2.史料にもとづく富士山の歴史噴火研究史

 富士火山には,古代から江戸時代にわたるいくつかの噴火記録が古くから知られており,江戸時代に書かれた『日本王代一覧』や『和漢年契』を初めとするいくつかの年代記・年表には,すでに延暦十九年,貞観六年を初めとするいくつかの富士山噴火の記述がみられる.

 幕末期になるとドイツの東洋学者TitsinghとKlaprothが『日本王代一覧』を翻訳・刊行したり(Titsingh and Klaproth, 1834),日本でも名高いドイツ人医学者シーボルトが『和漢年契』などにもとづいた日本年表を作ったことによって,富士山の噴火史の一部が初めて西洋の学者の目にさらされることとなった.シーボルトの日本史年表(Siebold, 1832)には,延暦十九年から宝永四年にいたる富士山の6噴火が含まれているが,噴火したということ以外の具体的記述はみられない.

 明治政府の招きで来日したドイツの地質学者Naumannが最初に注目したことのひとつに,日本の地震や火山噴火の歴史がある(山下,1990).Titsinghたちの年表がすでに念頭にあった彼は,来日後に収集した史料にもとづいて日本の被害地震カタログを作ると同時に,伊豆大島や浅間山の歴史噴火年表を作り,さらに富士山の宝永噴火を詳しく記述した(Naumann, 1878).

 その後,地震史・噴火史の研究を離れたNaumannの仕事を継続したのが和田維四郎(わだ つなしろう),J.Milne,小鹿島 果(おがしま はたす)たちであった.和田は,山梨県富士吉田での史料調査にもとづいて延暦十九年,貞観六年,宝永四年の噴火など8回の事件をリストアップした(和田,1884;Wada, 1884).また, 内務省地理局(1884)は12事件を挙げたリストを示している.

 Milne (1886)は,日本最初の活火山カタログとも言える大著「The Volcanoes of Japan」の中で,神話時代の伝説や崩壊記事も含む18事件を富士山の噴火史年表として掲げた.その後,河井(1889)は7噴火を挙げるにとどまったが,小鹿島(1894)は『日本災異志』の中で富士山の12の噴火・崩壊事件を挙げている.

 その後も平林(1898),大森(1918),井野邊(1928),村山(1989)などが,富士山の歴史時代の噴火・崩壊記述をまとめているが,基本的にはMilneのまとめたリストから大きくは進歩していない.井野邊(1928)は和歌や紀行文中の富士山望見記事を多く集めており,後の都司らの研究に発展する素地を作った.

 以上の研究に共通して言えることは,史料に書かれたことをそのまま事実として扱っており,個々の史料の出自や性格による信頼性の吟味がほとんどなされていないことである.

 その後,都司・井田(1988),つじ(1992)は,富士山頂から立ち上る煙の望見記事を紀行文から和歌にいたるまで徹底的に収集し,煙が見えた時期と見えなかった時期のマッピングをおこなった.都司らの仕事は史料の信頼性の吟味にまで踏み込んでいるが,煙の望見記事の収集・検討が主体となっており,噴火記事の収集と吟味については十分でない.

 また,都司らは噴気(水蒸気主体)と噴煙(火山灰と火山ガスの混合物)の区別をしていない.噴気は気象条件によっては地熱地帯から生じることもあるから,噴煙との区別は基本的に重要である.しかしながら,そもそも和歌中の情報から両者を区別するのはほとんど不可能であるし,紀行文などの遠望記事でも困難な場合が多い.煙の望見記事について本論では,「夜間に炎が見られた」「山頂方向から鳴動が聞こえた」などの火山活動の高まりの証拠が併記されている場合に限って,それを取り上げて検討する.


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