●貞観六〜七年(864〜866初頭)噴火

 貞観六〜七年の噴火(貞観噴火)は,青木ヶ原溶岩が流出して富士五湖のうちの3湖(本栖湖・精進湖・西湖)がほぼ現在の形となった有名な噴火であり,歴史時代の富士火山の噴火中で,前述の延暦噴火,後述の宝永噴火と並んで,もっとも豊富な文字記録が残されている噴火でもある.
 前述の『日本三代実録』に「(貞観六年五月)廿五日庚戌(中略)駿河國言,富士郡正三位淺間大神大山火,其勢甚熾,焼山方一二許里,光炎高廿許丈,大有聲如雷,地震三度,歴十餘日,火猶不滅,焦岩崩嶺,沙石如雨,煙雲鬱蒸,人不得近,大山西北,有本栖水海,所焼岩石,流埋海中,遠卅許里,廣三四許里,高二三許丈,火焔遂属甲斐國堺」とある(1里=6町=2160尺≒650m,1丈=10尺≒3m).
 貞観六年五月二十五日(864年7月2日)に駿河国から富士山噴火の第1報が届いた.京都までの距離を考えると報告の内容はその数日前の状況を物語っていると言えよう.6月末時点においてすでに噴火が始まっており,流出した溶岩流が本栖湖に流入し始めていた.また,「歴十餘日」とあるから,噴火開始はその十数日前であったことがわかる.つまり,噴火開始は,おそらく京都に報告が届いた7月2日から20日ほど前の6月中旬であったろう.後述の「宮下文書」中の3史料は噴火開始日を五月五日(6月12日)としている.史料自体の信頼性に問題はあるが,一応矛盾はない.
 続いて噴火の第2報が,貞観六年七月十七日(864年8月22日)に甲斐国から京都にもたらされた.『日本三代実録』に「(貞観六年七月)十七日辛丑(中略)甲斐國言,駿河國富士大山,忽有暴火,焼碎崗巒、草木焦〓{きがまえ+ヨ+ンからヽをとった残り+攵},土鑠石流,埋八代郡本栖并〓{戈+戈+りっとう}兩水海,水熱如湯,魚鼈皆死,百姓居宅,與海共埋.或有宅無人,其數難記,兩海以東,亦有水海,名曰河口海,火焔赴向河口海,本栖〓{戈+戈+りっとう}等海,未焼埋之前,地大震動,雷電暴雨,雲霧晦冥,山野難弁,然後有此災異焉」とある.
 報告の日付から考えて,噴火開始から2ヶ月余り過ぎた時点での状況が語られている.溶岩流は本栖湖と〓(せ){戈+戈+りっとう}ノ湖(うみ)の2湖に流入し,多くの民家が溶岩流の下敷きとなった.また,溶岩流の別の流れは河口湖方面へと向かっている.さらに,湖への溶岩流入前に大きな地震があったことが語られている.
 同じく『日本三代実録』に「(貞観六年八月)五日己未,下知甲斐國司云,駿河國富士山火,彼國言上,決之蓍龜云,淺間名神祢〓{わかんむり+且}祝等不勤齋敬之所致也,仍應鎭謝之状告知國訖,〓{わかんむり+且}亦奉幤解謝焉」とあり,噴火開始から約3ヶ月後の貞観六年八月五日(864年9月9日)になって,朝廷は甲斐国に対して浅間名神を奉り鎮謝するよう命じている.
 これ以後,両国からの報告はしばらく途絶え,噴火開始から約1年半後にようやく次の記録があらわれる.『日本三代実録』に「(貞観七年十二月)九日丙辰,勅,甲斐國八代郡立淺間明神祠,列於官社,即置祝祢〓{わかんむり+且},隨時致祭,先是,彼國司言,往年八代郡暴風大雨,雷電地震,雲霧杳冥,難辨山野,駿河國富士大山西峯,急有熾火,焼碎巖谷,今年八代郡擬大領無位伴直眞貞託宣云,我淺間明神,欲得此國齋祭,頃年爲國吏成凶咎,爲百姓病死,然未曾覺悟,仍成此恠,〓{さんずい+頁}早定神社,兼任祝祢〓{わかんむり+且},々潔齋奉祭,眞貞之身,或伸可八尺,或屈可二尺,變體長短,吐件等詞,國司求之卜筮,所告同於託宣,於是依明神願,以眞貞爲祝,同郡人伴秋吉爲祢〓{わかんむり+且},郡家以南作建神宮,且令鎭謝,雖然異火之變,于今未止,遣使者檢察,埋〓{戈+戈+りっとう}海千許町,仰而見之,正中〓{うかんむり+取}頂飾造社宮,垣有四隅,以丹青石立,其四面石高一丈八尺許,廣三尺,厚一尺餘,立石之門,相去一尺,中有一重高閣,以石搆營,彩色美麗,不可勝言,望請,齋祭兼預官社,從之」とある.
 貞観七年十二月九日(865年12月30日),甲斐国八代郡に浅間明神の祠を立てて官社に列し,祭祀をおこなわせるという勅が下った.そして,その理由として「往年」に「富士大山西峯」が噴火したことを述べている.「往年」は前述した貞観六年(864)のことを指すだろうから,貞観六年の噴火は「富士大山西峯,急有熾火」,つまり富士山の西側斜面で起きた側噴火であったことがわかる.
 そして,注目すべきはその後の記述に,甲斐国司は神宮を立て祭祀を置いて鎮謝させたにもかかわらず,「異火之變,于今未止」,すなわち異火の変は未だ止んでいないとされていることである.つまり,貞観七年末(865年末〜866年初め)にも噴火が引き続いていたようである.ただし,先に述べた貞観六年七月十七日の甲斐国からの報告にある「溶岩流は本栖湖と〓{戈+戈+りっとう}ノ湖の2湖に流入し,溶岩流の別の流れは河口湖方面へと向かっている」という情景描写は,現在の青木ヶ原溶岩流の分布状況をほぼ満たしているから,溶岩流出のクライマックスは貞観六年噴火の初期にあったとみられる.貞観七年に起きた噴火は小規模あるいは二次的なものであろう.
 その11日後の貞観七年十二月二十日(866年1月10日),『日本三代実録』に「廿日丁夘,令甲斐國於山梨郡致祭淺間明神,一同八代郡」とあり,甲斐国山梨郡にも八代郡と同じように浅間明神の祭礼をするよう指令が下っている.ここまでが,当時の正史に残る貞観噴火関係の記述である.
 なお,武者(1941)は,『越後年代記』からの引用として「富士山噴火,當國へ灰ふる」を挙げている. 『越後年代記』 は紀興之によって編まれ,慶応二年(1886)に成立した史書であり,中世以前の記載については見聞を集めただけで考証不十分という(萩原・他,1989).噴火から約1000年後の史料でもあり,越後降灰という内容は信頼するに足りないだろう.
 また,「宮下文書」中の5史料に貞観噴火にかんする詳しい記述がみられる.
 『富士山貞観大噴火注進事』(以下,『貞観噴火注進事』)によれば,貞観六年五月五日(864年6月12日)に「西之峯」から噴火が始まり,溶岩流が2流に分れ,西の流れは〓{戈+戈+りっとう}ノ湖に流入して湖が3湖に分れ,東の流れは「御舟湖」を埋めたとある.
 『富士山大噴火都留駿河富士三郡変化記』と『不二山高天原変革史』(以下,『高天原変革史』)によれば,貞観六年五月五日に「西ノ峯(あるいは西野峯)」より噴火が始まり,〓{戈+戈+りっとう}ノ湖に流入して湖が3湖に分れたという点は,『貞観噴火注進事』と同じである.それに引き続いて貞観六年六月九日から十三日(864年7月16〜20日)の噴火によって別の溶岩流が生じて「御舟湖」を埋積し,七月下旬に至るまでの間に合計13ヶ所より噴火したという.
 『富士山中央高天原変化来暦』と『寒川神社日記録』によれば,貞観六年に溶岩流が13ヶ所から流出して,〓{戈+戈+りっとう}ノ湖(あるいは西大海)が3湖(あるいは2湖)に分れた.また,御舟海(御舟湖)も溶岩流に埋め立てられて狭くなったという.
 以上5史料の間に細かな食い違いはあるが,共通しているのは,〓{戈+戈+りっとう}ノ湖に流入した溶岩流(青木ヶ原溶岩流)の他に,もうひとつ東側に溶岩流の流れがあり,それが「御舟湖」という湖に流入して大部分を埋没させたという,『日本三代実録』にはみられない記述である.なお,『富士山噴火年代記』(以下,『噴火年代記』)にも貞観噴火の記述があるが,噴火後の溶岩流分布についての簡単な記事のみである.
 実は,「御舟湖」という湖には延暦噴火の際にも溶岩流が流入したという内容が「宮下文書」中のいくつかの史料に述べられている(小山,1998b).小山(1998b)は,「宮下文書」中の古絵図を検討し,(1)御舟湖が現在の河口湖と富士吉田の間に描かれていること,(2)その場所にあったとされる湖を埋没させることのできる歴史時代の溶岩流としては剣丸尾第1溶岩しか候補が見いだせないことを述べた.
 しかし,剣丸尾第1溶岩の直下からは9世紀なかば〜10世紀頃の遺物が出土しているから,後述するように937年噴火時の溶岩流とみるのが妥当であろう(小山,1998a).つまり,864年の溶岩流が御舟湖を埋没させたという「宮下文書」の記述は,上の出土遺物の年代観が正しければ,誤りと思われる.


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