静岡地学,第83号(2001)を一部修正(web化にあたって図表の一部を省略した)

火山としての富士山―その過去・現在・未来―

小山真人(静岡大学教育学部総合科学教室)

1.はじめに
 富士山は,10万年ほど前に誕生した火山です.その後,数百回にもおよび噴火と,数度の大規模な山体の崩壊をへた後,およそ1万年前から現在みられる美しい山体を成長させてきました.山麓に残されているおびただしい量の火山灰・火山礫・溶岩流などの噴火堆積物や,いにしえの人々が書き残した文字・絵画などの記録から,富士山の火山活動の歴史をさぐることができます.
 今から1万1000年〜8000年ほど前には大量(およそ40立方km)の溶岩が流出し,その一部は現在の三島市や山梨県大月市の猿橋付近にまで達しました.この時の溶岩の一部(三島溶岩)を,たとえばJR三島駅付近の道路ぞいや公園などで観察することができます.有名な柿田川の湧水は,この溶岩流の中の空洞をつたわってきた地下水が,溶岩流の末端からわき出たものです.
 およそ2500年前には富士山の東斜面が大規模な山体崩壊をおこし,崩落した土石がなだれ(御殿場岩なだれ)となって東側の山麓を埋めつくしました.現在の御殿場市や小山町一帯で,このときの堆積物をみることができます.大崩壊の直後の富士山は,今の姿からは想像しにくい醜い形をしていたと思います.しかし,その姿もまた変わりゆく自然の一幕なのです.その後もたびたびおきた噴火が大崩壊の傷跡をすっかり癒し,ふたたび富士山を美しい円錐形の火山に変えてくれました.
 人間が書きとめた富士山の噴火・噴煙・鳴動などの記録が,8世紀頃からさまざまな文書や絵図に残されています.よく知られた万葉集や更級日記にも,当時の富士山の噴火や噴煙の状況を知る手がかりが残されています.これらの記録から,歴史時代においても富士山が活発な火山活動をくりかえしてきたことがわかっています.以下では,富士山の歴史時代の火山活動についてやや詳しく述べるとともに,大地震との関連性,災害予測の現状,火山教育のあるべき姿などについて説明したいと思います.

2.歴史時代の富士火山
 表1は,歴史時代の富士山の火山活動年表です.●は信頼性の高い史料に記されている確かな噴火事件(数字は西暦年),○は確かな記録だけれども噴火とは断定できないもの,▲は信頼性の劣る史料だけに記されている疑わしい噴火事件,☆は富士山からただならぬ鳴動が聞こえてきたという事件,白十字は噴気(水蒸気主体の白い煙)を出したりその噴気の様子が突然変わったりした事件と思われるもの,×は富士山の真下で起きたと思われるやや規模の大きい地震です.そういった富士山に関する異常な事件を,今の日本で手に入るさまざまな歴史記録から集めてくるとこのような年表ができ上がります.

表1 富士山の歴史時代の火山活動史年表.数字はすべて西暦年.山頂に立ち上る煙の望見記事・不見記事は,つじ(1992)にもとづく.南海トラフ東部と相模トラフで生じたプレート境界地震も示されている(?のつくものは,まだ仮説段階のもの).小山(1998a)および小山(2000)を一部修正.


 図1は,表1の範囲である過去1200年の間に富士山のどこでどのような噴火が起きてきたかを表した図です.野外で実際に確認された噴火堆積物のうちで,表1に示した確かな噴火記録と対応をつけることができたもの(および,その候補)が示されています.数字は噴火の西暦年です.

図1 富士山の歴史時代(主として9世紀以降)の噴火堆積物分布(候補も含む).小山(1998a)を一部修正.太い数字は推定噴火年(西暦).細数字は標高.小山(1998a)および小山(2000)を一部修正.



 表1を見ると,噴火事件は平安時代に集中しているように見えます.ただし,平安時代の中ごろに国家事業としての歴史書編纂が絶えた結果,それ以後の地方の記録が残りにくくなっています.とくに,12世紀以降17世紀前半までの期間については噴火の記録がかなり欠けていると見るのが自然ですが,そのことを加味してもやはり平安時代にはたくさんの噴火事件があったと思われます.確かなものだけ数えても,平均して50年に一度ぐらいの割合でひんぱんに噴火していたようです.
 平安時代の貞観(じょうがん)六年(864年)には,富士山の北西山腹で大規模な割れ目噴火(貞観噴火)が起きました.このとき流出した0.2立方kmにおよぶ青木ヶ原溶岩によって湖が埋めたてられ,富士五湖のうちの3湖(本栖湖,精進湖,西湖)がほぼ現在の形になりました(図1).精進湖と西湖は,青木ヶ原溶岩によって分断される以前は,「せのうみ」と呼ばれるひとつの巨大な湖でした.その後,青木ヶ原溶岩の上には森林がよく成育し,現在の青木ヶ原樹海となりました.
 江戸時代の宝永(ほうえい)四年(1707年)に富士山の南東山腹でおきた噴火(宝永噴火)は,たった半月の間に0.7立方kmのマグマが噴出するという,富士山の噴火史上でも1,2を争うくらいの大規模かつ激しい噴火でした.宝永噴火は,東麓の須走(すばしり)付近で2m,横浜でも10cmほどの厚さの火山灰を堆積させた大噴火でした(図2).そのころ江戸に住んでいた新井白石の日記によると,この降灰によって昼でも行灯をつけなければならないほど空が暗くなったそうです.

図2 宝永噴火(1707年)の産物である3つの火口(図中の宝永火口I〜III)と,そこから放出された降下火山灰・火山礫の等層厚線(厚さの単位はcm)(宮地,1998).


 表1には,噴火以外の記録として,富士山頂に立ちのぼる煙の有無についての遠望記録も示されています.陰影をつけたバーで示してあるものが,富士山の山頂から煙が立ちのぼっていたとの確かな記録のある期間,縞々のバーで示したものが,富士山の山頂に煙が途絶えてしまったという記録が残っている期間,何も書いてないところは記録自体が知られていない場所です.
 これらの記録のほとんどは,富士山麓の東海道を旅した人が書いた紀行文や和歌です.それらの記録のほとんどは,煙を遠くから見たという以外には,降灰や鳴動などの噴火現象について何も語っていません.もし,山頂から立ち上る煙が噴火中の噴煙であったとすれば,降灰や鳴動の記録がないことはなはだ不自然です.おそらく,目撃された山頂の煙は,ほとんどの場合は噴火中のものではなく,山頂火口が単に熱をもっていたために生じた水蒸気の煙であったと思われます.
 そのような地熱活動にともなう煙は,ときどき途絶えてはまた復活するということを繰り返してきましたが,幕末以来ずっと途絶えっぱなしになっていることが表1からわかります.実は昭和時代の前半までは,煙こそ遠望できないものの,山頂のへりの一部に熱い蒸気が出ていたという記録がいくつか残っています.ところが戦後になると,その蒸気も途絶えてしまいました.ですから今のように山頂付近のどこの地面に手を触れても冷たいという期間は,歴史から考えれば特殊な時期にあたることがわかります.

3.関東地震・東海地震と富士山の火山活動の関連性
 表1には,もう1つ大事なことが示してあります.東海地震と関東地震がいつ起きてきたかです.破線で示してあるのが駿河湾あるいは南海トラフ東部で起きた東海地震,一点鎖線で示してあるのが相模トラフで起きた関東地震(ただし,?印は未確定)です.この表をじっくり見ると,何かしら富士山の火山活動の変化が,関東地震あるいは東海地震に伴って起きてきたのではないかと疑いたくなってきます.
 例えば,878年関東地震(?)を示す線上にいくつか富士山の火山活動事件があります.それから1096年東海地震,1433年関東地震(?),1498年東海地震を示す線の近くにも事件があります.とりわけ顕著なのが,1703年元禄関東地震と1707年宝永東海地震を示す線上です.たった4年隔てて関東地震と東海地震が立て続けに生じたという史上まれにみる大事件があったわけですが,そこにやはり富士山の火山活動変化が関連しているように見えます.
 1つは,1704年元禄関東地震から35日ほど経た頃,富士山から4日間にわたってただならぬ鳴動が聞こえたという記録が,沼津市の太泉寺というお寺の文書として残っています.元禄十六年の旧暦十一月に起きた関東地震による被害のことが書かれた後,十二月晦日に富士山が鳴った,年が明けて正月の二日と三日両日には大分に鳴ったということが述べられています.
 しかも,この文書は元禄十七年二月に教悦というお坊さんによって書かれたという署名がありますから,富士山鳴動事件からひと月ぐらいしか経ていない頃に記録されたことになります.つまり,体験者自身が地震のことと富士山の異常のことを書きとめておこうとして事件直後に書いた文書ですから,歴史記録としての第一級の信頼性を持っています.古文書の信頼性というものは一般に千差万別で全く信頼できないものも中にはありますが,この文書はそういう意味では相当信頼性の高い記録ということになります.
 ところが,鳴動という異常な出来事があったにもかかわらず,関東地震直後の富士山にはそれ以上の事件は何も起きなかったようです.噴火したという記録は一切ありません.ところが,それから約4年後の1707年に宝永地震と宝永噴火があいついで起きました.
 富士山の宝永噴火には実は前兆があったことが,信頼すべき別の文書に書かれています.たとえば,富士吉田市史の史料編(近世 I)に掲載されている『山田由富家文書』には,旧暦の十月四日に宝永東海地震が起きた後,「月を越えて十一月十日頃より富士山麓一日のうちに3,4度ずつ鳴動すること甚だし」と書かれています.
 つまり,宝永東海地震から35日ほど経た頃から,富士山から怪しい物音が聞こえてきたわけです.この時は鳴動だけでは納まりませんでした.十一月二十二日夜に有感の群発地震が起き始め,翌二十三日朝にとくに大きな地震があり,その直後に宝永噴火が始まったのです.
 以上の話をまとめたものが表2です.西暦で言うと,元禄関東地震から35日経た1703年12月31日から4日間にわたって富士山から鳴動が聞こえたけれど,その後は何事も起きませんでした.ところが,その約4年後に発生した宝永東海地震から36日経た頃より,1日のうちに3〜4度ずつ富士山から再び鳴動が聞こえ始め,さらに12日経た日の夜に群発地震が始まり,翌日(1707年12月16日)に宝永火口が噴火を始めたのです.

表2 元禄関東地震後の富士山鳴動事件と,宝永東海地震後の宝永噴火に至るまでの事件推移の比較(小山,2000).


 つまり,元禄関東地震の直後に富士山に鳴動事件が起きたけれど噴火には発展しなかった.噴火開始に失敗したわけです.ところがもう1回大きな地震(宝永東海地震)があったために,ついに噴火に発展してしまったというわけです.なぜ元禄の時は噴火に失敗し宝永の時は成功したのかという物理条件の差についての研究はまだ進んでいないのですが,震源断層運動による地殻ひずみの変化か,あるいは地震の揺れそのものが,富士山のマグマだまりに力学的な影響を与えて,鳴動や噴火を引き起こしたと言えそうです.
 私たちは,不幸なことに遅くとも21世紀半ばまでには次の東海地震を体験することになるでしょう.その前後に,富士山で何らかの異変があるかもしれないということを,表1は物語っています.そのことを十分念頭に置いて,これから様々な準備をする必要があると思います.次に述べる火山災害予測図や噴火シナリオ作成のための調査・研究もそのひとつです.

4.富士山の火山災害予測の現状
 1992年に国土庁が「火山噴火災害危険区域予測図作成指針」という立派な本をつくりました.火山の麓の自治体が,過去の噴火の歴史を探り,そこから様々な作業をして将来の噴火を予測し,それをどのような形で防災対策に役立て,住民に公表していくかというガイドブックです.
 この本の中で,実例のひとつとして富士山の火山災害予測が取り上げられ,いくつかの災害予測図(ハザードマップ)の試作品が掲載されています.たとえば,宝永噴火と同様の噴火があった場合に,火口位置,風向・風力,マグマ噴出率などの仮定値を与えた上で,降り積もるであろう火山灰の分布や降り始め時間などに関するシミュレーションを行っています(図3).

図3 富士山の火山災害予測図(ハザードマップ)の試作品の一例.1992年に作られたもの(国土庁防災局,1992).



 しかし残念なことに,これはあくまで暫定データにもとづく試作品であって,本来なら火山の地元自治体が主体となって作られるべきハザードマップは,富士山はもとより静岡県にある他の活火山(箱根山,伊豆東部火山群)についても全く作成・公表されていません.かたや日本の他の活火山については,立派なハザードマップが作られ住民に全戸配布されているものもあります(図4).

図4 火山のハザードマップの例.北海道駒ヶ岳火山のハザードマップ(駒ヶ岳火山防災会議協議会,1998).



 海外の例では,たとえばニュージーランドの北島にオークランドという大きな町があります.地学的な環境が伊東市とよく似た町で,伊東市が伊豆東部火山群(東伊豆単成火山群)の中にあるのと全く同じように,小型の火山の集まり(オークランド単成火山群)の中に町が作られています.
 オークランドでは,もう噴火を800年ほど体験していないにもかかわらず,綿密な火山災害予測結果を公表しています.そこでは単なるハザードマップの作成にとどまらず,代表的な5つの噴火シナリオを想定し,それぞれの場合での細かな被害予測をおこなっています.どこがどのような被害を受けるかが時間順にシミュレーションされ,電話線はどこが切れるかとか,水道管はどこでやられるとかの綿密な予測がなされています.
 このうちの噴火シナリオ3は,オークランド港のショッピングセンターの脇で激しい水蒸気マグマ噴火が起きることを想定しています(図5).噴火シナリオ4は,オークランド市街地の中心部で噴火が始まり,クイーン通りという町の目抜き通りを溶岩流が港まで流れ下り,溶岩流が港を埋め立てて広がっていくというシナリオです(図6).まるで映画のような話ですが,こういう作業を外国では平然と,かつ真剣におこなって,しかもその結果を市民に公表しているのです.

図5 オークランド単成火山群の噴火シナリオのひとつ(シナリオ3).港に火砕丘が誕生するシナリオ(Johnston et al., 1977).


図6 オークランド単成火山群の噴火シナリオのひとつ(シナリオ4).町の繁華街を溶岩流が流れ下るシナリオ(Johnston et al., 1977).


 災害予測の部分がないためにハザードマップとは言えないのですが,火山としての富士山の基礎知識をやさしく解説した市民向けのカラーパンフレットが最近作られました(建設省中部地方建設局富士砂防工事事務所ほか,2000).今後このパンフレットが契機となって,富士山のきちんとしたハザードマップや噴火シナリオが作られることを期待しています.
 しかしながら,ハザードマップや噴火シナリオの作成は,一朝一夕にはいきません.精度の高い災害予測をするために必要不可欠なデータ自体が,現状では圧倒的に不足しているからです.表1や図1のような形にすると,いかにも富士山の過去のことがよくわかっているように見えてしまいますが,富士山の噴火史にはまだまだ闇に包まれた部分が多いのです.たとえば,表1において信頼性の高い噴火とされた10事例の中でさえ,噴火堆積物との確実な対比ができたと言えるものは864-866年噴火(貞観噴火)と1707年噴火(宝永噴火)の2事例に過ぎず,781年,999年,1511年噴火については対比候補の見当さえついていません.
 富士山はその山体自体が大きいこと,山頂火口以外の山腹や山麓で起きる側噴火が多いこと,過去の噴火堆積物が調べられる崖や切り通しが少ないこと,五合目より高所については標高が高いうえに地形が険しく現地調査が困難なこと,日本の火山地質学者の数自体がそもそも少ないことなどの理由によって,富士山の噴火史調査は思うように進んでいません.
 前節で述べた1704年と1707年の2事例では,地震から35日ほど経てから地下での前兆的な火山活動が始まったことがわかります(表2).機器観測の発達した現代ならばもう少し早く異常をとらえられるにしても,前兆的火山活動開始から噴火までに十数日の余裕しかなかったことがわかります.地下の火山活動が始まってから(あるいは近隣地域での大地震が起きてから)噴火災害予測や被害対策を考え始めても十分なものを作る余裕は到底なく,しかも地震との複合災害となってしまうので,噴火単独を想定した被害対策をしていては話になりません.さらに,1704年のように噴火には至らなかった事例もあるので,その場合にはどの時点で噴火なしと判断するかも深刻な問題となります.これらの問題に対し,平常時である今こそ周到な準備や思考実験をしておく必要があります.

5.新しい視点での火山教育を
 最後に,市民に対する災害予測結果の情報伝達のしかたについても,考えを簡単に述べておきたいと思います.これまで作成されてきた市民向けの火山ハザードマップにおいては,災害を引き起こす主体としての火山の負の面だけが強調され過ぎていた傾向があります.
 火山は,いったん噴火を始めると恐ろしい災害をもたらし,人々の生命や財産をうばったりしますが,長い目で見ると人間に豊かな,他に代えがたい恵みをもたらしています.火山の麓には溶岩や火山灰などの噴火堆積物や,それらが浸食によって移動した泥流・土石流堆積物が積もることによって平坦な土地がつくられ,四季おりおりに人々がつどう憩いの場となったり,田畑や牧場や都市が作られたりします.富士山麓に広がる広大な裾野や平野が,まさにそのような土地にあたるのです.本来なら切り立った山地ばかりであったはずの場所に,広大かつ平坦な土地を供給してくれるものが,生きた火山の営みなのです.
 しかし,火山のさまざまな営みの中で,災害の面だけを無理やり切り取って怖さのみを強調し,目前の危険をとりあえず避けるための対策(たとえば,避難訓練や非常用品の備えなど)だけを訴えがちだったのが,これまでの防災教育でした.火山そのものの理解や火山がもたらす恵みについては,せいぜい前置き的に扱われるのみで重視されていませんでした.
 そのために様々な問題が生じています.災害の警告と対策の強調だけを毎回呼びかけられても,どうしたって飽きてきますから防災意識は低下しがちです.それに,自然現象そのものの理解を前提とした教育になっていませんから,自然現象や災害に対する想像力がどうしても欠如します.たとえば,多様な火山現象のそれぞれの特徴やメカニズムをある程度知っていれば,噴火災害が起きた時に自分の身の回りがどうなるかを容易に想像できますから,あらかじめ危険を避けて暮らしたり行動したりすることが可能です.しかし,現実には日当たりや交通の便だけで住む場所や通勤・通学路を決める人がほとんどです.
 さらに,これまでの防災教育は,長い火山の一生から見れば噴火災害がもたらされる時間が一瞬であることや,火山の恵みと災害が表裏一体の関係にあることについても,ほとんど何も教えてきませんでした.火山噴火がめったに体験できないことからわかるように,火山の恵みのほうが,火山がもたらす災害よりもはるかに長時間続きます.また,火山の恵みは,たとえば溶岩流や土石流によって谷が埋められて平らな土地が作られたように,災害があったからこそ成り立ってきたのです.
 しかし,そのような教育を受けていない人々は,いったん災害にみまわれると「なぜ自分たちだけがこんな目に会うのか」という不条理としてしか災害を認識できません.つまり,災害が長い目で見れば人間に豊かな恵みをもたらしている事実に気づくことができず,言いかえれば災害が起きることの本当の意味がわからず,長い間苦しむ結果になることが多いのです.
 以上のことから,これからの火山教育は,普段はなかなか意識できない火山の恵みをいつくしみ楽しむことをまず教え,それを通じて負の面(災害)も含めた自然現象の本質を理解させ,知らず知らずのうちに防災の基礎知識を身につけさせることを目ざすべきと思っています.そのような理想の災害教育が,美しい富士山を題材としてできれば,これ以上のことはありません.来年度スタートの学習指導要領から取り入れられる「総合的学習」のテーマのひとつとして,各学校や教育委員会で取り組んでみたらいかがでしょうか.
 なお,私の研究室のホームページ(http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~edmkoya/ )には,富士山や他の火山にかんする詳しい解説を載せています.また,政府主導のインターネット博覧会(インパク)の静岡県パビリオンでは,火山としての富士山をテーマとした「富士火山博物館」(http://www.7000m.com/inpaku/kazan/main/index.html),日本や世界の他の火山をテーマとした「世界火山シンポジウム」(http://www.7000m.com/inpaku/fujiworld/ )および「みんなでつくろう火山ウォッチングマップ」(http://www.7000m.com/inpaku/watching/ )などを今秋まで開催していますので,ぜひ一度ご覧になってみてください.

参考文献
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建設省中部地方建設局富士砂防工事事務所・山梨県・静岡県(2000):富士山火山防災ハンドブック.26p.
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駒ヶ岳火山防災会議協議会(1998):駒ヶ岳火山防災ハンドブック「火山科学と防災を知る」.18p.
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小山真人(1998b):噴火堆積物と古記録からみた延暦十九〜二十一年(800〜802)富士山噴火―古代東海道は富士山の北麓を通っていたか?―.火山,43,349-371.
小山真人(1999):地震学や火山学は,なぜ防災・減災に十分役立たないのか―低頻度大規模自然災害に対する“文化”を構築しよう―.科学,69,256-264.
小山真人(1999):日本の史料地震学研究の問題点と展望―次世代の地震史研究に向けて―.地学雑誌,108,346-369.
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小山真人(2001):火山がつくった伊東の大地と自然―火山の恵みを生かす文化構築の提案―.伊東市史研究,1(印刷中).
小山真人・早川由紀夫(1999):はじめての史料地震・火山学.地学雑誌,108,489-494.
宮地直道(1988):新富士火山の活動史.地質雑,94,433-452.
宮地直道(1998):富士火山―日本最高峰の成層火山をめぐって―.フィールドガイド日本の火山(2)関東・甲信越の火山 II(高橋正樹・小林哲夫編),築地書館,40-58.
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