議論

 ここでは噴火年表からわかる火山活動の時系列上の特徴,および近隣地域で起きた大地震との関係を論じる.

 このような問題を厳密に論じる前には,史料の欠落期間の検討が十分になされるべきである.噴火記録がない期間があっても,それが本当に静穏期であったのか,あるいはたんに史料が欠落しているだけなのかを見極めなければならないからである.実際に古代から近世初期にかけては,史料の数そのものが少ないばかりでなく,現存するものについても欠落巻や欠落部分が多いことはよく知られた事実である.史料の欠落問題は,これまで火山学者や地震学者にほとんど認識されておらず,得られたデータセットが完全記録に近いものとみなされて安易に統計モデルが適用されたり,性急な結論が導かれたりしていた.

 しかしながら,史料欠落期間を明らかにする作業は,天変地異記録の有無にかかわらず,既知のすべての史料記述に丹念に目を通していく地道な仕事になるため,一朝一夕に片づく問題ではない.記録欠落期間を年表上にマッピングした上での厳密な議論は将来の課題とし,ここでは大ざっぱな史料現存状況の把握とそれにもどづいた若干の議論をおこなうにとどめる.

(1)天変地異記録の現存状況と火山活動の消長

以下,まず時代順に天変地異記録の現存状況について議論する.

 古代においてもっとも記録豊富な期間は,六国史(りっこくし)が扱っている時代範囲である.六国史は当時の朝廷が編纂した詳細な歴史記録であり,古い順に『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』である.ただし,『日本後紀』には大幅な欠落巻があり,Fig. 1の六国史のバーの空白部分に対応する(ただし,この欠落期間は『日本紀略』と『扶桑略記』によって,ある程度記録が補われている).六国史の特徴は,当時の中央集権制と陰陽道思想の流行を反映して,地方の国司からの天変地異報告が豊富に掲載されていることである.これに口碑伝承を拾ったであろう「宮下文書」が加わるので,この時期の富士山の噴火記録はかなりの程度遺漏なく集まっていると考えられる.

 六国史の記述は,仁和三年(887)八月をもって絶えている.その後の平安時代において地方に生じた天変地異記録については,いくつかの私撰国史(『日本紀略』『扶桑略記』『本朝世紀』など),寺社年代記(『興福寺年代記』など),および皇族・貴族の日記などが頼りとなるが,記録の量・連続性・現存状況において,六国史時代と比べて格段に見劣りしている.それにもかかわらず,この時期には信頼すべき噴火記録が多い(Fig.1).これに「宮下文書」中の記録を加えるとかなりの量になる.

 よって,六国史時代には及ばないが,887年以降の平安時代の噴火記録にも(具体的記述に乏しいとはいえ)遺漏は多くないとみてよいだろう(ただし,『日本紀略』や『扶桑略記』の記録が途絶えた12世紀については遺漏の程度が大きいだろう).

 以上のことから,11世紀以前の平安時代に富士山が頻繁に噴火を繰り返していたことは,ほぼ確実であろう.延暦噴火(800〜802年),貞観噴火(864〜866年),溶岩流が湖を埋めた937年噴火,溶岩流が山麓に達した1033年噴火がとくに大規模であり,鳴響が京都に達した可能性の高い1083年噴火は爆発的なものであったと推定できる.

 Fig. 1からは12世紀に入って火山活動が低下したようにみえるが,記録遺漏の可能性が高いので断定はできない.12世紀末より日本の政治の中心地は鎌倉に移り,以後東海道に文化人の往来が多くなる.鎌倉幕府の公式記録的な性格をもつ『吾妻鏡(あずまかがみ)』は1266年までの期間をカバーして多くの天変地異記録を載せているが,富士山に明らかに関係しそうなものは見あたらない.京都で記された貴族の日記にも富士山の異常は記されていない.

 以上のことから,鎌倉時代に富士山で規模の大きな噴火があった可能性は小さいだろう.ただし,東海道筋や鎌倉付近からは見えない北斜面や北麓での穏やかな噴火の可能性は否定できない.また,『吾妻鏡』の記録が絶えた1266年以後の鎌倉時代については,噴火記録が遺漏していたとしてもおかしくはない.

 1333年の鎌倉幕府の滅亡によって日本の政治の中心は再び京都に戻り,以後1603年の江戸幕府の開府頃まで南関東・東海地方の天変地異記録の乏しい時代が続く.この時代,東海道側から見た富士山の情報は,ときおり文人が富士山麓を通過した際に書いた和歌や紀行文などに限られている(鎌倉〜室町時代の和歌や紀行文中の富士山の望見記事が,つじ(1992)によってよく収集されている).

 しかしながら,山梨県側には,簡単な記述とはいえ天変地異記録の豊富な『妙法寺記』と『王代記』という2つの寺社年代記が現存し,北側からみた中世の富士山の貴重な姿を今に伝えている.両者がカバーする14世紀末〜16世紀の期間中に,富士山の北斜面において少なくとも2回の噴火が生じたらしいが,それ以外の時期について,および北斜面以外の場所についての記録は遺漏が多いだろうから,確かなことはわからない.

 以上のことから,15〜16世紀の富士山の2回の噴火記録は,たまたま記録媒体が今日まで保存されたために記録として残った可能性がつよいと言える.12〜16世紀の期間については,未知の噴火記録が今後発見される可能性が十分あるだろう.

 江戸幕府の中央集権体制が確立した17世紀以降は,言うまでもなく数多くの同時代記録が残されている.よって,宝永噴火を除けば,江戸時代以降今日に至るまでの富士山の火山活動は11世紀以前に比べて低調であったと言えるだろう.ただし,17世紀前半はとくに史料量が少ないので記録の遺漏があるかもしれない.また,今日においても近世史料は発見・収集の途上にあり,まだ世に知られていない史料が数多くあるとみられている.その中から1770年事件のような注目すべき記述が見つかる可能性は高いだろう.

(2)火山活動と大地震との関連性

 Fig. 1をもちいて,富士山の火山活動と近隣地域で生じた大地震との関連性について議論する.ここでの「関連性」は時間的な近接関係のことをさし,メカニズムについての定量的な議論はしない.両者の時間的近接関係についての議論は,これまで数多くの研究者によってなされてきたが(木村,1978;浜田,1992;上杉,1993など),それらのほとんどは史料の信頼性や史料欠落期間の有無を議論しておらず,問題の多いものであった(小山,2002b).

 つじ(1992)は,富士山の歴史時代の火山活動史研究において初めて本格的に史料自体の信頼性の吟味をおこない,富士山頂付近に望見された煙の消長(および噴火と地熱活動)と大地震との関係を議論した.そして,1361年の康安地震,1498年の明応地震,1605年の慶長地震,1707年の宝永地震,1854年の安政地震の5回の大地震(いずれも南海トラフ地震)を境として富士山の火山活動が活発化していると主張した.しかし,つじは相模トラフ地震を考慮に入れていないし,最初に述べた通り噴火史料の収集と吟味が十分とは言えなかった.

 以下,つじ(1992)の主張の検証も含めながら,時代順に富士山の火山活動と近隣地域の大地震(とくにM8クラス)との関連性について時代順に検討する.なお,南海トラフ地震については,富士山地域に大きな影響を与え得るのはその東部で起きる地震(つまり,東海地震)と思われるので,Fig. 1には南海トラフ東部が震源断層域となった地震だけを含め,1946年南海地震などの明らかに西部のみが動いたものを省いた.確定していない事項には「?」を付した.

 9世紀後半には878年の相模トラフ?地震と887年の南海トラフ地震が立て続けに起きた.その直前の十数年間に大規模噴火(864〜866年),噴火?(870年),噴気活動の高まり?(875年)が生じている.

 11世紀末(1096年)には永長東海地震が起きた.その約13年前の1083年に遠方にまで鳴響が達した爆発的な噴火があった.

 13世紀末から15世紀末にかけては,興味深い現象がみられる.1293年の永仁関東?地震の25年ほど前から,それまで望見されていた富士山頂付近の煙が途絶えた.途中ややデータを欠く期間があるが,次にふたたび煙が望見され始めたのが,康安南海トラフ地震(1361年)の前後(1350年から1367年までの間のどこか)からである.そして,永享関東?地震(1433年)の9年ほど前に再び煙が途絶え,明応東海地震(1498年)の17年ほど前からふたたび煙が見られ始めた.つまり,(康安地震との厳密な前後関係は不明であるが)関東地震に先だって山頂付近の地熱活動が低下し,東海地震に先だって活動が増加しているようにみえる.

 このことは,大地震がマグマ供給系に与える力学的影響の問題の考察や,富士山の噴火予知の観点から重要であり,今後十分な検討をおこなうべき課題である.なお,永享関東?地震の約2年後の1435(または1436)年に北斜面での噴火が生じており,地震の6年前の1427年にも噴火?があったかもしれない.また,明応東海地震の13年後の1511年にふたたび北斜面で噴火が起きた.

 明応地震の30〜40年後からふたたび望見できなくなっていた頂上付近の煙は,慶長南海トラフ地震(1605年)の直後の1607年からふたたび望見されるようになっている.しかし,慶長地震の前40年間ほどは,はっきりした望見史料がない期間にあたるので地震との関連性は不明である.天正十三年十一月(1586)に濃尾地方で起きた天正地震(M8クラス)との関連も調べるべきであろう.

 1703年の元禄関東地震の35日後から4日間にわたって鳴動が聞こえたが,噴火には至らなかった.1707年の宝永南海トラフ地震の後,山麓で鳴動と有感地震が起き始め,49日めの宝永噴火に至った.

 安政東海地震(1854年)と関連して2つの現象が起きた.まず,地震の当日と17日後に,小規模な噴火と解釈することも可能な現象が記録されている.また,山頂火口南東縁の荒巻付近の地熱地帯は安政東海地震を境として新たに生じたらしい.

 大正関東地震(1923年)の直後に,山頂火口東縁にあらたな噴気帯が生じたと解釈できる情報がある.その後の東南海地震(1944年)の前後は,第二次大戦中であったためか,富士山に地変が起きた証拠は見つかっていない.

 以上を通じて注目すべきこととして,史料不十分で判断不能の1605年地震と1944年地震を除いた残りの11地震のすべてについて,時間的に近接して(±25年以内に)富士山の火山活動になんらかの変化が生じていることがわかった.

 さらに,南海トラフ東部で起きる地震だけではなく,相模トラフで生じる地震も富士山の火山活動を変化させたようにみえることと,地震の後だけでなく地震の前に火山活動が変化する場合もあることが明確になった.このことは,火山活動をトリガーするメカニズムとして,震源断層運動や強い地震動による歪変化だけを考えるのではなく,地震に先立つ静的な歪変化を考慮に入れる必要性を意味する.


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