(伊東市史研究第1号)

火山がつくった伊東の大地と自然

 ―火山の恵みを生かす文化構築の提案―

小山真人(静岡大学教育学部総合科学教室,伊東市史編集委員)

一 はじめに
 一九八九年七月一三日、伊東市の沖合三キロメートルの場所で海底噴火が起こり、手石海丘(ていしかいきゅう)という海底火山が誕生しました。伊豆半島でおきた有史以来初の噴火であったため、人々の驚きは大変なものでした。しかし、伊豆半島の長い地質学的歴史を調べると、これまで幾多の火山が噴火を繰り返してきたことがわかります。図1は、伊豆半島とその周辺において最近二百万年間に活発な噴火活動をおこなった火山をすべて示したものです。天城(あまぎ)山や達磨(だるま)山も、かつては激しい噴火をたびたび起こした火山だったのです。ただし、これらの火山のうちの多くは、すでにその火山としての生涯を終えています。

図1:伊豆半島とその周辺の火山分布図。図中の四角枠は図3の範囲を示す。



 歴史に残る噴火記録や地質学的に調査された噴火史から判断して、今後も噴火する可能性がある火山(つまり、活火山)は、富士・箱根・伊豆大島の三火山と、伊豆半島東部とその沖合に分布する小火山群(図中の▲と○)です。手石海丘や大室山・小室山は、この小火山群の仲間に属しています。手石海丘の噴火後、これらの小火山群をまとめて伊豆東部火山群という名前が気象庁によって付けられました。
 活火山と聞くと、何やら恐ろしげなイメージをもつ方々が多いと思います。しかし、手石海丘の噴火が伊豆半島における約二千七百年ぶりの大事件であったことからわかるように、火山はめったに災害をもたらさず、それどころか普段は大きな恵みを私たち人間に与え続けてくれているのです。
 本稿では、火山についての基礎知識や伊豆東部火山群の生い立ち・学術的価値などをやさしく解説するとともに、長い目でみて火山活動が伊東の大地とそこに暮らす人々にいかに大きな恵みを与えてきたかについて説明しようと思います。そして、火山の恵みを最大限生かした観光や社会教育のあり方についての若干の提案もしようと思います。

二 大きな火山と小さな火山
 伊豆東部火山群に属する火山は、そのほとんどが単成(たんせい)火山という種類の火山です。単成火山は、いったん噴火して小型の火山を生じた後、二度と同じ火口から噴火しない性質をもつ火山です。これに対し、同じ火口から何度も噴火を繰りかえして、その火口の周りに溶岩や火山灰を積もらせ、ひたすら大きな火山体を成長させる火山を、複成(ふくせい)火山と呼んで区別します。
 富士火山、箱根火山、伊豆大島火山などが、伊豆半島付近における代表的な複成火山です。単成火山は、伊豆東部火山群でみられるように、ある地域に群れをなして存在することが多いようです。このような単成火山の群れ、すなわち単成火山群に属するひとつひとつの火山は、一度噴火した後に死んでしまいます。しかし、単成火山群全体として見た場合には、次々と別の場所で噴火を起こし、新しい単成火山をつくることを繰りかえしています。
 地球上のすべての火山は、大きく分けて複成火山か単成火山のどちらかのタイプに分類されます(図2)。日本にある火山のほとんどは複成火山です。単成火山群の存在は日本では珍しく、伊豆半島と中国・近畿地方の日本海側と男鹿半島ぐらいにしかありません。とくに、同じ地域に多数の複成火山と単成火山群とが共存している伊豆半島のような例はまれです。そういう意味で、大きな学術的価値のあるものを伊東市は持っているのです。

図2:火山の種類と形。複成火山と単成火山に分けて主要なものを示した。

三 火山の形と噴火様式
 伊豆東部火山群は、海底部分も含めると百個にもおよぶ小さな火山の集合体です(図3)。富士山や箱根なら火山らしい形をしているけれども、伊豆半島のいったいどこにそんな数多くの火山があるのか、不思議に思う人がいるかもしれません。

図3:伊豆東部火山群の分布図(陸上部分のみを示した)。ゴシック体は火山の名前。明朝体は地名。細い実線は主要道路。



 伊東市にある大室山・小室山の両火山は美しい円すい形をしており、山頂にはすり鉢状の火口をもち、しろうと目にも火山とわかるものです(写真1)。大室山や小室山のようなタイプの火山を、スコリア丘とよびます。スコリアとは、軽石をまっ黒にしたような穴だらけの噴石のことを呼び、スコリアがつもってできた山をスコリア丘と言います。スコリア丘は、伊豆大島の一九八六年噴火の時に三原山火口でみられたような、粘りけが小さくて流れやすい溶岩が噴水のように吹き上がる噴火によってできます。

写真1:南方からみた大室山スコリア丘。山頂火口は隠れて見えていない。

 スコリア丘と対照的なでき方をするのが、雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)の噴火でおなじみとなった溶岩ドームです。溶岩ドームは、粘りけが大きくて流れにくい溶岩が火口のまわりに盛り上がってできるものです。伊豆東部火山群の代表的な溶岩ドームとしては、天城山の北東山腹にある矢筈山(やはずやま、写真2)やその北西方にある岩ノ山があります。

写真2:矢筈山溶岩ドーム。桜の里より。


 これらの比較的目立つ山以外の単成火山は小型であるため人の目につきにくくなっていますが、よく探せば小さな円形または円すい形の丘、あるいは円形の凹地としてみとめることができます(このため、後に述べる「火山ウォッチング」の楽しみが生まれます)。たとえば、伊東市街の南方にある円形の小さな湖、一碧湖(いっぺきこ)もそのひとつです(写真3)。この湖は、激しい水蒸気爆発(あるいはマグマ水蒸気爆発)によってできた爆裂火口(マールと呼ぶ)に水がたまったものです。爆裂火口のまわりを縁どるリング状の火山体(タフリングと呼ぶ)ができている例もあります。
 伊豆東部火山群に属する火山は、伊東市だけでなく、大仁町、中伊豆町、東伊豆町、天城湯ケ島町、河津町にも数多く分布していますが、天城山系の起伏にとんだ山肌がそれら小型の火山の姿を目立たなくしています。

写真3:大室山の山頂からみた一碧湖マール。

四 火山灰から知る噴火の歴史
 伊東市のように、せまい地域に多数の火山がある場合、それらの噴火した順序、年代、噴火間隔などをどのようにして知ることができるでしょうか?
 火山の噴火史を調べるためには、火山灰編年(へんねん)学(テフロクロノロジー)という方法がおもに用いられます。火山灰編年学とは、火山が噴出した火山灰(あるいは火山れき)の重なる順番を調べることによって、噴火順序や年代を知る方法です。雲仙普賢岳や三宅島での例からもわかるように、いったん火山の噴火が始まると火山のまわりの地域には火山灰が降りつもり、一面の灰色の世界となってしまいます。やがて噴火がおさまると、こういった火山灰は火山灰層として地中に埋もれ、火山噴火の記録として残ることになります。
 伊豆東部火山群に属する火山の多くは、噴火のさいに多かれ少なかれ火口から火山灰を噴出しています。これらの火山灰の一枚一枚は、色や組織や含まれる鉱物などに特徴があり、容易に区別することができます(写真4)。野外で地質調査をおこなうことによって、このような火山灰を地層中から見つけ、それぞれの火山灰層がどのような順番で重なっているか、どの火山から出たかなどを調べることにより、火山の噴火順序を決めることができます。

写真4:崖の上半分の黒々とした縞々に見える部分が、大室山から噴出した火山灰。


 また、伊豆半島には、伊豆半島以外にある火山の大噴火によってもたらされた火山灰も、何枚か降り積もっています。このような火山灰は日本の広い範囲をおおっているため、その特徴や噴火年代などがよく研究されています。九州の鹿児島湾内にある姶良(あいら)火山で二万六千年前におきた巨大噴火の産物であるAT火山灰、箱根火山で五万年前におきた巨大火砕流の火山灰などが伊豆半島にも降り積もっているため、これらの火山灰と伊豆東部火山群の火山灰との上下関係を調べることにより、伊豆東部火山群のそれぞれの火山の噴火年代や噴火間隔をある程度明らかにすることができます。
 以上のような方法を使い、野外調査を根気よく繰りかえすことによって、以下で説明するような伊豆東部火山群の噴火史が明らかにされてきました(図4、表1)。

図4:伊豆東部火山群の噴火順序。見やすいように三つの期間(十五万〜八万年前、八〜二万年前、二万年前〜現在)に分けて示し、それぞれの期間の中でさらに細かな期間別に火山を色分けした(白ヌキになっているものは、詳しい噴火時期が不明なもの)。また、記号の形でマグマの種類(玄武岩、安山岩、デイサイト/流紋岩、不明の別)を示した。

表1:伊豆半島で起きた主要な火山噴火の年表。伊豆半島以外で起きた大きな火山噴火(噴火した火山の欄にカッコ書きで示す)も含めた。また、伊豆半島付近で起きた主要な大地震も示した。



五 伊豆東部火山群の噴火史
 伊豆東部火山群の噴火は、まず十五万年ほど前に現在の天城高原の近くにある遠笠(とおがさ)山の噴火としてはじまり、十三万年前には大仁町南部から伊東市北部にかけての丘陵地にならぶ高塚山、長者原(ちょうじゃがはら)、巣雲(すくも)山という三火山からなる火山列の噴火が起きました。高塚山は採石場の崖で、巣雲山は伊豆スカイラインぞいの崖で、それぞれの火山体の断面を観察することができます(写真5)。

写真5:巣雲山スコリア丘の内部構造がよく見える伊豆スカイラインぞいの崖。


 十万年前ころになると、今度は伊東市の南部で大きな噴火があいついでおこり、一碧湖を中心とする北西―南東方向にならぶ火山列がつくられました。一碧湖やその南東にならぶ東大池は、激しい噴火によってつくられた火口湖です。かどの台の高台や、国道135号線が通る梅木平(うめのきだいら)という高台も、これらの火山によってつくられたものです。
 九万年前以降になると、伊豆半島東部のいたるところで火山噴火がおきるようになりました。河津町では、鉢ノ山(四万年前)や登り尾南(二万五千年前)が噴火し、河津七滝(かわづななだる)をつくる溶岩流が噴出しました。
 天城湯ヶ島町では、鉢窪山(はちくぼやま)と丸山(一万七千年前)が噴火し、そこから流れ出た溶岩流が狩野川に流れ込んで浄蓮(じょうれん)の滝がつくられました。中伊豆町では、地蔵堂という火山(2万2000年前)が噴火し、そこから流れ出た溶岩流が万城(ばんじょう)の滝をつくりました。
 一万四千年前には小室山が噴火し、五億五千万トンもの溶岩を流出しました。この厚い溶岩流のつくる台地の上に川奈ゴルフ場が建設されています。四千年前には大室山が噴火し、五億一千万トンの溶岩を流出しました。この溶岩流がつくる台地が、現在伊豆高原と呼ばれている場所です。この溶岩流は海に流れ込み、現在の城ヶ崎(じょうがさき)海岸をつくりました(写真6)。

写真6:城ケ崎海岸で見られる大室山の溶岩流。


 三千二百年前には、今から考えるとぞっとするようなでき事がおきました。天城山の山頂付近のカワゴ平と呼ばれている場所で激しい噴火が始まったのです。この噴火はまず、伊豆半島の広い範囲に軽石の雨を降らせることから始まりました。そして、それに引きつづき、何回も火砕流が発生したのです。火砕流はおもに大見川上流の谷ぞいを流れ、現在の中伊豆町筏場(いかだば)付近を埋めつくしました。また、火砕流にともなう大規模な土石流も発生し、火口から北方の大見川だけでなく、北西方の狩野川や南方の白田川を流れ下りました。火口や火砕流から噴煙として立ちのぼった火山灰は、風にのって北西の方角に流され、遠く浜名湖にまで降りそそぎました。そして、最後に厚い溶岩流が火口から北へと流れ下り、噴火は終わりました。現在ではこの溶岩流を抗火石として採掘し、建材などに利用しています。
 二千七百年前になると、天城山の北東斜面でふたたび噴火が始まり、北西―南東方向にならぶ火山列がつくられました。この火山列には三つの溶岩ドームが含まれています。大室山の山頂から天城山方面を見たとき、天城山の手前の山腹にごつごつしたつり鐘状の山が盛り上がっているのがわかります(写真2)。この山が、そのときの噴火で生じた矢筈山溶岩ドームです。そして、この火山列の噴火以来、一九八九年の手石海丘の噴火にいたるまで、およそ二千七百年間伊豆半島では噴火のない静かな時代がつづいたのです。

六 火山の並び方
 伊豆東部火山群の噴火史をしらべた結果、火山の並び方に規則性があることがわかりました。図4の太線は、伊豆東部火山群に属する火山のうちで同時期に噴火した火山同士を結び、火山列として示したものです。伊豆東部火山群では、たとえば大室山や小室山のように、ある時期にひとつの火山だけが噴火する場合もあります。しかし、たとえば矢筈山を含む二千七百年前の火山列や、一碧湖を含む十万年前の火山列のように、北西―南東方向にならぶ火山列上の火山がある時いっせいに噴火する場合が多くあることがわかります。
 このような北西―南東方向の火山列がつくられるのは、伊豆半島の地下に働く力に原因があると考えられます。伊豆半島をつくる地殻は、地球表面をおおう厚い岩板(プレートと呼ばれる)の移動にともなって北西―南東方向につよく押され、ひずみが蓄積しやすくなっています。北西―南東方向に押す力は、それと同じ方向に伸びる開口割れ目をつくりやすいことが力学的にわかっています。その場所の地下にもしマグマが入り込んできた場合、マグマは北西―南東方向の割れ目をつくりながら地表に達して噴火を始め、さらにはその割れ目上にならぶ火山列をつくることになります。伊豆東部火山群の北西―南東方向の火山列は、このようにしてできたものと考えられています。

七 伊東沖群発地震の意味と歴史
 図4には、地殻変動や地震分布のデータから推定された、手石海丘の地下にある割れ目の位置を点線で示してあります。手石海丘をつくったマグマの通路となったこの地殻の割れ目は、伊豆東部火山群の他の多くの火山列と同様、北西―南東方向を向いていることがわかります。一九七八年いらい伊東沖で繰りかえされてきた群発地震は、マグマが地殻の中に割れ目を作ろうとして起こしてきた地震であり、そのマグマの一部が地表に達した場所で手石海丘の噴火が起きたのです。
 手石海丘の噴火後も、群発地震が繰りかえし起きてきました。群発地震はいったいいつまで続くのでしょうか? 伊東沖群発地震の今後をうらなう手がかりのひとつとして重要なのが、過去の群発地震の記録です。
 一九七八年から数えて約五十年前にあたる昭和五年(一九三〇年)にも、伊東沖で大規模な群発地震(伊東群発地震)があったことが歴史記録から知られています。しかし、それ以前に起きた群発地震の記録については、まだはっきりしたものが見つかっていません。かろうじて明治元年(一八六八年)頃と文化十三年(一八一六年)の伊東に群発地震があったらしいという程度の、断片的な記録が知られているのみです(表2)。歴史時代に伊東付近で起きた群発地震の記録を古文書などから発掘し、地震活動や火山活動の将来予測や防災対策に役立てるという意味でも、今後の伊東市史の調査に重要な役割が期待されているのです。

表2:伊豆半島東方沖群発地震の歴史。現時点で文献史料からわかっているものをまとめて示した(ただし、一七三七年と一五九六年のものについては震源域が伊東沖である保証はない)。

八 火山の恵みあふれる伊東の大地
 火山は、いったん噴火をはじめると恐ろしい災害をもたらし、人々の生命や財産をうばったりしますが、長い目で見ると人間に豊かな、他に代えがたい恵みをもたらしています。伊豆高原の例でもわかるように、火山のふもとには溶岩や火山灰などの噴出物がつもることによって平らな土地がつくられ、四季おりおりに人々がつどう憩いの場となったり、田畑や牧場や都市が作られたりします。
 もし、伊豆東部火山群が噴火しなければ、伊東の大地はどのような形になっていたでしょう? 図3から伊豆東部火山群が噴出した溶岩や火山体を取り去った後の地形を想像してみてください。まず城ケ崎海岸や伊豆高原が存在しないことになります。川奈ゴルフ場の台地や、吉田の盆地もありません。赤沢別荘地や富戸の集落のある台地も存在しません。赤沢から川奈にいたるほとんどの海岸線は、場所によっては二キロメートル以上後退してしまいます。さらにその海岸線は、現在の東伊豆町や西伊豆海岸でしばしばみられるような、海岸付近にまで高山が迫った急崖となっていたでしょう。もし伊豆東部火山群が噴火を始めていなければ、伊東市は山の急斜面と海岸にはさまれた寒村のまま、現在のような形には発展していなかったと思います。伊豆東部火山群が誕生し、せっせと溶岩流を流してくれたおかげで数多くの平地や緩傾斜地がつくられ、陽光がさんさんと降りそそぐ現在の伊東の大地がつくり出されたのです。
 そして、火山のふもとには多くの場合、温泉がわき出します。伊豆半島には伊東温泉や熱海温泉を初めとするたくさんの温泉があります。温泉は、岩石の割れ目を伝っていったん地下深くしみ込んだ海水や雨水が、地下のマグマから発する地熱によって暖められ、再び地表にわき出してきたものです。
 さらに、火山の地下ではマグマや温泉からいろいろな成分が沈殿し、豊かな鉱産資源がつくられています。かつて伊豆でさかんに採掘された金鉱床も、伊豆半島の火山が長い時間をかけて育んだものです。西伊豆海岸の黄金崎(こがねざき)の崖をつくる美しい黄色やオレンジ色の岩は、火山の地下の岩石が長い時間をかけて地熱で焼かれたり、温泉水が通ったりして変質し硫黄分などが沈殿した結果、あのような色になったものです。

九 これまでの「防災教育」の問題点
 前節で説明したように、火山は噴火災害だけをもたらすわけではなく、その災害と表裏一体の関係にある豊かな恵みを私たちにもたらしてきました。しかし、その中で災害だけをむりやり切り取って怖さのみを強調し、目前の危険をとりあえず避けるための対策(たとえば、避難訓練や非常用品の備えなど)だけを訴えがちだったのがこれまでの防災教育でした。火山そのものの理解や火山がもたらす恵みについては、せいぜい前置き的に扱われるのみで重視されていませんでした。
 そのためにいろいろな問題が生じています。災害の警告と対策の強調だけを毎回呼びかけられても、どうしたって飽きてきますから防災意識は低下しがちです。それに、自然現象そのものの理解を前提とした教育ではありませんから、どうしても自然現象や災害に対する想像力が欠如します。たとえば、さまざまな火山現象の特徴やメカニズムをある程度知っていれば、災害が起きた時に自分の身の回りがどうなるかを容易に想像できますから、あらかじめ危険を避けて暮らしたり行動したりすることが可能です。しかし、現実には日当たりや交通の便だけで住む場所や通勤・通学路を決める人がほとんどです。
 これまでの防災教育は、火山の恵みと災害が表裏一体の関係にあることについても、ほとんど教えていません。火山噴火がめったに体験できないことからわかるように、火山の恵みのほうが、火山がもたらす災害よりもはるかに長時間続きます。また、火山の恵みは、実は災害があったからこそ、前節で述べたように火山が噴火して谷が埋められて平らな土地ができたとか、そういうことがあったからこそ成り立っています。しかし、そのようなことは従来の防災教育でほとんど説かれていませんから、いったん災害にみまわれると「なぜ自分たちだけがこんな目に会うのか」という不条理としてしか災害を認識できません。つまり、長い目で見れば災害が豊かな恵みをもたらしている事実に気づくことができず、言いかえれば災害が起きることの本当の意味がわからず、長い間苦しむ結果になることが多いのです。
 これからの防災教育は、まず火山を初めとする自然の造形をいつくしみ楽しむことを教え、それをつうじて負の面(災害)も含めた自然現象の本質を理解させ、知らず知らずのうちに防災の基礎知識を身につけさせることを目ざすべきと思います。

十 火山をいつくしむフランスの文化
 前節の最後に述べたような、理想的な防災教育を実現している国がフランスです。いつかフランスに旅行する機会があったら、まず書店に入って自然関係の図書のコーナーに行ってみてください。バードウォッチングなどの本と肩を並べるように、火山の基礎的な解説書、火山ウォッチングの解説書が所せましと並べられています。また、ビデオショップには、火山の解説ビデオも並べられています。
 それからフランスに行った時にぜひ訪れてほしい場所として、フランス中央山塊と呼ばれる丘陵地帯があります(図5)。そこには火山がたくさんあり、それらの火山の恵みを実は数多くの日本人が受け取っているのです。日本のスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで販売されているミネラルウォーター「ボルビック(Volvic)」のことです。

図5:シェヌ・デ・ピュイ火山群の位置を示す地図。


 ボルビックのラベルをよく見てください(写真7)。伊豆東部火山群とよく似た火山群の絵が描かれています。フランス中央山塊にあるシェヌ・デ・ピュイ火山群です。伊東市の水道山の例でわかるように、このような火山地域には豊富な地下水が湧き出ることが多いのですが、それを名水として世界に輸出しているのです。

写真7:ミネラルウォーター「ボルビック」のラベル。シェヌ・デ・ピュイ火山群が描かれている。


 シェヌ・デ・ピュイ火山群の近くの町(クレルモン・フェラン市)のみやげ物屋に、写真8のような絵はがきが売られています。シェヌ・デ・ピュイ火山群に属するさまざまな形をした火山の姿と、その生い立ちや噴火様式が解説されています。知的な観光資源として火山が取り扱われているわけです。シェヌ・デ・ピュイ火山群と伊豆東部火山群は同じ単成火山群ですから、大室山や一碧湖や矢筈山にそっくりな火山があります。つまり、伊豆東部火山群はフランスに兄弟がいるわけです。伊東市はクレルモン・フェラン市と姉妹都市になってもおかしくないくらい、その地学的環境がよく似ています。

写真8:シェヌ・デ・ピュイ火山群の火山観光絵はがきの例。フランスの大室山と呼ぶにふさわしいピュイ・パリュ山(スコリア丘,上),およびフランスの一碧湖と呼ぶにふさわしいパヴァン湖(マール,下)の写真と、それぞれのでき方が解説されている。



 火山群のハイキングガイドも売られています(図6)。どこに駐車をしてどこを歩くか、その場所の見どころは何か、その火山はどのようにしてできたのかなどが詳しく解説してあります。ごく一般のハイカーに対し、このように火山の魅力がアピールされているのです。

図6:シェヌ・デ・ピュイ火山群のハイキングガイド(シャミナ社)の一節。ハイキングコースの地図のほかに、火山のでき方が説明されている。



 シェヌ・デ・ピュイ火山群の中に注目すべき施設「火山のオープンエア・ミュージアム」があります(写真9)。小さな火山をまるまるひとつ削り取って採石として利用した跡地であり、火山のさまざまな内部構造がよく見えています。そこを公園化して観光地として売り出しているのです。公園の中にはビジターセンターがあり、資料展示室のほかビデオ上映施設と売店があります。シーズン中には、公園の中をガイドが一緒にまわって解説してくれます。この施設は一九九五年にオープンし、一九九六年には年間七万人の観光客が入ったそうですから驚きです。

写真9:「火山のオープンエア・ミュージアム」の看板。



 フランス本土以外の例も挙げておきます。カリブ海と大西洋にはさまれた西インド諸島の中にマルティニーク島というフランス領の火山島がありますが、そこを紹介する観光ガイドブックがいかに日本の観光ガイドブックと違って知的かということを以下に説明します。
 表紙からページをめくると、まず旅の基礎知識として、火山諸島である西インド諸島の生い立ちが美しいイラストで描かれています。それに続いて、その中のひとつの火山島であるマルティニーク島がどのようにして誕生したのか、どのような噴火が島で生じてきたかの説明が続きます(図7)。

図7:フランス領マルティニーク島の観光ガイドブック(ガリマール社)の一節。火山噴火の仕組みについての説明。美しいイラストが添えられている。


 マルティニーク島は、火山学者にとって非常に有名な島です。というのは、この島の北西にあるモンプレー火山が一九〇二年に噴火し、サン・ピエールという町が火砕流によって飲み込まれて二万八千人もの方が亡くなっているからです。そのような悲惨な火山災害を経験した土地であるにもかかわらず、そのことが観光ガイドにイラスト入りでしっかり解説されています。過去の災害を包み隠すことなく、観光資源のひとつとして積極的に取り扱っているわけです。しかも極めつけは、サン・ピエールの港にいた貿易船がその火砕流の直撃を受けて十二隻沈没したのですが、それらの沈没船の海底マップが掲載されており、また沈没船への潜水艇ツアーが紹介されています。
 以上の例からわかるように、フランスには災害を災害として忌み嫌わず、それらを観光資源として生かすさまざまな知恵と文化があるわけです。

十一 火山観光都市伊東の提案
 前節で述べたような例を、私はフランスでいくつも見て非常にショックを受けて帰ってきたのですが、その後日本もよく頑張っていると思う実例をいくつかみつけ、少し気が楽になっています。
 たとえば、淡路島の北淡町(ほくだんちょう)にある「野島断層保存館」という施設が、フランス人顔負けのことをしています。ここは一九九五年兵庫県南部地震による活断層のずれが出現した町として有名です。活断層のずれがはっきり現れた区画について国の天然記念物としての指定を受け、断層のずれを保存するために屋根をかぶせた施設としてオープンさせています。観光バスが何台も駐車できる立派な施設で、観光ルートにのって繁盛しています(写真10)。

写真10:淡路島北淡町にある「野島断層保存館」。断層のずれが屋根をつけて保存され、一部は掘り下げられて断面が観察できるようになっている。



 その横にある売店で「野島活断層マーブルケーキ」というお菓子(地層が液状化したような模様が入ったもの)を売っているのを見つけて、私は愕然としました(写真11)。さすがのフランスでも災害ネタをお菓子にした例は見ませんでした。災害体験を積極的に観光資源として生かす「地震の文化」が、被災地に根づき始めたひとつの証拠だと思います。日本人もフランス人と同じような発想の転換ができるじゃないかと驚いた次第です。

写真11:野島断層保存館のわきの売店で売られている野島活断層マーブルケーキと野島活断層玉ねぎパイ。


 静岡県にも積極的な自治体があります。一九九八年に浜松市とその周辺の自治体が共同で「浜名湖開湖五百年祭」という観光イベントを実施しました。何が「開湖五百年」かというと、実は一四九八年の明応東海地震のさいに起きた津波によって、それまで淡水湖だった浜名湖が外海とつながるという大事件がありました。その事件(開湖)から数えて五百年目が一九九八年だったというわけです。つまり、過去の津波災害をネタとして観光客を呼び込むという、発想の転換をおこなったイベントです。伊東市と同じ伊豆半島の函南町でも、一九三〇年北伊豆地震の時にずれた丹那断層を整備・公園化し、観光・社会教育施設としています。
 だから、その気になれば私たちはできるのだと思います。過去の災害履歴は観光資源としても使えるし、自然の成り立ちや保全についての学校教育・社会教育にも使えます。とにかく発想の転換とアイデアさえあればそのような試みが可能であり、現実に伊東市は世界に誇ることのできる火山観光資源をもっているわけです。
 火山観光都市伊東を実現するための、いくつかの具体的な提案を以下にあげて、本稿のまとめとしたいと思います。簡単に実現可能と思われるものから順に書きました。

火山観光パンフレット・ガイドブック・ホームページ
 火山ウォッチングのための基礎知識、楽しみ方、見どころなどの解説をおこなうパンフレット(宣伝と入門用)、ガイドブック(実際に現地を訪れる人のための詳しい解説書。できればドライブガイドとハイキングガイドの二種を作る)、インターネット上のホームページ(伊東の火山観光を世界に向けてアピール)、最低限この三点セットは必要であるし、作成のための費用がさほどかからない。すぐにでも作成に着手できる。
火山観光絵はがき・ビデオ
 フランスのみやげ物屋に並ぶものと同様の美しい火山観光絵はがきや、伊豆半島や伊東の火山の魅力を紹介するビデオを作成し、みやげ物屋や売店で販売したい。高級感を出すためには写真家・映像作家の協力を得る必要あり。
火山の造形解説看板
 パンフレットやガイドブックの予備知識なしに訪れる人たちのために、現地のみどころスポットには解説板が必要である。できればカラー写真やイラストを使用した、わかりやすいものとしたい(写真12)。また、解説板付近の遊歩道やハイキングコースを整備したい。

写真12:火山解説看板の一例。フランスの「火山のオープンエア・ミュージアム」内部にあるもの。崖に見えている火山灰の層が細かく解説されている。



火山ケーキ
 火山観光都市の名前にふさわしく、伊東にはさまざまな形をした火山がある。その代表的な3種類(大室山、矢筈山、一碧湖)の形を真似た可愛らしいケーキを作れば、たちまち話題となるだろう。
火山の郷の名水
 伊豆東部火山群の馬場平/鉢ヶ窪火山から湧き出す水道山の湧水は、その質・量ともにフランスのボルビックに匹敵するものである。この名水をペットボトルに入れ、火山の郷に湧き出す名水として販売しない手はない。
火山文学・火山ドラマ・火山マンガ
 伊豆の火山やそこに生きる人々をテーマとした随筆・小説・ドラマなどがあれば、火山観光への啓発効果は抜群であろう。他の地域の火山では手塚治虫「火の山」と有珠山、地域を限定しなければ宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」などの例が挙げられる。文学者や映像作家との共同作業が必要である。一般公募してもよい。
火山観光ビジターセンター
 火山観光のためのあらゆる情報を集約し、観光のプランニングに役立つセンターをどこかに設けたい。パンフレットを常置し、上記したガイドブックやみやげ物も販売する。また、美しい火山写真や解説資料・岩石試料などを展示し、ビデオ上映もおこなう。できれば学芸員も常置し、学校教育・社会教育現場に行って講義したり、現地観察会を催したりできれば最高である
火山観光姉妹都市
 伊東市と同じような地学的環境にある都市と姉妹都市関係を結び、さまざまな交流をおこない、誘客と地域振興に役立てる。具体的には、本稿で紹介した火山観光先進国フランスのクレルモン・フェラン市や、ニュージーランドのオークランド市(ともに伊東市と同じように単成火山群の中に発展した町である)が候補として挙げられる。
手石海丘海底散策ツアー
 一九八九年の伊東沖海底噴火で誕生した海底火山手石海丘への潜水艇観光ツアー。日本では大型の観光用潜水艇の調達が困難かもしれないが、前節で述べたようにフランス領マルティニーク島では実現しているので検討したい。潜水艇が無理なら、船上からのロボットカメラによる映像観賞でもよいだろう。
伊豆東部火山群オープンエア・ミュージアム
 現時点で伊東市内には火山体の内部構造がよく観察できる採石場や大きな崖が見当たらないが、同じ伊豆東部火山群が分布する近隣町村との共同事業ができれば、上述したフランスの「火山のオープンエア・ミュージアム」のような施設を建設可能だろう。具体的には、大仁町の高塚山採石場跡の学術的価値が高く、候補として挙げておきたい。

参考文献
本稿の内容についてさらなる興味をもたれた方々は、以下の文献を参照してください。
桂 雄三「断層を文化財として保存する」『月刊文化財』第四三三号 一九九九
川吉知子「野島断層の保存と活用について」『月刊文化財』第四三三号 一九九九
小山真人「伊豆半島の火山とテクトニクス」『科学』第六三巻 第五号 一九九三
小山真人「ヨーロッパ火山紀行」筑摩書房 一九九七
小山真人「地震学や火山学は、なぜ防災・減災に十分役立たないのか―低頻度大規模自然災害に対する“文化”を構築しよう―」。『科学』第六九巻 第二号 一九九九
小山真人「文献史料にもとづく歴史時代の伊豆半島東方沖群発地震史と東伊豆単成火山地域の火山活動史」『第四紀研究』第三八巻 第六号 一九九九
小山真人・早川由紀夫・新井房夫「東伊豆単成火山地域の噴火史2:主として32ka以前の火山について」『火山』第四十巻 第三号 一九九五
高橋正樹・小林哲夫編「フィールドガイド日本の火山(2)関東・甲信越の火山 II」築地書館 一九九九
早川由紀夫・小山真人「東伊豆単成火山地域の噴火史1:0〜32ka」『火山』第三七巻 第四号 一九九二


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