた」と書かれている。最初に大地震があって、その余震が翌月まで引き続いた可能性も否定できないが、場所が特定されていないため詳細は不明である。
次に表れる候補は1737年のものである。当時の駿府(現在の静岡市)にあった硯(すずり)屋の主人が書きつづっていた『硯屋日記』に、元文二年三月〜四月(1737年3月31日〜5月29日の期間に相当)に伊豆でたびたび地震があり,四月はとくに強いゆれが何度もあったと書かれている。この地震によって、熱海・修善寺・吉奈(よしな)温泉などの湯治客の多くが故郷に帰ってしまったという。期間の後半に強いゆれが何度もあった点から、大きな本震とその余震の記録ではなく、群発地震の疑いが強い。場所は定かでないが、伊東の名前が見られないことから北伊豆または中伊豆が震源域とみられる。
写真の右半分のつい立てのような岩板は、大地を引き裂いて上ってきた伊豆東部火山群のマグマが冷え固まってできた岩脈である。現在は地下ダムとなって豊かな水源をもたらしている。伊東市の水道山。