伊豆新聞連載記事(2009年8月23日)

伊豆の大地の物語(104)

生きている伊豆の大地(6)丹那断層(3)

火山学者 小山真人

 丹那(たんな)断層の大きな横ずれを発見した久野久(くのひさし)の論文が出版される5年前の昭和5年11月26日の未明、北伊豆地方を大きな地震が襲った。1930年北伊豆地震(マグニチュード7.3)である。当時まだ東大の学生であった久野が伊豆の地質調査に取り組むことになったのは、そもそもこの地震が注目を浴びたからである。北伊豆地震にともなって、丹那断層とその南西延長、そしてさらにその南東側の姫之湯(ひめのゆ)断層(伊豆市姫之湯)に、場所によっては2メートルを越える横ずれが生じた。
 この横ずれは、当時丹那盆地の地下で掘り進められていた丹那トンネルの工事現場も直撃した。この場面を、吉村昭の小説「闇を裂く道」は次のように記している。
「断層が動いたのだ」広田の口からもれた言葉に、他の者の目は一層大きくひらいた。偶然にも、切端(きりは)は断層線と一致していた。と言うよりは、断層に到達したので、その位置で一時工事を中止していた。地震が起り、断層の東側が北へ、西側が南へ大きく移動し、そのため、支保工(しほこう)の左側の柱は断層の裂け目に吸い込まれ、右側の柱が切端の左側に移ったのである」
 ここで食い違ったトンネルは、現在の東海道本線に使用されている主トンネルではなく、水抜坑(みずぬきこう)と呼ばれる副トンネルである。トンネルは東側(熱海側)と西側(函南(かんなみ)側)の両方から掘り進められていたが、西側のトンネルがちょうど丹那断層に達したところで湧水が激しくなって工事を中断し、主トンネルに沿った水抜坑を掘り進めていたところであった。そのうちの3本が断層のずれによって2メートルあまり食い違い、トンネルの先端部は移動した岩盤によって完全にふさがれてしまったのである。工事は夜を徹しておこなわれていたが、幸いなことに先端部に閉じ込められた人間はいなかった。
 「闇を裂く道」は、16年もの歳月を費やした丹那トンネルの難工事を描いた作品である。工事そのものの話以外にも、北伊豆地震の原因やトンネルの安全性についての論争などが描かれていて興味深い。かつて湧水が豊富でワサビ栽培が盛んであった丹那地方が、トンネル工事によって渇水したため、当時の鉄道省の補償によって酪農地帯に生まれ変わった経緯もわかる。

今も残る北伊豆地震の際のずれ。破線の地下を丹那断層が通過している。AとA’の石垣、BとB’の水路が同じ方向に1メートルほどずれている。半円形の石積みCDとC’D’は、元はひとつの円形だった。函南町の丹那断層公園。

 

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