●延暦十九〜二十一年(800〜802)噴火

 『日本紀略(にほんきりゃく)』『富士山記』などの史料価値の広く認められた史料,および「宮下文書」に,延暦十九年(800)から二十一年(802)にかけての一連の富士山噴火(以下,延暦噴火)記事がある.
 正史またはそれに準じる史料価値の高い史料中の延暦噴火の記述として,以下に記すA〜Cの3つが古来より知られている.
(A)平安時代末に成立した史書『日本紀略』に,「延暦十九年六月(中略)癸酉,駿河国言,自去三月十四日,迄四月十八日,富士山嶺自焼,晝則烟気暗瞑,夜則火光照天,其聲若雷,灰下如雨,山下川水皆紅色也」とある.延暦十九年に噴火が三月十四日から四月十八日まで(800年4月11日〜5月15日)ほぼひと月続いたこと,噴煙のために昼でも暗く,夜は噴火の光が天を照らし,雷のような鳴動が聞こえ,火山灰が雨のように降ってふもとの川が紅色に染まったことが記述されている.
(B)同じく『日本紀略』に,「延暦廿一年正月(中略)乙丑(中略)駿河相模国言,駿河国富士山,晝夜〓{火+亘}燎,砂礫如霰者,求之卜筮,占曰,于疫,宜令両国加鎮謝,及読経以攘〓{宀+火}殃(中略)五月(中略)甲戊,廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞道也」とある.富士山が噴火して砂礫があられのように降ったことを,駿河国と相模国の国司が延暦二十一年正月八日(802年2月13日)に報告してきている.同年五月十九日(802年6月22日)には富士山の噴火による砕石によってふさがれた足柄路を捨てて,箱根路(筥荷途)を開いたことが記されている.なお,この箱根路は約1年後に廃され,足柄路が復旧された.『日本紀略』に「廿二年(中略)五月(中略)丁巳(803年5月31日),廃相模国筥荷路,復足柄舊路」とある.
 以上AとBの二つの記述からは,(1)延暦噴火の最初のステージが,延暦十九年の三月〜四月にかけてほぼひと月つづいた降灰の激しい噴火であったこと,(2)さらに延暦二十年から二十一年初頭?にかけて降灰の激しい噴火があり,噴火堆積物によって旧道がふさがれてしまったこと,の2点がわかる.なお,以上二つの記述の出典を『日本後紀(にほんこうき)』とする研究や解説文がしばしば見られるが,『日本後紀』の該当年の巻は現存しておらず,正しくは『日本紀略』である(この時代について『日本紀略』はおおむね『日本後紀』から抄出しているが,『日本後紀』の本文そのものではない点に注意が必要である).
(C)以上二つの記述のほか,平安朝廷に仕えた都良香(みやこのよしか)が9世紀後半に著した『富士山記』(11世紀成立と言われる漢詩文集『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』にふくまれる)には,「山東脚下有小山,土俗謂之新山,本平地也,延暦廿一年三月,雲霧晦冥,十日而後成山,蓋神造也」とある.延暦二十一年の三月に富士山の東斜面において噴火?が生じ10日後までに新山が誕生したことを伝え聞いたという記述である.
 つじ(1992)は,この史料にみられる「新山」を現在の富士山東斜面にある「小富士」と呼ばれる尾根状の凸部であると解釈し,延暦噴火時の側火山と考えた.現在の小富士の表面は不均質な岩質の緻密な火山岩からなる大小のブロックでおおわれており,スコリアはほとんどみられない.仮に側火山体の一部とするなら,スコリア丘ではなくタフリングの一部であろう.しかし,タフリングに通常ともなうべき火口地形がないため,歴史時代をふくむ新しい時期の噴火の産物ではなさそうである.津屋(1968)も,小富士を富士火山の旧期側火山と考えている.
 一方,「宮下文書」の延暦噴火にかんする記述は詳細かつ膨大である.それらの主要なものは小山(1998b)によって翻刻されている.
 小山(1998b)は,噴火堆積物と古記録両面からの検討をおこない,「宮下文書」の史料価値の検討ならびに延暦噴火の規模や様相の解明を試みるとともに,延暦噴火による古代東海道の変遷問題について議論した.小山(1998b)によって得られた知見を以下に挙げる.
1.北東斜面に西小富士噴火割れ目をみいだし,そこを起源とするSb-aテフラの分布を明らかにした.富士山北東麓を広くおおう鷹丸尾溶岩と檜丸尾第2溶岩は,西小富士噴火割れ目を流出源とするように見える.西小富士噴火割れ目は延暦二十一年(802)の噴火記録(上記C)に対応すると考えられる.また,北西斜面の天神山-伊賀殿山噴火割れ目も,延暦噴火の際の火口である可能性がつよい.
2.「宮下文書」の延暦噴火記事には,明らかな地質学的誤りや大幅な誇張があるが,地質学的事実と矛盾しない部分もある.注意を要する史料ではあるが,少なくともその噴火・古地理記事にかんしては口碑伝承や消滅文書中にあった真実の断片を拾っている箇所があると考えられるため,今後もその内容を検討する価値がある.
3.延暦噴火前の東海道が富士山の北麓を通っていたとする「宮下文書」の記事は,噴火堆積物の分布や古地理から判断すれば,むしろ自然である.しかし,歴史地理学的側面から考えると,北麓通過説には不利な点が多い.おそらく古代東海道は延暦噴火前も富士山南麓にあって,延暦噴火時に降灰やラハールの被害が出た御殿場付近の街道の使用を,被害の拡大を恐れて一時的に停止したというのが真相であろう.


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