★大正12年(1923)あらたな噴気

 上村(1994)によれば,1923年(大正12)9月1日に起きた大正関東地震後の国民新聞(日付不明)の記事に,沼津測候所の井手東一技手が地震後はじめて富士山頂を調査したところ,山頂火口東側の伊豆ヶ岳(前述の「荒巻」の北)に長さ90cm,幅45cmの新しい噴気孔が現れて蒸気を噴き上げていたという記述があるという.この記事そのものはまだ確認できていないが,沼津測候所による山頂火口調査報告の全文(沼津測候所から当時の静岡県知事に提出された復命書)が最近発見され,現在は沼津市明治史料館に保管されている.
 この復命書は,1923年10月9日に沼津測候所技手の井手東一から静岡県知事道岡秀彦に宛てられた11ページの手書きのものであり,他の書類と一緒に綴じられ,表紙には「大正十二年分 静岡縣廰往復文書綴 沼津測候所」と記されている.復命書の内容は,井出自身による富士山頂を含む富士山周辺地域での被害や地変の観察事実の報告である.
 それによれば,井出は10月3日に沼津測候所を出発して高根村役場(現静岡県御殿場市),須走村(現静岡県小山町),富士山頂,須走口登山道,御殿場口登山道,宝永山,印野村および玉穂村(現静岡県御殿場市)などを調査し,10月5日に測候所に帰着している.富士山頂に関しては「噴火口ニハ異状ナシ」とするものの,火口周辺の亀裂や噴気の様子に関する詳しい観察結果を載せている.とくに噴気に関する記述全文を以下に挙げる.
「伊豆嶽ニ楕円形(長径三尺短径一尺五寸)ノ噴気口ヲ生ズ其他数ヶ所小噴気口アリ而シテ其付近ノ岩石ハ崩壊セルヲ見ル噴気口内ノ温度ハ五十度以上ナルベク少ク窪ミ居レリ」
「内院ノ北々西隅ニ火気アリ折々煙ヲ吐キ出スモノノ如ク見ユ或ハ噴気口アリテ蒸気ヲ吐クモノカ当日烈風ナリシ為区別シ難カリシガ兎ニ角危険ノ状態トス」
 さらに,復命書には山頂火口の概略図が描かれており,北東火口縁の伊豆嶽にひとつと,北西火口縁の山頂火口壁の最上部にひとつの,計2つの噴気口が朱書きで示されている.
 以上の内容から考えて,井出はこの2つの噴気口を新たに生じたものと判断したように思われる.この時期以前の山頂火口を詳しく描写した記録が見つからないため確かなことは言えないが,山頂火口の噴気の位置や状態に変化があったと思われる.


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