富士山延暦噴火についてのまとめ

小山(1998)噴火堆積物と古記録からみた延暦十九〜二十一年(800〜802)富士山噴火―古代東海道は富士山の北麓を通っていたか―(火山,43,349-371)からの抜粋.

 富士火山の延暦噴火について,噴火堆積物と古記録両面からの検討をおこない,その規模や様相の解明をこころみた.また,延暦噴火による古代東海道の変遷問題について議論した.得られた知見を以下に述べる.

1.北東斜面に西小富士噴火割れ目をみいだし,そこを起源とするSb-aテフラの分布を明らかにした.富士山北東麓を広くおおう鷹丸尾溶岩と檜丸尾第2溶岩は,西小富士噴火割れ目を流出源とするように見える.西小富士噴火割れ目は延暦二十一年(802)の噴火記録に対応すると考えられる.また,北西斜面の天神山―伊賀殿山噴火割れ目も,延暦噴火の際の火口である可能性がつよい.

2.「宮下文書」の延暦噴火記事には,明らかな地質学的誤りや大幅な誇張があるが,地質学的事実と矛盾しない部分もある.注意を要する史料ではあるが,少なくともその噴火・古地理記事にかんしては口碑伝承や消滅文書中にあった真実の断片を拾っている箇所があると考えられるため,今後もその内容を検討する価値があると考える.

3.延暦噴火前の東海道が富士山の北麓を通っていたとする「宮下文書」の記事は,噴火堆積物の分布や古地理から判断すれば,むしろ自然である.しかし,歴史地理学的側面から考えると,北麓通過説には不利な点が多い.おそらく古代東海道は延暦噴火前も富士山南麓にあって,延暦噴火時に降灰やラハールの被害が出た御殿場付近の街道の使用を,被害の拡大を恐れて一時的に停止したというのが真相であろう.

 火山学・自然地理学・歴史地理学のいずれの見地からみても大きな矛盾なく古代東海道の移設問題を説明する仮説として,以下のものを考えた.

 もともと古代東海道の主道は,従来の歴史地理学的な常識の通り,富士山南麓から東麓を通過していた.また,御殿場付近から分岐して甲斐国府に向かう街道が,延暦噴火前には山中湖西岸を通っていた.この山中湖西岸の街道は,延暦噴火によって鷹丸尾溶岩・檜丸尾第2溶岩の下に埋もれてしまった.また,東海道の支道として利用されていた街道が富士山西麓をまわって〓{戈+戈+りっとう}ノ湖のわきを通り,北麓に通じていた.この支道が,やはり延暦噴火の際に天神山―伊賀殿山噴火割れ目から流出した溶岩流に埋もれてしまった.そして,東海道の主道が通っていた御殿場付近にもSb-aのスコリアが薄く降り積もった.また,大雨によって火砕物が洗い出され,ラハールが御殿場付近の谷筋を頻繁に襲ったかもしれない.

先に述べたように古代の駅路は緊急連絡用の道路であったから,少しでも交通の安全に問題があれば経路を変更する必要があったであろう.延暦噴火は,甲斐国へ至る街道を不通にさせ,さらには相模国への重要分岐点にあたる御殿場付近にも脅威を与え始めたのである.甲斐国府へは東山道を経るという手段があるが,相模国への経路に対しては何らかの手を打つ必要が生じた.

つまり,『日本紀略』の問題の記述「廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞道也」は,相模国に至る主街道ぞいの被害がさらに広がることを恐れて,降灰やラハールの被害が出始めた御殿場付近の街道の使用を一時的に停止した(そして,噴火が止んだのを見て,翌年復旧させた)とみるのが自然ではなかろうか.この場合,箱根越えの道についても,すでに存在していた支道を転用した可能性がつよいだろう.

すでに見てきたように,「宮下文書」の記述には,地質学的事実として認められる事件の伝承を拾ったと思われる部分もあるが,大幅な誇張や明らかな誤りもふくまれている.よって,東海道の経路や変遷を語る部分にも誇張があるとみるのが自然である.「宮下文書」中の延暦噴火による富士山北麓の東海道の被災記事は,御殿場付近から甲斐国府に至っていた街道や富士山北西麓を通っていた支道の被災の伝承を,大幅に誇張して伝えているのであろう.


インデックスにもどる