●承平七年(937)噴火

 平安時代末に成立した史書であり,史料価値の広く認められている『日本紀略』に「(承平七年)十一月某日,甲斐國言,駿河國富士山神火埋水海」とある.神火が水海を埋めたというのは,おそらく溶岩流が湖(または海)に流入したのであろう.奈良興福寺に伝えられた可能性の高い『興福寺年代記』(早川・小山,1998)にも「(承平)七 十一月富士山大埋海」とあり,ほぼ同じ内容である.
 武者(1941)は,『日本通記』から「(承平七年)十一月某日,甲斐國言,駿河國富士山神火埋水海」という記述を引用している.『日本通記』は長井定宗によって元禄十一年(1699)に書かれた通史である.噴火記述の内容が『日本紀略』と同じことから判断して,『日本紀略』から抜書きされたものであろう.
 なお,「宮下文書」中の2史料(『高天原変革史』,『寒川神社日記録』)にも承平七年噴火の記述があり,「承平七丁酉年十一月十三日(937年12月18日),富士山峯依り八方に噴火し,熱湯岩石雨嵐之如く雨等須響百電之轟くに似たる」(『高天原変革史』),「承平七酉年,富士山峯ヨリ熱湯八方ニ焼出成.澤米山尻ニて当ヒラハ止成」(『寒川神社日記録』)となっている.
 承平七年噴火については,溶岩流が湖(または海)に流入したという注目すべき記述がある.富士火山の歴史時代をつうじて外海(駿河湾・相模湾)に達した溶岩流は知られていない.富士五湖のいずれかに達した溶岩流としては,これまで本栖湖と〓{戈+戈+りっとう}ノ湖を埋めた青木ヶ原溶岩流と,山中湖に達した鷹丸尾溶岩流が知られていた.前者は貞観噴火に対比されるので,後者を937年噴火の産物と考える見解もあった.しかしながら,後者は延暦噴火の際に流出した可能性がつよい(小山,1998b).
 「宮下文書」中の複数史料には,延暦噴火や貞観噴火の際に流出した溶岩流が「御舟湖」という湖を埋めたという記述があり,「御舟湖」が描かれた「宮下文書」中の古絵図の検討の結果,その湖を埋積させた歴史時代の溶岩流として剣丸尾第1溶岩しか候補が見あたらないことを述べた(本論の貞観噴火の項,および小山,1998b). 剣丸尾第1溶岩の直下から9世紀なかば〜10世紀頃の陶器などが出土しているから,剣丸尾第1溶岩を937年噴火の産物とみなすことができる(小山,1998a).なお,富士吉田市付近では,実際に剣丸尾第1溶岩の分布の北縁に沿って湖沼堆積物が分布することが知られている(上杉,1998の付図).


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