和文要旨
明治時代およびそれ以前における東伊豆単成火山地域の群発地震史を文献史料から調べ,噴火を類推させる地変記録についても検討をおこなった.群発地震については4事例(1868または1870年,1816-17年,1737年,1596年),噴火可能性については2事例(1854年,1777年)を検討した.
1868(または1870)年の地震記事は伊東付近で起きた群発地震記録と考えてほぼ間違いないこと,1816-17年の地震記事についても伊東付近の群発地震記述である可能性を指摘した.
19世紀以後,伊東付近においては上記2事例をふくめた1816-17年,1868(または1870)年,1930年,1978年〜現在の4回の群発地震記録(すなわちマグマ貫入事件の記録)が残されており,約50〜60年間隔で起きてきたように見える.
事例数が少ないため確かなことは言えないが,1978年以来現在も間欠的に続いている群発地震は,間欠的とはいえ21年以上にわたって継続している点において,過去の群発地震と特徴を異にしている.噴火の可能性については,検討した2事例とも否定的な結果が得られた.
I.はじめに
伊豆半島東方沖群発地震が,1978年以来間欠的に繰り返されている.この群発地震は東伊豆単成火山地域(図1)の地下浅所へのマグマ貫入にともなって引き起こされると考えられており(たとえば,Okada
and Yamamoto, 1991; Tada and Hashimoto, 1991;小山,1993;Ukawa and
Tsukahara, 1996),実際に1989年6〜9月の群発地震には小規模な海底火山噴火(1989年7月13日の手石海丘噴火)がともなった.1930年(昭和5年)2〜5月にも伊東付近で顕著な群発地震(伊東群発地震)と地殻の異常隆起があったことがよく知られており(たとえば,宇佐美,1996;気象庁,1990;加藤,1990a,
b),やはりマグマ貫入事件であったと考えられている(Kuno, 1954;東北大学理学部地震予知・噴火予知観測センター,1990).
図1 伊豆半島とその周辺地域.東伊豆単成火山地域の火道位置については小山ほか(1995),東伊豆単成火山地域の海側延長部をふくむ東伊豆沖海底火山群の火道位置については葉室ほか(1980)に従った.等高線の間隔は500mで,補助的に100mの等高線も示した.等深線の間隔は200m.四角枠は図2の範囲を示す.
1930年の群発地震は2月13日夜から有感地震が始まり,地震回数には2月後半〜3月と5月の2度のピークがあった.継続期間が3ヶ月以上に及ぶ長いものであったこと,有感地震回数が多かったこと(たとえば,3月の総計は2274回),マグニチュード(以下,M)5以上の地震(最大はM5.9)が10回以上に及んだ点が,1978年以来繰り返されている群発地震と異なる.1978年以来の群発地震については,継続期間の多くは1ヶ月以内,有感地震回数は最多であった1989年6〜9月でも総計494回,M5以上の地震回数は1回の群発地震につき2回以内である(気象庁地震予知情報課,1999).
伊東付近あるいはその周辺地域で繰り返される群発地震(すなわちマグマ貫入事件)の歴史や頻度を知ることは,東伊豆単成火山地域の火山活動史の解明や将来予測,地震・火山防災への寄与,さらには伊豆半島北東部から相模湾域にかけてのテクトニクス・地震テクトニクスを考える上で重要である(Koyama
and Umino, 1991;小山,1993,1994,1995).
東伊豆単成火山地域の過去15万年間の噴火史については,テフラ層序学の方法をもちいた詳細な検討がなされており,2.7kaから1989年までの間に噴火した証拠は見つかっていない(早川・小山,1992;小山ほか,1995).しかしながら,東伊豆単成火山地域の火山活動はマグマ貫入事件が主体を占めていると考えられるため(小山・吉田,1994;小山ほか,1995),地表地質調査によって得られる情報には限りがある.マグマ貫入事件の歴史解明や貫入頻度の推定には,文献史料にもとづいた群発地震史の解明が必須である.
しかしながら,1930年より前の歴史時代に東伊豆単成火山地域で起きた群発地震の時期や様相について,これまで十分な検討がなされたことはなかった.中央気象台が開設された1887年(明治20年)以降,1930年までの間には,伊東付近に被害をもたらすような顕著な群発地震の存在は知られていない.本研究は,それ以前の歴史時代の東伊豆単成火山地域の地震史を文献史料から調べた.また,地震だけでなく,火山活動を類推させる地変の記録についても検討をおこなった.
東伊豆単成火山地域は東海道などの主要交通路からやや離れた場所にあるため,その地域を襲った自然災害の歴史は江戸や京都で記された史料にほとんど記載されていない.伊東付近あるいは伊豆半島の地域史を扱った史料として,私撰のものとしては『豆州志稿(ずしゅうしこう)』(1800),『下田年中行事』(1843),『伊東誌』(1849),『増訂豆州志稿』(1895),『嶽南史(がくなんし)』(1931-1935)など,公撰のものとしては『小室(こむろ)村誌』(1913)などの各町村史,『静岡県田方(たがた)郡誌』(1918),『伊東市史』(伊東市史編纂委員会,1958,1962),『静岡県史』(1989-1998)などが知られている.いずれも近世以降の編纂史料であり,中世以前のまとまった古記録は皆無と言ってよい.
以上の史料には,日本の他の地方にも大被害をもたらした大規模地震(元禄関東地震,安政東海地震など)の東伊豆地域における被災記録が多数見出される.しかしながら,それらの地震以外の局地的な地震災害,ならびに火山活動を類推させる地変の記録はごく限られたものしかない.それらを時代の新しい順に以下に紹介し,検討をおこなう.ただし,本論では火山活動史(噴火史ならびにマグマ貫入にともなう地震史)の解明を主眼としているので,東伊豆単成火山地域以外での明らかな本震―余震型の地震(たとえば,享保十四年二月九日(1729年3月8日)の南伊豆地域の地震:宇佐美,1996;橋本,1989;地震予知総合研究振興会,1991)については扱わないこととする.
なお,本論においては,早川・小山(1997)および小山・早川(1998)の勧告にしたがって,明治六年改暦以前の和暦年月日を漢数字で表す.和暦から西暦への換算は,内田(1992)に従った.
II.19世紀以前の群発地震・火山関連事件
1.1868(または1870)年の群発地震
『小室村誌』(第十三目 天変地異 川奈区ノ部)に「明治元年 日々地震アリ 石垣土手ノ崩壊スルモノ甚ダ多カリキ」とある(史料1:末尾に示す).
田方郡小室村は,現在の静岡県伊東市川奈(かわな)・吉田・荻・十足(とうたり)地区に相当し,伊東温泉街の南側に広がる丘陵地一帯を占めていた(図2).1947年(昭和22年)に北隣の伊東町と合併し,現在は伊東市の一部となっている.
『小室村誌』は, 1913年 (大正2年)7月に発行された小室村の村誌である.体裁は手書きのガリ版刷であり,例言の署名には「編者一同」と書かれているのみで個々の編者名は不明である.この時代の他の県内町村誌とともに静岡県立中央図書館に所蔵されている.
田村(1986)によれば,1912年5月の静岡県知事の指示によって,静岡県下の自治体において郡誌ならびに町村誌の編纂事業が始められた.この編纂事業は,日露戦争後の政府主導による地方改良運動(疲弊した社会状況を救済・方向転換させる一連の政策)の一環としてなされたものである.つまり,『小室村誌』は,県知事の指示から1年ほどの時間をかけて,地元自治体(あるいはそこから依頼を受けた知識人たち)の手によって編纂された.
総計74ページの『小室村誌』の目次は,第一目「概説」,第二目「沿革」,第三目「名勝遺蹟」,第四目「神社寺院」,第五目「公衙学校等」,第六目「会社工場市場病院」,第七目「団体」,第八目「消防水防」,第九目「娯楽機関」,第十目「人物」,第十一目「口碑伝説」,第十二目「言語風俗歌謡俗謡」,第十三目「天変地異」,補遺の順となっている(ただし,第九目と第十一目は題目のみで本文記述なし).第一〜二目については,川奈区,吉田区,荻・十足区の3項目,第十三目については川奈区および荻・十足区の2項目に分けた記述がなされている.
第十三目「天変地異」において,川奈区ノ部は8ページ(1ページあたり13行)にわたって記述されているが,荻・十足区ノ部はわずか1項目6行の明治25年火災記事があるのみである.川奈区ノ部には,元禄十六年(1703)から大正元年(1912)までの飢饉・疫病・地震・津波・火事・難破などの23事件が記述されている(史料1).記述の出典として『恵鏡院過去帳』,『海蔵寺過去帳』,『蓮慶寺過去帳』,『川奈村百姓代源右エ門ヨリ安井□作ニ届出書』などが明記されている記事もあるが,出典史料名が挙げられていない記事もある(ただし,□は印刷のかすれによる難読文字).なお,恵鏡院,海蔵寺,蓮慶寺は,現在も伊東市川奈にある寺の名前である.
本節冒頭に述べた明治元年の地震記事には具体的な月日が示されておらず,出典史料名も記されていない.しかしながら,明治元年は『小室村誌』の編纂時期の45年前にあたり,編纂時には事件の体験者が多数生存していたと考えられる.実際に,その直前の慶応四年(1868)記事には編纂時に生存していた事件体験者の談話が採録されている.したがって,『小室村誌』の明治元年地震記事は,地震体験者の記憶をもとに書かれた可能性が高い.さらに,以下に示すように,この明治元年頃の小地震群の存在を示す別の史料(A)〜(B)が存在するため,この地震の存在自体は事実と考えてよいだろう.
(A)1930年(昭和5年)3月27日付の時事新報(東京に本社があった全国紙新聞)の記事において,東京帝国大学教授であった今村明恒が「私が伊東で会った土地の古老は,六十年前にもこんなことがあって二ヶ月も続いたと言った」という談話を残している.
この話は,東京帝国大学地震研究所今村研究室・東京帝国大学理学部地震学教室(1930)で,より詳しく以下のように記述されている.
「老人の話によると,此の地方では六十年程前にも地震が頻々として起り,三月二十一日に聞く所によればその時までに感じた今回の地震よりも強かったとのことであった.約二箇月間殆ど變はりなく毎日多数の地震があって,三箇月頃から減じたが半年程は時々揺れたさうである.川奈でも同様な話を聞いたが,その頃の事を知ってゐる土地の人は今度も二箇月位揺れたらば静まるであらうといって,思ったよりも落ち付いてゐる様であった.(三月二十四日記す)」
情報提供者の名前・住所・素性は記されていないが,「川奈でも同様な話を聞いた」と記しているからには,少なくとも2人の古老が同様のことを今村たちに語り,片方は(小室村)川奈の住人,そしておそらくもう一人は伊東(町)の住人だったのだろう.
(B)伊東市立西小学校(伊東市岡地区)が所蔵する『昭和五年二月十三日午後十時二十分 連続地震 伊東町附近ノ状況』という史料に,以下の記述がある.
「一、岡本郷区一老人ノ談
伊東町ニハ明治三年四月始メニ此ノ頃ノ様ナ小地震ガアリ連日震動シテ実ニ心配シタガ同年六月頃ニ至リ何時止ミタリトモナク終リタリ今度ノ地震モ同様デアルト同人ハ余リ心配モナイ様デアッタ」
伊東市立西小学校の前身は伊東小学校であり,上記史料は昭和5年当時の伊東小学校の校務日誌とともに,現在も西小学校に保存されている.これらの校務日誌には当時の新聞記事や,町役場が発行した地震にかんする広報の切り抜きなどが整理されていて貴重である(加藤,1990a,
b).
上記史料は,原稿用紙に毛筆で書かれたものであり,伊東群発地震中のさまざまな出来事が箇条書きの形で記されている.また,毎日の有感地震数をまとめた表も載せられている.おそらく当時の学校関係者が,校務日誌とは別に伊東群発地震全体をまとめて記録にとどめようとしたものと考えられる.
上記史料記述から,明治三年四月(1870年5月1日〜5月29日の期間に相当)初めから地震が始まり,同年六月(1870年6月29日〜7月27日の期間に相当)頃まで2〜3ヶ月続いて終了したことと,それが1930年(昭和5年)の群発地震に似ていたことがわかる.なお,「岡(おか)本郷区」は,当時の伊東町岡(おか)地区の一部(伊東温泉街を流れる松川の右岸一帯)である.
なお,岸上(1936)は,「伊東地震の際に土地の二,三の老人の話に約60年前にも小地震が多数起ったことがあったといふ,其の時は伊東の南の八幡野附近が強かったといふことを聞いた,伊東町の故牧野熈世氏の調べられた所によると其の時は明治三(1870)年であったといふ」と記している.牧野熈世は前述の伊東小学校の昭和5年当時の教員であり,自宅に地震計を設置するなどして今村明恒の調査にも協力しており,史料(B)の著者かもしれないという(加藤清志,私信,1999).このことから類推すれば,史料(A)の「伊東町の古老」は,史料(B)の「伊東町岡本郷区の老人」と同一人物かもしれない.
以上挙げた『小室村誌』の記述,ならびに史料(A)〜(B)から考えて,1930年の群発地震に先立つこと約60年前に,1930年とよく似た群発地震が伊東付近で起きたことはほぼ間違いないだろう.そして,その群発地震の継続期間は2ヶ月程度(あるいは2〜3ヶ月)であった(なお,史料(A)には,その後半年くらいは時々揺れたという記述もある).
ただし,この群発地震のあった年については,『小室村誌』は明治元年(1868年),上記史料(B)は明治三年(1870年)四月初め〜六月と食い違いをみせている.どちらの記述が正しいかは現時点では不明である.史料(B)については,土地の古老が「60年くらい前の四月初め〜六月」と話したことを受けて,たんに昭和5年(1930年)から60年を減じて明治三年(1870年)と記した可能性がないとは言えないだろう.1868年と1870年の2回あった可能性も現時点では棄却できないが,単一の地震・噴火が日付の誤記や誤解によってあたかも複数の類似事件があったように記録されてしまうことは,他地域で多くの例が知られている.積極的な証拠のない今は,単一の事件だったと考えるのが自然である.
なお,小室村の隣村の町村史である『田方郡伊東町誌』(伊東町は現在の伊東市湯川・松原・岡・鎌田・新井・玖須美地区にあたり,伊東温泉街を中心とした地域),『田方郡対島(たじま)村誌』(対島村は現在の伊東市八幡野・富戸・池・赤沢地区),『村誌宇佐美村』(宇佐美村は現在の伊東市宇佐美地区)など(いずれも1912年刊)には,同時期の地震記述はみられない.小室村をふくむ田方郡の町村誌にもとづいて編纂された『静岡県田方郡誌』(1918)には,上記明治元年地震記事および後述する文化十三年地震記事がそのまま引用されている.
伊豆半島周辺の他地域でも,1868〜69年の大規模地震の記録は知られていない.1870年については,5月12日に小田原でM6.0〜6.5の地震があったが伊豆地方での被害は知られておらず,それ以外の大規模地震の記録も知られていない(宇佐美,1996;都司,1979,1983).よって,上記した伊東での地震記録は,他地域で起きた大規模地震を伊東で感じた結果ではないだろう.
2.1854年の火気上昇?
『川路下田日記』に,「(嘉永六年,改元して安政元年)十一月九日 くもり又雨 下田より流失残のつかり桶をもち来りて,今日初てゆあみいたし申し候.御てらの客殿の椽頬也.○魯人より,一昨夜伊豆の山より火気上昇したり,もはや地震・つなみの気遣はなしと申来る.御安心成さるべしとの事也.これは西洋の説に,元来地震というものは,地中に有る火気の動く也と申す也(硫黄の気と申し候).夫故に,火気もれて上昇したれば,地震なしと察したるなるべし.其夜光り物の飛びたるは,土地の人もみたるよし也」(平凡社刊本「長崎日記・下田日記」による一部読み下し文.原文は東京大学史料編纂所編「大日本古文書」幕末外国関係文書附録の一に所収)とある.
『川路下田日記』は,江戸幕府の勘定奉行であった川路聖謨(かわじ としあきら)の日記である.この時川路は南伊豆の下田にいて,戦艦ディアナ号で来日していたロシア帝国海軍提督プチャーチン一行(上記記述中の「魯人」)と日露和親条約の締結交渉をおこなっていた.この直前の十一月四日(1854年12月23日)に安政東海地震が発生し,強震動と津波に襲われた下田の街は混乱状態にあった.プチャーチンと安政東海地震にかんする逸話は石橋(1994)に詳しい.
幕府側の応接掛のひとりであった古賀謹一郎の日記『古賀西使続記』にも「九日 (中略)峩使曰,伊豆山上,火気大発洩,震嘯自是止,幸勿惶怖,衆聞之悦」(東京大学史料編纂所編「大日本古文書」幕末外国関係文書附録の一に所収)とあり,『川路下田日記』とほぼ同じ内容が記されている.
「一昨夜(1854年12月26日にあたる)伊豆の山より火気上昇したり」(『川路下田日記』),「伊豆山上,火気大発洩」(『古賀西使続記』)と伝えられる現象を,どのように説明できるだろうか.東伊豆単成火山地域の火山分布は下田からそう遠くない天城山の南山腹にも広がっているし(図1),その中には堰口川上流火山や佐ヶ野川火山のような噴火年代不明の小型火山があるから(小山ほか,1995),未知の小規模噴火があった可能性を考慮すべきかもしれない.
しかしながら,山に囲まれた地形をもつ下田湾内からはせいぜい数km離れた山々が遠望できるだけであり,東伊豆単成火山地域を直接眺めることはできない.東伊豆単成火山地域に属する天城山南斜面を見るためには下田からかなり沖合いの海上にまで出る必要があるが,津波による竜骨の破損によって下田湾内で立ち往生していたディアナ号には無理だったはずである.
安政東海地震の直後に富士山が小規模な噴火を起こした可能性が指摘されているが(つじ,1992),下田湾内からは富士山も当然見えないし,かりに富士山と80km隔たる下田から望見可能な噴火であったとすれば,もはや小規模とは言いがたいだろう.
川路や古賀とともに下田に滞在していた奉行の村垣範正が著した『村垣淡路守公務日記』(東京大学史料編纂所編「大日本古文書」幕末外国関係文書附録の二に所収)によれば,村垣は江戸への報告のために十一月六日に下田を出発し,六日に梨子本村(おそらく現在の賀茂郡河津町梨本)に泊まり,翌七日に天城峠を越えて湯ヶ島を通り,七日夜は原木村(現在の田方郡韮山町原木)に宿泊している(図1).梨本から湯ヶ島付近にかけては東伊豆単成火山地域の一部にあたるが,村垣は余震や地震被害以外に何も異常現象を記していない.
以上のことから,プチャーチン一行がみた「火気」は,火山活動と異なる現象(山火事や野焼き等)であった可能性が高いだろう.該当しそうな天変現象は見あたらない(大崎,1994).『地震海嘯考』(作者不明,1855年松雲山房刊)に「安政元年十一月四日下田浦ノ海嘯モ山海光ル事数夜」とあることから(榎本,1999),津波発光であった可能性がある.あるいは,日本人たちを落ち着かせたり,交渉妥結を急ぐなどの理由でプチャーチン一行が創作または誇張をおこなったかもしれない.
なお,川路が「元来地震というものは,地中に有る火気の動く也と申す也(硫黄の気と申し候).夫故に,火気もれて上昇したれば,地震なしと察したるなるべし」と記している「西洋の説」は,当時の地震・噴火の原因説としては一般的なものであった(北原,1998).
3.1816〜17年の群発地震
『小室村誌』(第十三目 天変地異 川奈区ノ部)に,「文化十三年丙子年大地震(二四七六) 此年十一月十一日ヨリ十二月四日迄日々大地震アリシモ幸ニシテ人畜家屋ニハ故障ナカリキ」とある(史料1).
文化十三年十一月十一日〜十二月四日(1816年12月29日〜1817年1月20日)の間,毎日大地震があったけれども,幸いにして人畜家屋には被害がなかったことが,川奈区の出来事として語られている.なお,数字「二四七六」は神武紀元であり,次節の1777年記事もふくめた他の江戸時代記事にも付記されている.
『小室村誌』の編纂時期(1912〜13年)から100年近く遡った時代の出来事であることと,出典史料名が記されていないことから,この地震記事を単純に事実とみなすことは危険であろう.しかしながら,地震記事が具体的な月日を挙げていることや,この事件と近い時期にある文化八年(1811)疫病流行記事や文化十二年(1815)出火記事に出典史料名を挙げた詳しい記述がなされていることを考えると,必ずしも編纂材料のなかった時代とは言いきれず,出典史料名を明記し忘れた可能性や口碑伝承を拾った可能性もあるだろう.よって,今後の別史料の発見に待つところは大であるが,ここでは文化十三年地震記事を一定の史料価値をもつ記事として取り扱う.
この文化十三年地震記事については,前項の明治元年(または三年)の地震と同様に,やはり周辺町村の町村誌に類似した記録が見あたらない.また,伊豆半島周辺の他地域にも,この時期の被害地震や顕著な有感地震記録は知られていない(宇佐美,1996;都司,1979,1983).
よって,この文化十三年地震記事は,1868(または1870)年地震と同様に,局地的かつ長期間(ひと月弱)つづいた小地震群,つまり群発地震が1816年末〜1817年初頭にかけて川奈付近で生じた可能性を示すと考える.
4.1777年の降灰
『小室村誌』(第十三目 天変地異 川奈区ノ部)に,「安永六巳亥年(二四三七)十月三日ヨリ五日迄灰ニ似タルモノ降ル北風モ烈シカリキ」とある(史料1).
『小室村誌』の編纂時期(1912〜13年)から140年近く遡った時代の出来事であることと,出典史料名が書かれていないことから,前節の1816〜17年地震記事と同様に,この降灰記事を鵜呑みにすることは危険である.また,この安永六年記事は『小室村誌』天変地異目の中で二番目に古い時代の記事であり,もっとも古い元禄十六年(1703)記事と74年隔たっている.後に続く天明四年(1784)と天明七年(1787)の飢饉記事も出典史料名を挙げていないことから,編纂材料の乏しかった時代の記事であることがうかがわれる.ここではこの記事をかりに事実とみなして以下の議論をおこなう.
安永六年七月二十九日(1777年8月31日)から2〜3年間にわたって伊豆大島で大規模な噴火があり(伊豆大島火山のテフラ層序におけるY1.0噴火:小山・早川,1996),とくに安永六年の八〜十月は島内での降灰が激しかった.よって,風向きによっては伊豆半島での多少の降灰は十分考えられるだろう.しかしながら,伊豆大島の北西30kmにある伊東地域において「北風モ烈シカリキ」時に伊豆大島火山起源の降灰があるとは考えにくい.また,安永六年からの大規模噴火に対比されるY1.0テフラの等層厚線図をみると,分布軸は伊豆大島からみて東北東〜東方あるいは南西を向いている(小山・早川,1996).
『信濃國淺間嶽記』に「安永六年,焼くる事数次」とある(長野県小諸尋常高等小学校,1910;武者,1943).『信濃國淺間嶽記』を翻刻・校訂した萩原(1993)には,天明三年(1783)噴火を記述した部分だけが『信濃国浅間ヶ嶽の記(抄)』として示され,天明噴火より前の噴火年表が書かれていたという前文が省略されている.萩原(1993)によれば,同史料は,主として浅間火山の天明三年噴火を記録するために,天明六年(1786)に長野県北佐久郡塩名田宿の時々庵丸山柯則という人物が書いたものである.天明六年の9年前にあたる安永六年の記録にも一定の史料価値があると考えられる.
浅間山は明治以降にもたびたび噴火し,浅間山から東方170kmの水戸や南東130kmの東京でも降灰が観測されたことがある.1911年5月8日の爆発にともなう降灰域は,浅間山から南東方向を向き,相模湾に達したという(村山,1989).1961年8月18日の噴火においても降灰域が火口から南南東に伸び,三島・網代で降灰が観測された(気象庁,1962).以上のことと,浅間山が伊東地域の北北西170kmに位置することから考えて,『小室村誌』の安永六年降灰記録が浅間山起源であることは十分あり得ることである.
いずれにしろ,安永六年降灰記事は,それが事実であろうとなかろうと,伊豆半島外の火山噴火に起源を求めることによって十分説明可能であり,あえて東伊豆単成火山地域での噴火を考える必要はなさそうである.
5.1737年の群発地震
『硯屋(すずりや)日記』の元文二年五月十六日(1737年6月14日)条に,「出二郎申候,豆州三月より地震度々ニて熱海よし名修善寺などへ湯治ニ参人聞合見合致由ニ四月ニ至リ大地震度々ゆり申ニ付湯治ニ参病人皆々帰り候由,もつはら其さたニ候,惣テ伊豆湯本難義困窮ニ及事由,時節とは申ながらきのどく成事ニ候,当地よりもあたみへ参候人々早々帰り候,衆中方々に御座候由風聞ニ候」とある(都司,1983;東京大学地震研究所,1983).
『硯屋日記』は,駿府宮ヶ崎町(現在の静岡市宮ヶ崎町)の硯屋の主人であった弥惣次が記した享保十九年(1734)から元文四年(1739)に至る日記であり,静岡県立中央図書館に所蔵されている(静岡市役所,1979).
元文二年三月〜四月(1737年3月31日〜5月29日の期間に相当)に伊豆地方でたびたび地震があり,四月はとくに強いゆれが何度もあったという.このような地震の起こり方と,具体的な被害記事がないことから考えて,伊豆地方で発生した群発地震であった可能性が高いだろう.この時期,他地域での顕著な被害地震記録は知られていない(宇佐美,1996;都司,1979,1983).
この群発地震が東伊豆単成火山地域で起きた可能性は,現在のところ否定できない.しかし,伊東温泉への言及がないことや,熱海・よし名(現在の田方郡天城湯ケ島町吉奈)・修善寺の温泉客にかんする記述がみられることから,東伊豆単成火山地域とやや異なる地域の群発地震であった可能性も十分あるだろう(図1).次項で述べる1596年地震と同様に,現時点では東伊豆単成火山地域に限定して考えることはせず,今後の研究課題としたい.
6.1596年の地震
『増訂豆州志稿』(巻之一 祥異)に,「慶長元年丙申五月二日地震踰月(臆乗)」とある.
『豆州志稿』は,国学者・漢学者の秋山富南(ふなん)(秋山 章)が寛政十二年(1800)に完成させた伊豆地方の地誌である.『増訂豆州志稿』は,国学者・神道家の萩原正平(まさひら)・萩原正夫親子が『豆州志稿』に大幅な増訂をくわえ,
1895 年(明治28年)に完成させたものである.戸羽山 瀚が修訂をおこなった『増訂豆州志稿』の刊本が,1967年に長倉書店から刊行されている.冒頭の地震記事は,萩原親子によって書き加えられた部分にあたる.
上記地震記事の末尾に示された『臆乗(おくじょう)』という史料は,『増訂豆州志稿』の序文によれば,秋山富南が『豆州志稿』編纂に携わった間の見聞を書きとめた手記である.よって,上記地震記事は秋山富南が調査中に見聞したことの一部であるらしい.
上記地震記事をそのまま解釈すると,慶長元年(改暦の年にあたり,改暦前は文禄五年)五月二日(1596年5月28日)に伊豆地方に地震があった.「踰月」とは月を越えた,つまり次の月まで余震が続いた(あるいは群発地震が続いた)ことを意味すると考える.
宇佐美(1996)によれば,1596年の日本における被害地震として知られるものは,9月1日の別府の地震(M7.0±1/4)と,9月4日の伏見桃山地震(M71/2±1/4)だけである.都司(1979,1983)も伏見桃山地震を採録するのみである.よって,日付の記載違いがないとすれば,五月二日の地震はこれまで知られていなかった伊豆地方の局地的地震であると思われる.
伊豆半島北部には,1930年北伊豆地震の地震断層として有名な丹那断層がある.トレンチ調査によって,丹那断層には新しい方からA〜Iの9回の断層変位事件が確認されている(丹那断層発掘調査研究グループ,1983).このうち,事件Aは1930年北伊豆地震,事件Cは承和八年(841)の伊豆国の地震に対比されている(萩原ほか,1982).しかし,両事件の間にある事件B(およそ400〜900年前)に該当する地震史料がまだ見つかっていない.萩原ほか(1989)は,沼津市大平の『月ヶ洞文書』に書かれ,地変の跡も残るという応永九年(1402)の地震(つじ,1985)が事件Bに相当するかもしれないとしている.しかし,この地変の位置は丹那断層から離れた狩野川ぞいの低地なので,必ずしも丹那断層の活動にともなう地震と考える必要はないだろう.
いずれにしても,『増訂豆州志稿』の上記地震記事には具体的な被害記載がなく,地震が長期化したことだけが記されている.場所についての記載がないので確かなことは言えないが,内陸地震とそれにともなう余震活動という可能性のほかに,群発地震の記録である可能性を念頭に置くべきだろう.つまり,この1596年地震が丹那断層の事件Bである可能性とともに,過去の伊豆半島東方沖群発地震のひとつである可能性も考慮に入れ,さらなる調査をおこなうべきである.
III.議論
以上述べた6つの地震または地変記事のうち,1854年「火気上昇」記事については火山活動と考える根拠がなく,1777年降灰記事については浅間山(あるいは伊豆大島)起源として十分説明できることを述べた.また,残る4つの地震記事のうち,1868(または1870)年記事については伊東付近で起きた群発地震と考えてほぼ間違いないこと,1816-17年記事についてもやはり伊東付近の群発地震である可能性を指摘した.1737年および1596年記事にかんしては,群発地震の可能性は指摘できるものの場所の特定ができない(表1).
『小室村誌』の文化年間(1804-1818)より前の時代の天変地異記事としては,元禄十六年(1703)地震(元禄関東地震)記事,安永六年(1777)の降灰記事,天明年間の2つの飢饉記事(1784,1787年)の4記事のみがあり,いずれも簡単な記述にとどまっている(史料1).元禄地震については伊東地域における死者の数が『恵鏡院過去帳』にもとづいて書かれているだけで他の災害記述はなく,他の3記事には出典史料名が示されていない.文化年間以後,出典史料名を示した詳しい記事が目立つようになることからみて,『小室村誌』の編者たちは文化年間より前の時代にかんする編纂材料をほとんど収集できなかったとみられる.なお,『小室村誌』と同時期に成立した近隣町村誌における江戸時代の災害記録をみると,『田方郡伊東町誌』では元禄関東地震と文久三年(1863年)松川洪水の2事件,『田方郡対島村誌』では享保年間の水害記事のみ,『村誌宇佐美村』では元禄関東地震記事が記述されているだけで,記録密度は『小室村誌』より格段に劣っている.
以上のことから,18世紀やそれ以前の時代における伊東付近のはっきりした群発地震記述が知られていないことは,実際に群発地震が発生しなかったことを意味するのではなく,たんに江戸時代前半のこの地域における歴史記録の現存密度が小さいために(軽微な)自然災害記録が欠落していることを意味すると思われる.かりに1596年や1737年の地震記事が東伊豆単成火山地域で起きた群発地震だったとしても,16〜18世紀に複数回あった群発地震のうちの2回がたまたま記録に残ったと考える方が理にかなっている.
よって,ここでは18世紀またはそれ以前の時代に比べれば史料の現存密度が高いとみられる19世紀以降の伊東付近での群発地震史をとりあげ,発生間隔や継続期間の特徴を議論する.19世紀以後については1816-17年,1868(または1870)年,1930年,1978年〜現在の4回の群発地震記録(すなわちマグマ貫入事件の記録)が残されており,それらの間隔は古い方から52または54年,60または62年,48年であり,約50〜60年間隔で起きてきたと言える.小山(1993)は,この発生頻度をもちいて,マグマ貫入にともなう東伊豆単成火山地域の地殻拡大速度の見積りをおこなっている.
群発地震の継続期間については,1816-17年,1868(または1870)年,1930年の3事例においては,ほぼ1〜4ヶ月の間におさまっている.事例数が少ないため確かなことは言えないが,1978年以来現在も間欠的に続いている群発地震は,間欠的とはいえ21年以上もの長きにわたって継続している点において過去3回の群発地震と特徴を異にしている.このことの意味については,今はわからない.
IV.おわりに
以上,歴史時代の東伊豆単成火山地域の群発地震記事(および火山活動に関連する可能性のある地変記事)を文献史料にもとづいて検討した結果,以下のことがわかった.
1.取り上げた6つの地震または地変記事のうち,1854年「火気上昇」記事については火山噴火と考える根拠がなく,1777年降灰記事については伊豆半島外の火山起源として十分説明できる.また,残る4つの地震記事のうち,1868(または1870)年記事については伊東付近で起きた群発地震と考えてほぼ間違いないこと,1816-17年記事については伊東付近の群発地震記録である可能性を指摘した.1737年および1596年記事にかんしては,群発地震の可能性は指摘できるものの場所の特定ができないため,議論には加えなかった.
2.史料の現存密度が高いとみられる19世紀以後については,伊東付近において1816-17年,1868(または1870)年,1930年,1978年〜現在の4回の群発地震記録(すなわちマグマ貫入事件の記録)が残されており,約50〜60年間隔で起きてきたように見える.4回の群発地震のうち最新のものを除いた3回とも,その継続期間はほぼ1〜4ヶ月であった.1978年以来現在も間欠的に続いている群発地震は,間欠的とはいえ21年以上もの長きにわたって継続している点において,過去3回の群発地震と特徴が異なっている.
伊豆半島における史料の収集・解読作業は,市町村史の編纂事業が地域全体として低調のためもあって,他地域に比べ遅れているようにみえる.そのことが史料不足を招き,本論で扱った問題にかんする確度や精度の高い議論を阻んでいると言えよう.自然科学および災害史の視点も加えた,より一層の市町村史編纂事業の発展が望まれる.
謝辞
加藤清志さんには,伊東群発地震に関する伊東西小学校の所蔵史料を教えて頂きました.石川弘夫さん,山下 晃さん,鈴木慶三さんには伊東市内での史料調査の便宜をはかって頂きました.三宅康幸さん,石橋克彦さん,早川由紀夫さんには,『川路下田日記』の記述の存在について情報をいただきました.匿名査読者,加藤さん,早川さん,榎本祐嗣さんには草稿にたいする貴重なコメントをいただきました.山崎晴雄さんには,本論公表の機会を与えていただきました.以上の方々に深く感謝します.
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史料1 『小室村誌』の第十三目「天変地異 川奈区ノ部」からの抜粋.自然現象以外の記述については見出しだけを記し,記事内容を省略した.太字は本論文の筆者が書き加えた説明文.天保年間の2記事が文化年間の記事中に挿入され,かつ安永六年記事も慶応五年記事の直前に挿入されているため,記述の時間関係が多少前後している点に注意.□は印刷のかすれによる難読文字.
一、元禄十六年十一月廿三日夜
此ノ年諸国ニ大地震アリタル由歴史年表ニ見ユ時恰モ此ノ災ト時期ヲ等クセルモノニアラザルカ伊豆近海一帯ノ大海瀟アリ此ノ地モ亦大被害ヲ蒙リタルコト等伝説アリ然モ時代ノ変遷セル今日時ノ状況ヲ詳カニ探ルコトヲ絵ズ然シ古来ノ旧家大部分ノ罹災セシコトハ正ニ記スルヲ得
人畜死傷亦多数ナランモ今ニ判明セズ唯恵鏡院過去帳ニヨレバ其ノ壇徒ノミニテ三十二名トアリ其ノ他皆不明
一、天明四年大飢饉(以下略)
一、天明七年飢饉(以下略)
一、文化八年疫病大流行(以下略.『海蔵寺過去帳』を出典と明記する記事あり)
一、文化十三年丙子年大地震(二四七六)
此年十一月十一日ヨリ十二月四日迄日々大地震アリシモ幸ニシテ人畜家屋ニハ故障ナカリキ
一、天保七年(二四九六) 又々天下大イニ餓ユ(以下略)
一、天保八年 前年ニ引続キ困窮ス(以下略)
一、文化十二年出火(以下略.『川奈村百姓代源右エ門ヨリ安井□作ニ届出書』を出典と明記)
一、文化十五戌寅年 痘瘡流行(以下略)
一、嘉永七年(安政元年十一月三日)
此日冬至明四日辰ノ下刻ヨリ巳ノ上刻迄大地震潮之干満四ツ時ヨリ八ツ半頃マデ不止六ツ上刻ヨリ止ル夜ニ入リ五ツ半頃地震ソノ間少々宛震□又夜九ツ頃地震尤モ辰巳ノ刻程ニハ無之明五日無事当国下田大津浪家数七百余漂没ス駿州清水同断惣□西浦通大荒レ沼津三島ノ宿并惣ツブレ三島明神社内不残破費沼津は城大破ソノ他諸国大荒レ風聞故ふ可(恵鏡院過去帳)
即当日ハ潮ノ干満甚シク干ノ時ハ何町ト算スル程モ干タリ築島ハ全部水下ヨリ現レ碇泊舩ハ干汐浜ニ打チ上ゲラレタル有様人心胸々殆ンド我ヲ忘レテ老幼ノ高所ニ避難スル様惨憺ノ極ミナリキトイフ井水ハ全部カレ海岸ノ人家ハ皆空家同様ニシテ見番ノ若者連ハ各ク所々ニ陣取リテ警戒ニ力ムル等頗ル惨状ヲ極メタリ然レトモ人畜家屋ニハサシタル故障ナカリキ現ニ下田ノ津浪ト称シ老人ノ口碑ニ残レリ
一、安政五戌午年八月十九日(以下略:八丈島の疫病死者を蓮慶寺で埋葬したという記事.出典を蓮慶寺過去帳と明記.また,当時の患者のうちの生存者の談話引用あり)
一、文久二年七月八日(二五二二) 大はしか大イニ流行ス(以下略.『蓮慶寺過去帳』を出典と明記)
一、安永六巳亥年(二四三七)十月三日ヨリ五日迄灰ニ似タルモノ降ル北風モ烈シカリキ
一、慶応四年(明治元年)(以下略:「ええじゃないか」関連の神秘体験記事.体験者の談話あり)
一、明治元年 日々地震アリ石垣土手ノ崩壊スルモノ甚ダ多カリキ
一、明治十三年一月十日夜 川奈西町上原友三郎方便所ヨリ出火(以下略)
一、明治十九年八月ノ大コレラ(以下略)
一、明治二十五年四月九日大火(以下略)
一、明治二十九年六月十六日津浪、朝八時頃ヨリ少シ宛ノ津浪有シ□□□当区海際ノ者ハ恟々タリキ是即青森岩手宮城県ニ大津浪アリ所謂三陸海嘯ノ余波ナル由(恵鏡院過去帳)
一、明治三十五年一月十二日大火災(以下略)
一、明治四十一年四月八日 (以下略:川奈区住民の船の難破記事)
一、明治四十四年七月二十六日 (以下略:川奈区住民の船の難破記事)
一、大正元年九月一日大海嘯 此日昧爽ヨリ□爪□々トシテ起リ豪雨沛然トシテ来リ天候極メテ険悪既ニシテ山ナス波涛ハ岸ヲ噛ンデ物スゴクスハ海嘯□ト□ルマニ防波堤ヲ奪ヒ去リ陸上ヲ侵シテ忽焉海岸一帯ノ地ヲ崩壊シ人家ヲ倒□アマツサヘ港内碇泊ノ舩舶ハ或ハ全壊或ハ半壊其ノ惨惨タル光景□□人□□膽ヲ寒カラシメタリキ今左ニ当日ノ損害物件ヲ記サン(以下略)