「宮下文書」中の『噴火年代記』に「承平二年(932)十月十三日,富士山峯より八方に噴火至し,熱湯岩石大電にて如雨降る」とあり,これにもとづいた「富士史」(三輪,1906)の記述が武者(1941)に引用されている.
しかし,次項で述べるように「宮下文書」の『高天原変革史』にほとんど同じ記述があり,承平七年(937)十一月十三日の事件とされている.同じ「宮下文書」の『寒川神社日記録』にも承平七年の簡単な噴火記事があるが,承平二年噴火記事はない.一方,史料価値の高い『日本紀略』には次項で述べるように承平七年十一月の噴火記事がある.
『噴火年代記』中には元仁元年十月三日(1224年11月15日)に原本から筆写されたとの記載があるから(小山,1998),筆写の際に「承平七年十一月」を「承平二年十月」と誤記したと思われる.