延暦噴火のところで述べた『富士山記』には,富士山についての伝聞記事がいくつか含まれる.その中に「承和年中,従山峯落来珠玉,玉有小孔,盖是仙簾之貫珠也」とある.つじ(1992)は,この記述中の「珠玉」を軽石とみなし,軽石噴出をともなう噴火が承和年間(834年2月12日〜848年2月8日)中に生じたと考えた.
しかしながら,過去1万年間の富士火山において軽石が噴出したのは宝永噴火と約2900年前の砂沢スコリア噴火の2回(それぞれの噴火の初期段階)が知られているだけである(荒井・小山,1996).「珠玉」をスコリアとみなす考えもあろうが,富士火山地域に大量に堆積しているスコリアを,わざわざ特定年間の降下物として珍重し伝承する必然性は考えにくい.なお,朝廷編纂による史書『続日本後紀(しょくにほんこうき)』には承和年間のすべてが欠落なく含まれているが,この時期の富士山噴火の記述はみられない.
『続日本後紀』には,承和五年(838)に伊豆七島の神津島火山が大規模な珪長質火砕噴火を起こしたことが記述されている.この神津島テフラの分布軸は北西に向いており,駿河国や甲斐国にも降下したことがわかっている(小山・早川,1996).おそらくこのテフラ降下を体験した人々の間で,上記の伝承が生まれたのだろう.